今がファースト

最近、「〇〇〇ファースト」という言葉が流行っています。以前の予備校講師の「今でしょ」の流行語を少し改変して「今がファースト」という造語を作りました。今年の流行語大賞には「アメリカ・ファースト」と「都民・ファースト」がノミネートされるかもしれませんが、「今がファースト」もランクインされればいいなあと個人的には思っています。またファーストを漢字にするとイチローの「一」でしょうか?この一文字が年末の清水の舞台で書かれる可能は低いかもしれません。以前このブログでも少し話題に触れましたが、「今という一瞬」が大切なことは誰にでも理解できるはずですが、ついつい「今という一瞬」をいい加減にしてしまうのも人間の弱い部分かもしれません。今がなければ未来はないし過去がなければ今はないのですが、過去は決して戻ってきません。また未来は誰にもわかりません。結局は「昨日から学び、今を大切に生きて、その結果として明日がある」と思っています。「アメリカ・ファースト」は自国の身勝手な保護主義と非難され、「都民・ファースト」は東京では受け入れられるかもしれませんが、地方のひねくれた田舎者からすれば「東京ばっかりいい思いをして」などと敵視されかねません。しかし「今がファースト」なら誰でも素直に受け入れることができるのではないでしょうか。

誰でもやるからには一番を目指すべきです。しかし非情にも世の中では一番からビリまで序列化されてしまいます。これは区別であって差別ではありませんが、それでもビリだったらいい気がするはずなんてありません。しかし「一番でなかったらビリと同じ」というフレーズが社会でよく使われますが、これも全てが的を射ているかと言えば必ずしもそうではないでしょう。しかしそれだけ「一」や「ファースト」という言葉は特異的な言葉として受け取られるのだと思います。客観的な順番は一目瞭然ですが、主観的な見方をすれば個人の中でまた1~100までの自己評価がつきます。いくら客観的な評価では99番であっても個人としては100点満点をつける場合だってあるわけです。その場合は客観的には劣等生でも個人という主観的な結果としては合格なのです。

最後は自分の人生は自分のもので他人のものでもなくましてや子供のものでもありませんが、その自分の人生を一番にするために子供のために努力することが今自分にとってしなければならない最優先事項ならば、それはそれでよいのです。また子供が巣立って何もすることがなくなれば仕事一番になるかもしれません。今できることを今すぐにすることが「今がファースト」なのです。昔の私はそんなことをしていませんでしたが、今の私はどっちがよいか迷った時には常に心に「もしこれをしなかったら、後で後悔するのではないか?」と自分に問いかけるようにしています。よくわからない場合は全て後悔するにしてしまいます。どうしても決められなければ翌朝の「朝のアウトプット」に判断を委ねて寝させて保留します。それでもダメなら完全に期と気が熟すまで放置します。そして決して「未来の自分が過去の自分に後悔したよ」と言わせません。

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