受験戦争

一月の第三土曜日曜がまたやってきました。といって何のこと?と思われていらっしゃる方は今日のタイトルの受験戦争がヒントです。そうです、センター試験の日なのです。ただし我々の世代はセンター試験と言うよりも共通一次試験と言う語感の方が皆さんしっくりきませんか。現在でも我々世代はついついセンター試験のことを共通一次と言ってしまいがちです。「三つ子の魂百まで忘れず」ですね。ちょうど35年くらい前から現在のセンター試験の前身である共通一次試験がスタートしまして、我々は確か開始から4回目くらいの頃だったと記憶しています。その共通一次試験の前は国立大学が上位と下位の二つに分けられ旧帝大を中心とした一期校と当時は新設の国立大が二期校となって国立大学を2回受験することが可能でした。しかし受験回数が多いから皆に有利かというとそうではなく、優秀な上位の学生がチャレンジ校と滑り止め校として両方合格しているのが現状でした。その当時の大学進学率は同世代全体の35%で現在は半分まで増えています。現在のように少子化のため大学を選ばなければ全員入学可能という時代でもなく、狭き門だったわけです。前文部科学大臣が大学設置許可でひと悶着の騒動を起こして「現在の大学制度のあり方を見直す必要あり」と物申したのも肯けないわけではありません。ただ方法が唐突すぎたからバッシングにあったのであって、将来的には大学設置許可などは日本の教育レベルの低下も踏まえて考え直さなければいけない時期にきているのかもしれません。

さてそのような入試制度ですが、現在の少子化の状況から学生がお客様扱いにされている傾向があるのではないでしょうか?そしてテレビでは極論ですが、分数計算もできない大学生なるものを放送しています。勿論全てではありませんが、一部事実でもあります。また昔は一発勝負でダメなら浪人、浪人でも予備校にも通わず自宅で浪人生活を送る「宅浪」なる言葉もありました。今となっては化石化した死語でしょう。推薦枠制度も自己推薦や学校推薦など我々の頃からすれば理解不能なほど細分化、複雑化しています。そのような状況を生んでしまったゆとり教育という弊害を、かの文部大臣は世の中に問題提起したかったのではないかと推測しています。どのような入試制度がよいかは教育学者ではありませんのでよくわかりませんが、受験戦争なる言葉は今でも通用するくらいですから、一発ストレート勝負で変化球なしの受験の方がある意味公平なのかもしれません。その観点からすれば中学受験は見方によれば受験戦争を煽っていると批判される点もありますが、一方では内申書もなく、親子の三人四脚ですが、純粋にその当日の試験の点数だけで合不合格が決まるので公平なのかもしれません。

このような受験戦争は感情をもった人類が競争や争いごとを好む種族であり続けるためにこれからもなくなることはないでしょう。しかしお隣の国のように遅刻しそうな受験生をパトカーで先導したり、その受験戦争を勝ち抜かなければ将来がないというような思想を国全体で共有するような制度はやはり行き過ぎではないでしょうか?

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