勉強を教える。その心は?

この3年間ずっと次男について数学や物理や化学など理系科目を教えて、最後は自分の苦手な英語も単語や熟語を中心に教えてきました。しかし教えれば教えるほど自分の中で膨大な量の消化しきれない単純な問題の解法の疑問から挙句の果てにはなぜこのような内容の項目をたかだか18歳の子供に教えなければいけないのかという哲学的な疑問が次から次へと浮かんできます。総合計時間で換算すれば1000時間どころではなく数千時間以上費やしたのではないかと思います。しかしそれだけの時間が果たして自分に見合った時間の使い方かと聞かれると素直に「はい」とは答えられませんが、「いいえ」では決してありません。なぜならその経過を通して勉強に対する普遍的なものが見えてきたからです。私は以前から子供に「勉強しろ」と言う場合、子供からすれば「自分は勉強しないのによくも身勝手な事!」と心の声が聞こえてくるのです。その意見に対しては「昔、同じ道を通ったのだから」という反論が出てきますが、それは過去形であって現在形ではありません。少なくとも現在完了形にしてほしいと思います。ですから親は仕事でお金を稼いで学費を払っているのだから何もせずに子供に対してただ「勉強しろ」というのはおかしいのではないかと思っています。やはり辛いことは実際に同じ土俵で感じないと子供の気持ちはわかりません。

この膨大な時間を費やしても順調に結果が出ればこのような哲学的発想は生まれてきません。やればやるほど疑問や不安が生じて多くの発想が生まれます。現在このような哲学的発想が生まれるのは「次男が本当に入試で合格をもらえるのだろうか」という不安からです。そして「自分の教え方が悪いのか」それとも「学校や塾の教え方が悪いのか」とか「結局、子供がバカなのか」などと考え始めるのです。そして「不合格になったら浪人か?」などと最悪のシナリオが頭を過ります。後で冷静に考えればその時は自分が勝手に自身を精神的に追い詰めているだけで子供はそこまで思っていないことなんてざらです。10年後に振り替えると「その当時が自分にとっても子供にとってもどれだけ輝いていたか」がわかるはずですが、現時点ではテンパっていますので見えるものも見えません。

では私の今回の膨大な時間で得られた収穫である「勉強を教える。その心は?」という本題に入ります。それは「相手の立場と同じ目線に立って昔やった勉強を再び経験することにより新たな再発見をすること」です。そうすると相手の気持ちもわかってきてむやみに「勉強しろ」とは言わなくなり、それこそ「親の背中を見ろ」となります。そしてそれ以上に世の中のしくみや矛盾が数学の公式を通して見えてくるのです。物理や化学をやれば世の中の不思議がわかってきますが、数学的哲学も世の中の事象とうまく融合しているのです。そして何よりも自分の人生が輝き始めます。今現在の仕事に対する見方や考え方も変わるし、残り人生をどう生きていけば自分が輝けるのかを見つける手段になります。結局「その心は自分の人生を豊かにする」と考えています。

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