永遠の世界へ旅立っていく最愛の人と家族の最後の別れ

長年訪問診療で診ていた患者さんが先日亡くなりました。先代の院長の頃から往診をしてきた患者さんですのでかれこれ20年近くになります。家族で特に息子さんとそのお嫁さんがしっかりと看病されてきましたし、お孫さんや周囲の親戚の方々も温かい目でもって見届けていただきました。本当にこれが私の思い描いてきた究極の看取り方だと思っています。最後は枯れ木が冬の寒い中、葉っぱを全て落葉させて朽ちていくという感じでしょうか。ただしその理想を実現するには医師の考え方と患者さん家族の考え方の合致が必要です。またその周囲の遠くに存在するたまにしか来られず「ああだの、こうだの」と現状を知らずに主張される親戚方々をどうやって説得するかがとても重要です。そのような意見の対立は他の患者さんの場合に過去に何度となく出くわして、病院に入院することも度々ありました。それはそれで親戚一同の総意ですので尊重されなければならず、個人的にも全く否定する気はありません。ただしずっと毎日24時間365日看病してきて現在を知るものとたまにしか会ってないお客さんとでは介護の実情や今後の延命治療など意見が異なることも当然です。それをどこまで家族の総意に沿わせてあげることができるかが、医療関係者のコーディネートの腕にかかってくるわけです。今回は長年にわたって家族との信頼関係が構築できていましたのでうまく事が運んだと思っています。

国は病院から自宅へと厚労省がやっきに進めようとしています。表の目的は医療費の削減のためです。昭和時代の3世代家族で順番に親を看取ってきた古き良き日本の姿を取り戻したいという本音も一部にあります。自分だったら死ぬ間際は最愛の人に囲まれて住み慣れた天井を見ながら死にたいと思っています。少子高齢化で都会は核家族化して若者で賑やかですが、田舎はそうではない。介護保険も高齢化のためにできたけども結局自宅で看取ることができなくなった。そして今になってやっと気付いたのか「家で看取ろう」キャンペーンです。そんなこと田舎ではとっくに平成の初め頃からわかっていた。しかし多数決の民主主義社会では人口の多い都会の意見が反映されやすい。また医学の発達の引き換えに必要でない医療も増えてきた。また一部のモンスターやコンビニ受診のために医療業界は今まさに萎縮と疲弊をきたしています。その観点からいえば医療の進歩も良し悪しでしょう。素晴らしいシステムを良心のある人々皆で分けあえて支えられれば言うことないのですが、必ずそれを悪用する人々も一部いるのは事実です。これからの看取り方ひとつをとっても昔の古き良き日本の姿と将来の日本の姿が不安です。医師になって27年目に突入する私ですが、最初はいろいろぶち当たっても若さで乗り切ってきました。昔は「まあまあ」という先輩医師の態度が嫌いでしたが、今はその先輩方の気持ちがやっとわかってきました。自宅で看取るという壮大な家族計画は自分の両親でさえも本当にできるかどうか現時点では自信がありません。そして何より昔と違うこと、それは年齢的に夜間まで緊急出動する体力もですが、それ以上にその気力を維持させることが困難になってきました。

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