震災から1年が過ぎて

3.11から1年が過ぎました。まずは亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。今回は医療からみた震災の個人的な思いについて述べてみたいと思います。まず、阪神大震災のときには私は島根県に住んでいて県立病院の循環器内科に勤務していました。いわゆる公務員でした。その当時の朝は大きな揺れで目を覚ましました。しかし一時的な揺れのみでその後は何事もなく朝の勤務につきましたが、その日の午前中に大惨事だとわかり、県立病院医師のため県からの命令により、地震発生約1週間後より先輩医師から順番で災害地に赴きました。私も発生後より1か月目くらいしてから約5日間くらいでしたが、長田町の長田高校に医療派遣されました。その時の焼野原でまだ焦げ臭い匂いが、いまだに臭覚として記憶に残っています。また医師といっても医療器具もほとんどなく、薬もたかが知れています。結局は被災された方々の精神的ケアが主な仕事でした。

今回の震災は津波という全てを飲み込んでしまう災害だったため、被災地の医療機関は大変だったと思います。まず地震直後は被災者の皆さんは被災から逃れることが先決でその後も精神的緊張が続きます。そして1週間、2週間と経過していくうちに、心筋梗塞などの心臓疾患が増えてきます。勿論、手持ちの薬もないわけで持病の糖尿病や高血圧が悪化する場合もあります。そして弱った体にインフルエンザや肺炎などの感染症が加わってきます。また医療器具や薬の不足、そして何よりも患者さんが自分の病気の名前と現在飲んでいる薬の名前が正確にわからないこと、これが致命的だと思います。今回もカルテが流され、患者さん個人の病気の情報がわからないとテレビで放送されていました。その情報だけでもわかれば更によい医療ができていたかもしれません。それから数か月が経過すると心臓疾患や肺炎などの急性疾患はある程度落ち着き、不安やストレスなどによる精神疾患なども増えてきます。このように災害地の医療も震災直後72時間の救出救命医療から急性疾患そして慢性疾患や精神疾患など時期によって対応が異なります。

最近よく思うのですが、医師も医療器具がなければ自分の専門医療ができません。聴診器で肺炎と診断しても抗生物質がなければ運を天にまかせるしかありません。医療機器の進歩は凄まじいものがありますが、全てを国民全体が享受できるとも限りません。特にこのような災害の時はなおさらです。今回は自分の診療所の本業があり、東北地方には行っていませんが、もし地元で同じ災害が起こっていたら、しっかりと対応できていたであろうか?と自問自答をよくしますが、自信はありません。ただ頭の中だけでもちゃんと災害が起こったらまず自分はどのように動いて、医療はどのようにしてというイメージはもっておかなければいけないと思っています。

現在、絆という言葉が社会に溢れていますが、日本の絆、医療の絆、家族の絆などいろいろと考えさせられる1年でした。ご遺族の悲しみは到底癒えるものではありませんが、今自分にできることをしっかりとやっていこうと思っています。

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