昔10月10日は体育の日だった

2回目の東京五輪はコロナでケチがついて終わりかと思ったらそれだけで終わらずに、今度は贈賄収賄という更にケチがついて現在進行中です。やはり招致にはお金がかかることは誰しも否定しませんが、こんな形で再びクローズアップされるのはとても残念です。今回は1964年の第一回目の東京五輪についての回想です。と言っても私は1964年生まれですので勿論、第一回目の東京五輪の記憶なんてあるわけがありません。唯一その当時の雰囲気をそのまま残していたのが10月10日の祝日の体育の日でした。この10月10日を覚えているのは30歳代以後くらいでしょうか。それで少し記憶を掘り起こすためにネットで調べると体育の日からスポーツの日に変更されたのはまだ日が浅く2020年のことです。もっと古いかと思いましたが、第一回目の五輪を記念して制定した体育の日に対して第二回目の五輪を記念してより広い意味で世間に受け入れられるために変更したのでしょう。しかし最近はやたらカタカナ文字が流行する世の中でスポーツより体育という漢字の方がしっくりくるというのは昭和生まれの化石的思考でしょうか?少し寂しさも感じます。

一方でいつから10月の第二月曜が体育の日に変更されたかというと2000年までに遡らなければなりません。当時は今ほどではありませんが、もう少し仕事を休んで余暇を楽しもうという発想がありました。土日の週休二日は大企業のエリートサラリーマンだけが取得できる特権で我々中小企業戦士はもってのほかで隔週の土曜が休みになればラッキーという4週6休がせいぜいでした。しかし4週6休も死語となって久しくなります。それから働き方改革など国はいい事ばかり言いますが、自営業の個人事業主になると更に休みが減ってしまいました。当時は若く「何でも来い」という気概がありましたのであまり感じることはありませんでしたが、2000年以後に祝日法が改正されて年に何回かが第二月曜に移動することになり赤日は何があろうが休日でしたのでそれはそれで重宝していました。その祝日法の改正で体育の日が毎年固定された10月10日ではなくなったのです。ですから昭和生まれの世代はその背景を知っていますが、平成生まれはほとんど知らないのではないかと思います。

20年前はその祝日法改正の恩恵についてあまり考えたこともありませんでしたが、更に遡れば毎年固定された赤日の10月10日の体育の日前後が小学校の大運動会でした。ですから我々昭和世代は体育の日と言われると第一回目の東京五輪の記念日よりも自らが参加した大運動会の方が記憶に勝るはずです。現在の温暖化のない1970年代の運動会では昼間はやや暑いのですが、朝夕は肌寒く感じられました。また熱中症という言葉はなく日射病と言っていました。ましてや救急車出動なんて考えられないことです。そして時代は流れ現在では毎年日にちが移動するスポーツの日でもまかり間違えば熱中症で救急車出動ものです。たまたま今回は第二月曜が10月10日に当たりましたので色々な事を振り返り思い出しました。

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