最近の年賀状事情

年賀状自体はこれからも減りはしても無くなることはないでしょう。しかしこの四半世紀で年賀状事情は大きく様変わりしました。1990年代はまだパソコン印刷が普及していませんでしたので、謹賀新年という印刷に手書きで「今年もよろしくお願いします」とか「お元気ですか」などありきたりのフレーズでさえ毎年のことながら言葉選びに困ってしまいます。またその頃より少しずつワードでの印刷が普及してきましたので手書きが減ってきて漢字を忘れて文字を書こうにも頭に対して手が追い付かなることも起こるようになってきました。あたかも運動してないお父さんが子供の運動会の親子リレーで足がつる以前に上半身はゴールに向かっているのに下半身は置いてきぼりになって前につんのめっている状態のようなものです。

その後、干支が一周して2000年代になると手書きのプリントはほぼなくなりA4の印刷物に変わります。手書きの紙をみるとかなりの年代物に感じてしまう時代になってしまいました。年賀状も同様にほぼ印刷に変わり、逆に手書きの年賀をみつけると心温まる思いに駆られたのは私だけではないでしょう。それでも一言は手書きでという思いから毎年ありきたりのフレーズでも書き慣れない汚い文字でも頑張って書くようにしていましたが、歳をとるにつれて億劫になり文面は全て印刷にして終了というパターンもかなり増えてきました。しかしそれでも宛名は手書きと印刷が半々でした。しかし2010年代になると宛名印刷も主流となりハガキの表裏両方とも印刷のみで手書きが無くなる時代へと突入です。しかし宛名印刷は郵便番号を枠の中に入れて様や先生を使い分けたりと結構テクニックが必要でうまくいったと思ってもハガキの差し込み方で前後逆になったりと今まで以上に限られた枚数の年賀状で失敗はできませんので極度の緊張感が走ります。特に印刷開始して1枚目がうまく印刷されると今年も無事終わりますが、出てきた宛名がうまく印刷できていないと大慌てで印刷中止をクリックしてそこからドツボにはまって1日が終わってしまうということも少なくありませんでした。

ところがここ数年で印刷会社を含む多くの企業が「昨年の年賀状を持参すれば全て宛名印刷をします」というサービスが増えてきました。今までなら宛名印刷のアプリで住所録をエクセルやワードに移して印刷会社に持ち込まなければならないためある程度パソコンに精通してないと無理だったのが、いきなりハガキを持ち込めば全てOKという時代になってしまいました。これはアナログ世代の高齢者でも少し予算を増やせば何も悩まずに年賀状にかける時間をその他のことにまわせるために時間をお金で買うようなもので一長一短はありますが、それはそれで良いことだと思います。最近はそのような印刷代行が全盛を極めていますが、年賀状自体の意味を考えると今後印刷だけでよいのなら無くなってしまうかもしれません。また終活から墓じまいならぬ年賀じまいをする方も徐々に増えてきて複雑な思いになります。

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最近のここが変だよ、日本のコロナ事情

日本では以前よりはマシになってきましたが、毎日その日の新型コロナ陽性新規感染者数を発表して一時期は世界で最多だと報道しているメディアもありました。本当に世界最多なのでしょうか?数字上は世界最多であっても実際に外国でまともにカウントしているとは到底思えません。また医療機関で検査した場合は必ず陽性者はカウントされますが、自宅での自己検査キット陽性者数は定かではありません。そして日本ではお国柄でしょうか?現在でも外出時にはマスクを着けている方が大半です。一方で外国ではマスクをつける文化がないためか?現在はテレビで見る限りあまりマスクを着けていません。また0コロナ政策を続ける中国は別としてどの国も新型コロナはほとんどインフルエンザ並みの政策をとっています。そして経済を回すため海外からの入国制限がないにもかかわらず、日本の現在の感染症2類相当の対策は陳腐に見えます。事実上は5類相当に近づける政策を日本でも取っていますが、5類にすると法律の整合性上公費対象にならないとか、感染者数を追えないとかまだそんなことを主張する専門家もいます。事実上は5類に近いのですから早く日本も世界標準にしなければいけないと思います。もうそろそろ新型コロナではなく通常の風邪コロナとみなしても良い時期に来ているのかもしれません。ただ日本はなにせ行動が遅い。それは政府や厚労省などのお役所のせいか?我々の先輩である専門家会議の先生方が原因なのかはわかりません。また自分が同じ専門家会議の立場なら同じように素早い決定ができるかと問われれば自信はありません。なぜならさまざまな意見を聞く力が必要であるとおっしゃる岸田総理のような耳を私は持ち合わせていないからです。上に立てば立つほど舵取りは難しくなり行動が遅れてしまうのも十分理解できますが、それでも決断しなければならないときは即座に決めなければなりません。「上に立つのはつらいよ」と言ったところでしょうか。

