自らの反抗期を回想する

反抗期は必ずあるとはいいませんが、多かれ少なかれあると思います。その当時の本人が自分の行動を反抗期と認識していたか若しくは大人になって親となり自分の子供が同じ道をたどった時に初めて、自分の当時の行動が反抗期であったと認識することが大半だと思います。そこまで思い返してみても反抗期という言葉が自分の脳裏にかすめない場合にはそれが当時と現在の自分にとって本当に幸せだったのかどうかは今になって疑問に感じます。先日ちょっとした会話で自分の反抗期を話した時に、過去にあまり大袈裟な反抗期を経験していないと自負している自分に対して、相手から「やっぱりそうだったのね。うちの子供も同じようなタイプだったのでよくわかるわ」と言われて少し複雑な気持ちになりました。現在の我が子の反抗期をみながら自分のおぼろげな反抗期と比較して「あれが反抗期だったのかなあ?」くらいしか思い出せません。昔から自分で何でも経験しなければ身に染みてわからないとよく言われますが、ホントその通りだと思います。我が子の反抗期に関してもその態度に「クソ腹が立つ」という表現がしっくりときますが、それを通って乗り越えていくことが大人への成長過程で大切なのかなあと50歳にして今一度考えさせられました。そして初めて40年前の我が身を思い出し当時を反省することになるのでしょう。決してその当時が今の世に戻ってくるわけではありませんが、当時に自分の親も同じことを考えていたのかなあと回想するわけです。

今は年老いた両親ですが、昔は私の祖父母が足腰の痛み訴えていたのを「ふうん」と聞き流していた感が私の記憶にはあります。冬になるとオーバーを羽織るのですが、それを羽織った時に「このオーバーが重くてかなわん」と言っていたのが昨日のように思い出されます。当時の親や自分が「なんのこっちゃ?」と思うような会話ですが、今になって初めて年寄の気持ちがわかると両親は言います。自分もしかり。いかに医療に携わって高齢者を診ていてもその本当に老いによるさまざまな苦しみは高齢者でない自分にはわからないのではないかと思っています。そんなことはないよと反論も聞こえてきそうですが、敢えて言えばそれはわかったつもりであって、自己の経験からくる腑に落ちた感覚とは異なるものだと確信しています。当時はなぜか理解できなかったことが、何十年もたってからふと「あのときのあれね!」というのが腑に落ちる瞬間なのですが、その身をもって経験した感覚からくる言葉ってとても重みを感じます。逆に言えば経験もしてないのに「その気持ちよくわかります」なんてテレビのインタビューでよく聞かれるフレーズですが「ほんとか?このやろー」って思ってしまう自分はひねくれ者でしょうか?

この7月から半年間ニュージーランドに短期留学に行ってしまった我が長男ですが、彼の反抗期をみながら我が身を振り返るいい機会になりました。子供の成長が親も一緒に成長させてくれるんだなあと感慨深げに息子の背中を見送りました。年末には帰国する予定ですが、その時には更に成長した姿を見たいと切に願っています。

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