川崎の痛ましい事件から大人は何を学び行動しなければならないか

もう川崎の痛ましい少年の殺人事件から1ヶ月が過ぎようとしています。テレビや新聞では毎日のように事件の動機や背景を報道していましたが、最近はあまり聞かれなくなりました。また河川敷にはいまだに多くの人々が献花をしています。子供を持つ親からすれば被害者のご両親はショックで声も出ないと思います。この事件の背景については十分わかってきましたのでここではコメントしません。それよりも子供を持つ親として更には社会の大人たちがこの教訓をどう将来に生かさなければならないかについて今回は考えてみます。まず自分たちの子供時代と現在の決定的に異なる点はたくさんありますが、その中でも今回は希薄になった社会に目を向けてみます。いつもならネット社会が悪いだのラインが悪いだの私の個人的な意見にもかなり偏りがありますので、デジタル社会には触れないでアナログ社会つまりムラ社会に焦点をあててみましょう。

私が小さかった頃は誰かがイタズラをしたら近所の人から怒られることが多かった。家族以外に大きな意味でムラ社会全体が子供たちを見守っていた。そして学校でも悪いことをすればゲンコツを先生からくらっていた。これも今では体罰として扱われるが、時代の流れには逆らえない。偉そうな教育学者達が体罰は悪いとこぞって言うが、教育現場ではそれが萎縮教育に繋がっていないだろうか?もし体罰が悪いならば現在は昔ほどゲンコツがふるまわれていないのだから今回のような子供たちの残忍な暴力は減るのではないだろうか?しかし現実にはイジメや暴力は昔より増えて悪質化している。なぜだろうか?体罰を肯定するつもりはないが、愛のムチも時には必要ではないか?それともI (私)の無知なのか?最近は夜にコンビニでたむろっている少年がやたらと多い。コンビニが悪いのではなく、たむろっている事に問題がある。昔なら「お前ら、早よー、家に帰れ」と近所のおじさんが言っていたのだが、今では後ろからバットで殴られかねないので、ついつい大人の方が知らぬ顔をして通り過ぎようとする。「どうせ、あの連中に言ったって無駄だから」と勝手に理由をつけて。自分は聖人君主ではないし、金八先生や夕陽丘の総理大臣に憧れはしたけれどもそこまではなりきれないし、このつぶやきは自分への憤りでもある。もし自分の子供が関係すればなりふり構わず乗り込んでいくのだろうが、人様の子供にまでそこまでしようとは思わない。所詮その程度の考えが社会に蔓延しているのではないか?

これらの憤りは現在のデジタル社会や自分を含めた大人社会への不満でもある。「どうにかしなければならない」と痛ましい事件が起こる度に思う。我々が子供の頃よりは遥かに便利な社会になったけれども、子供たちの心はそれに伴い満たされているのだろうか?仮に満たされてないとしたらその部分に社会や我々大人が介入していかなければならないのではないか。「昔は良かった」なんて決して言わない。なぜなら今の大人の後ろ向きな敗北になるから。地域全体で子供たちを見守るムラ社会、これこそがこの根深い社会問題の解決に糸口を見いだせないだろうか。どうすればよいか皆さんも考えてみませんか?

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