神頼み

今年の初詣は例年と異なり山崎八幡宮だけでなく防府天満宮にもお参りしてきました。個人的には神頼みは好きではないのですが、今回だけは特別なのです。自分の事を拝むならば神様、仏様、キリスト様とは決して思いません。自らの力を信じて努力してきましたので他者を信じるという宗教は自分の中には存在しないのです。しかし子供の事となると状況は一変します。別に親の仕事を放棄しているわけではありません。血の繋がった親子でさえも子供の気持ちの奥底までは理解しているつもりでも理解できていません。他者である子供の受験に関しては合格祈願なる神頼みも必要かなと思い菅原道真公の祀られている防府天満宮に藁をもすがる思いでお参りして絵馬に合格祈願をお願いしてきました。溺れる者は藁をもつかむという格言がありますが、今回の心境はそのようなものだったのかもしれません。1月2日の午後に長女を除く家族4人で電車に乗ってお参りしました。長女は勿論予備校で受験に向かって最後の追い込みのためいません。防府天満宮への初詣は高校3年以来です。その時は共通一次試験直前でしたが、多分大学入試合格祈願で行ったのだと思います。そして神頼みをしたのですが、第一希望の桜は咲きませんでした。その頃からでしょうか?神頼みという言葉を使わなくなったのは。しかしそれから数十年間は医師国家試験やいろいろな資格試験などを掻い潜ってきましたが、一度も神頼みに期待したことはありません。自分の実力勝負のみでしか合格できないことを薄々感じていたことと18歳の時の苦い思い出が何かしら私の脳裏に影響していたのかもしれません。今から思えばどちらでもかまわないのですが。

時は流れ、最近また神頼みが復活しました。それはなぜか?間違いなく自分の力ではどうしようもできない時は神様にお願するしかないと悟ったからです。自分の事なら自己責任で処理するし、自分の最大の理解者は自分だからこそ自らの力で切り開けるかそれとも不可能かどうかなんて大抵の事なら賭け事ではありませんのでわかります。だから宝くじ1等には神頼みが必要なのですね。一方で自分の子供を含めて他者に対してはその感情を含めて他人ですから究極のところ何を考えているかわかりません。寧ろ相手の事がわかるという人は自分の一方的な思い込みが強いのかもしれません。受験で合格か不合格かわからないボーダーラインの時は神頼みをします。それは解答が完全でないためと他者である試験管の採点が不明なために何点ゲットできているかわからないという他者頼みの部分があるから神頼みをするのではないかと今では推測しています。自信をもって完答していれば神頼みの必要はないはずです。今、受験の嵐の真っただ中にいます。全く羅針盤など使えず過去の努力に支えられた自力のみで勝負する世界です。その入試会場の嵐の中に親は到底入ってはいけません。入試会場の外でひたすら待ち続けて出てくる姿を目で追うだけです。夢を追いかける子供に対して親としてできることは神頼みしかないのです。今回の写真は防府天満宮の神頼みの行列ですが、早く咲きほこった梅の花を見たいものです。

防府天満宮

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