景色が変わる

大関から横綱になると見える景色が変わると大横綱白鵬関が昔言っていました。短命横綱で先日引退した稀勢の里関も同じことを言っていました。一流のプロ選手が皆異口同音に言います。一般人も感覚的にはわかるつもりですが、実際に見てないので想像上の世界です。物理的には昨日と今日で見えるものは変わりませんので視覚には同じ物が映って網膜を通して視神経に入力されます。そして大脳の視覚野という場所に到達して画像が脳の中で構成されて見えたという感覚になります。

ではどこで景色が変わるのでしょうか?これからは科学と哲学の領域を行ったり来たりしながら解明していきたいと思います。まず視神経線維を通って大脳に到達するまでは情報が昨日と本日で異なることはあり得ません。なぜなら物理的に見える情報のインプットが変わらないわけですから。すると必然的に大脳の視覚野に入力された時点で情報が修飾されることになります。情報の修飾というのは過去の行動や経験などの記憶が海馬という場所に保管されています。つまり大脳の視覚野に入ってきた信号がいち早く海馬の過去のデータと照合されて同じ景色なら過去に見た景色と同一であると判断を下して昨日も今日も変わらないと景色であると思うのです。それが大関までの毎日だったのでしょう。それが横綱審議委員会で横綱に推挙された当日から見える景色が変わるのです。それは横綱になったという使命感や責任感という重圧が大脳の海馬の別の場所に保管されて昨日見た景色が同一であるのにもかかわらず別の景色に色付けされるのです。昨日まではアウトプットされなかった重圧という修飾つまり着色される因子が横綱になった今日からは海馬からアウトプットされますので景色が変わったということになるのだと個人的には科学的に分析しました。

なぜこのような分析をしたかと言いますと、今回長男が大学入試で第一希望の大学に入学できましたが、私個人としても一緒に並走してきたという自負があります。自分の母校でなければここまで並走したという自負がなかったかもしれませんし、入学式にも出なかったかもしれません。過去の海馬にある自分の学生時代の記憶と30年以上の時を経て自分の息子が歩く後姿をだぶらせているのかもしれません。またあの歩き慣れた大学の道を再び歩くことを当初は予想していませんでしたが、いざ歩くとなると嬉しいとか不安だとか懐かしいとかいろいろな思いが交錯していました。ですから入学式の当日まではその道を歩いた時にどのような気持ちになるのかが予測不能だったのです。それが横綱の「景色が変わる」という言葉に集約されているように思えたのです。答えは「景色は変わりません」でした。しかしその後は海馬から過去の記憶が溢れるように湧いてきてその後は寝ているときの夢にまでその当時の記憶が蘇るようになりました。昨年まではそのような夢は全くみていませんでした。つまり視覚上は変わらない景色なのに頭の中ではかなり景色が変わったのでしょう。これからどのように景色が色付けされるか楽しみです。

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