人として社会として体罰を考える

先日、大阪の高校でバスケット部の2年生が体罰で自殺したという悲しい事件が世の中を震撼させています。体罰、いじめ、ドメスティックバイオレンス(DV)、パワハラ、セクハラなど最近はいろいろな暴力が取りざたされています。体罰とは?ネット辞典で調べてみると、父母や教員などが、子供や生徒などの管理責任の下にあると考えられる相手(つまり逆らえない環境にある相手)に対し、教育的な名目を持って、肉体的な苦痛を与える罰を加えることと書いてあります。一方で少し意味は異なりますが、刑罰とは犯罪をした者に科せられる法律上の制裁であり、その中に死刑も含まれます。

我々が学生時代の頃、もう30年以上前ですが、体罰なんて当たり前でした。しかしその時代背景や社会が体罰を是と認めて、我々子供もそんなものだと受け入れていましたし、我々の両親も悪いことをすれば殴られて当たり前だと思っていました。それはそれで世の中の大部分が認めていたわけですから、その当時の体罰は当時として間違ってはいなかったのだと個人的には今でも思っています。しかしその体罰を受けて育った我々が、世の中の流行や世界観、ましてや価値観までも大きく変化した現在において、またネットやケータイやゲーム機とにらめっこしてピコピコしている世代に体罰を加えたらどうなるか?それは決して肯定される時代ではなく、現在では体罰は否でしょう。

昨年、同窓会関係で当時の恐ろしい先生と酒を酌み交わしました。その先生は非常に人間味のあふれる先生で尊敬していますが、いつも飲むとその会話になります。「あの頃は先生が恐ろしかったけど、でも楽しかった」と。しかし今回の事件で、当時でも殴られたことがよき思い出の人もいるが、思い出したくない人もいるのでは?と。その当時の個人個人の感情は異なるのではないだろうか。教育者や親、更に社会は子供を良き方向に向けることが大前提であり、それが全ての子供に対して不可能であることはわかっていてもそれを不可能と認めてはいけないし、一人でも体罰で子供が自殺したらそれは我々の敗北ではないかと思います。元プロ野球の桑田真澄さんも体罰の体験者として、体罰では決して子供はよくならないし、日本の指導者も考え方を変えなければならないと述べられています。

少し考え方の転換を図るために死刑について。先進国の中ではいつも死刑廃止論が出てきます。これも賛否両論です。その議論をするアメリカでさえ、一方では核を保有し身内の銃規制さえできずに、自分の身は自分で守るという大義名分の元で幾度となく学校で銃乱射が繰り返されてかけがえのない命を失っています。現代の世の中には理不尽なキーワードがあふれかえり、教育現場以外にも日本社会や世界を見渡せばたくさん存在します。

今回のような事件が二度と起きないようにするにはどうすればいいか?すぐに解決できる問題ではありません。しかし一つだけ言える確かなこと、それは一人一人が他人事とは思わずにあらゆる難題に真剣に向き合い考え続けること。そこから始めないと次への新しい変化への一歩は踏み出せません。

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