努力と好きこそものの上手なれ

私は昔から努力すること自体は嫌いではありません。努力しないで「未来のやらなかった自分」を想像することが嫌なのです。そのため辛くとも無理してがんばってしまうことが多い人生でした。しかし努力だけで全てがうまくいくことはあり得ません。努力についてはそれ以上深く考えたことはありませんでした。アナログ手帳に計画を立てながら「がんばる自分」と「結果を出した自分」を想像することの方が「がんばらなかった自分」を想像するより容易でした。最近、養老猛先生の本で読んでいて「自分の努力感」についてすっと腑に落ちました。その非常に奥の深い一節を載ますので一緒に考えてみましょう。

自分の気持ちを掘り下げて見ると突き当たることがあります。それは自分は本当に医者になりたかったのか、という動機です。じつはなりたくない。私は無意識のうちに、そう決めていたんじゃないか、と思います。自分は本気ではない。そういう人が医者の修行をすると、どうなるか。修行を済ませるためには、他人より一生懸命にやるかもしれません。だって根元に嘘があるのだから、仲間に追いつくためには、余分に努力するはずです。ちょっとややこしいですが、そういうことじゃないかって、ずいぶん後になって気づきました。好きこそものの上手なれ、といいます。好きじゃないことで上手になろうとしたら、大変な努力が要りますよね。しかも最終的にはたぶん、うまくいかないでしょうね。事実、私はそうなったんだと思います。~養老猛「自分」の壁より~

昔から努力は美化されてきましたし、私にとって今でも素晴らしいという思いに変わりありません。例えば義務教育の時代は将来必ず役に立つと信じて嫌でも数学や英語を勉強させられました。結果的に本当に今の自分に役にたったかと言えばはなはだ疑問であることは20歳そこそこで薄々感じていました。しかし当時はその妄信を点数評価というごまかしですり替えられていたような気がします。なぜなら音楽でも美術でも体育でも好きなことをする時に努力は不要でした。やっていて楽しかったはずです。しかしいつの間にかそれが結果という目的に変えられて面白くなくなったこともよくありました。「がんばる」「努力する」という行為自体は尊いものですが、目標や結果の到達の手段として自分の中の歯車に組み入れられると修行にたちまち変わるのではないかと思います。当然、自分もそうだったのかと腑に落ちたわけです。今でも自分で好きな英会話の勉強やジムでのトレーニングは苦しいこともありますが、それでもやりたいと思ってしているので努力しているとは思いません。一方で専門医更新のための最新の医学知識を吸収することは苦痛です。これこそ嫌いだけれども仕事で仕方ないからがんばろうと思って努力しているのです。

昔、養老先生と同じように医師を目指したときのことを今になって思い出そうとするのですが、なかなか思い出せません。論理的に養老先生に本の中で私を責められると「本当の自分」は医師という職業を「好きこそものの上手なれ」と思っていたかと問われるとはなはだ疑問です。周りの同級生もそう思っていたかどうかも不明です。

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