死生観

病気や事故で生死をさまよって生還して来られた方が、「お花畑を歩いていると川があってそこを渡ろうとすると自分の亡くなった両親や祖父母が現れてこっちに来るな!って言われて目が覚めたら現世だった」なるお話を耳にすることがよくあります。それが真実か否かは実際に体験していませんのでコメントはできません。昨年医学部教授を退官された私の恩師がちょうど3年前に大病をされ生死をさまようものの見事に生還され現在はお元気なのですが、講演で自分は三途の川の手前まで行ったが、それより先の切符はもらえなかったと真面目に話されるのを聞いて、お花畑と川はまんざら嘘でもないように思っています。昨年エジプト展を観にいったとき古来3000年以上の昔から人類は死後のことはとても重要で、ある意味現世以上に幸せな死後を迎えるためにいろいろな儀式や祭りや装飾品を使用していました。ピラミッドはその最たるものでしょう。

「人は言葉を駆使してコミュニケーションをする生物である」とかの高名な方がおっしゃっていましたが、人と人が接するとそこに摩擦が生じます。それが争いに発展していきます。感情と知性をもった人類はいつの世でも争いごとを好み、そして過ちを犯します。その罪滅ぼしをしなければいけない死後には前世で悪いことをしても神様、仏様、キリスト様が救ってくださると信じます。そこにいろいろな宗教が存在して、人々は心の安らぎを得ようとします。だからいつの世でも人類は死生観と対人間関係が永遠のテーマになっています。かの有名な東大の国語の入試問題でも難解な言葉を使用してもその根源にはそのような単純でありながらも永遠に答えを探してもみつからないテーマがよく問題として扱われていると本で読んだことがあります。

今の世を生きている自分がいます。前世があるとすれば自分の前世はなんだったのかが気になるところですが、前世も後世も今という現世があるから成立しているのであって、結局のところ現世をいかに大切に生きていくかが問われるのだと思います。しっかりとした悔いのない人生を歩めば自ずと道は開け、仮に道が閉ざされても迂回路をみつけることができるのではないかと思います。

盆正と彼岸を入れて年に4回小高い山の頂上にあるお墓に自分の母親と参ります。時間があれば子供たちも連れて行きます。参るたびにあと何年したら・・・・と考える歳になってきました。この1月には49歳になりました。昔は人生50年、何をしているかなんて想像もできませんでしたが、現在の自分は人生80年の残り30年をどう生きていこうかとおぼろげながら見えてきています。それだけ歳をとった証拠でしょう。お墓参りをするといつもそのような現世の「残りの人生」と後世の「あの世」を考えてしまいます。現世での今の一瞬が一番大切なのはわかっていますが、ふとそのようなことを考えてしまいます。自分には煩悩も欲目もまだまだありますが、「自分の死生観」についてはまだはっきりしたものは見えてきません。

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