次に愛知県ではアナフィラキシーショックかどうかはっきりとしたことは報道からだけではわかりませんが、接種後に死亡される事案がありました。愛知県医師会は速やかにアドレナリン筋注をすべきだったとの見解を出しましたが、時系列での詳細な内容がわかりませんので軽々なことは言えません。しかし患者さん家族からすればその対応にやりきれない気持ちは十分に理解できます。どちらの味方ということではなく、今となっては事実を淡々と出して検証するしかありません。そして二度と同じ轍をふんではいけません。それと関連して国は1日100万人を目標にどんどん予防接種せよと言っていますが、マンパワーとしては不可能なのです。打つだけなら目標到達は可能ですが、アナフィラキシーなど本当に危険な状況になったときに対処できる施設や器具や人員などは全く足りてないと思います。そして過去にアナフィラキシーショックのような修羅場を経験した医者なんてほんの一握りです。頭ではアドレナリン筋注とわかっていても修羅場で的確に行動できるかどうかは別です。よって私の診療所では個別の新型コロナワクチン接種は行っていません。

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毎日気分は波打ち不安定

昨年も秋に気が晴れませんでした。毎年一度は台風がやってきて被害が無ければいいのにと気をもみます。そして台風一過の秋晴れで気持ちも爽快と言いたいところですが、なかなかそうもいきません。なんとなく鬱々とした日々が続きます。何か目の前にトラブルがあるかといえばありません。何となく気もそぞろです。これは「自分のバイオリズムが丁度下降曲線に突入しているのか?」などと要らぬことも考えてしまいます。最初はその理由がわからず鬱々としていますが、ものの1週間も経過するとモヤが晴れてきます。そうなのです。理由は子供の受験が自分の身に降りかかって鬱々とした気分になっていたのでした。全く自分の事ではなく他人事なのに見えない力が自分に重くのしかかっていたのでした。結果が良かったからモヤが晴れたのではなくその緊張感から解放されただけなのです。ですから1か月後の結果発表が近づくと昨年と同じようなまた鬱々とした気分になるのです。それで良い結果が出れば「めでたし、めでたし」なのですが、人生そんなにうまく事は運びません。その押し寄せては引いていく波のように交互に気持ちはジェットコースターのように上下左右に揺れます。いつも思います。本当に赤の他人事なら全く悩むなんてことはあり得ません。少しでも自分に関係するから他人事ではなくなるのです。一番苦しいのは身内の場合です。寧ろ身内の事を悩むくらいなら自分で悩みを解決する方がとても楽です。しかし自分では解決できても身近な他人事はなかなか解決の糸がみつかりません。自分が口を挟めば更にややこしくこんがらがる事さえ多いのです。そんな鬱々とした気分が爽やかな秋晴れの元で蠢いているのです。

11月初旬もそうでした。受験を終えて帰ってきた時は一時的にモヤが晴れますが、数日もすると更に霧が濃くなってきます。結果が出る数日前はどん底です。そしてその時思います。感情をコントロールできればとても楽なのにと。仕事が忙しければその時の一瞬は悩まずに時間は過ぎていきます。しかしふっと気が緩むとまた思い出します。その繰り返しですが、人間は感情の動物なので致し方ありません。そのような感情の浮き沈みをどうにかうまくコントロールできないかと過去に何度もいろいろと試みましたが、うまくいった試しがありません。結局は「自然に任せる」のが最善だと気付きました。「全ての物事はなるようになる」という普遍の原理に行きつくことができれば少しは感情をコントロールできるようになります。そして昨年よりは少しは自分も成長したのかなと感じることもありますが、少し大きな波が寄せてくるとやっぱり自分はまだ成長してないことに再び気づかされます。長い人生ですからそれはそれで良いのですが、その場を乗り切る最中はやはり辛いものもあります。皆さんも多かれ少なかれ同じような経験をお持ちでしょう。

結局、そのような繰り返しを経験しながら1mmでも前進するしかありません。今回は子供の受験で気分の鬱々した状況でしたが、あと数ヶ月もすればまた別の鬱々とした気分になるかもしれません。ずっとこのラビリンスは続いていくのでしょうか?

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親から子への愛情

よく「親から子への愛情」とか「昔、自分が小さかった頃は極貧生活だったけれども親の愛情だけは誰にも負けなかった」などと雑誌やネットでみかけます。「そんなの親だから当たり前だよ」と言いたくなりますが、昨今の子供へのネグレクトや暴力や暴言などがニュースで報道される度に「時代は変わった」と言わざるを得ません。しかしそのような事実は全体から見ればごく一部に過ぎないのも事実です。大半は程度には差はあるものの「親から子への愛情」は普遍的に存在します。

今回は世間でよく耳にする美談やお涙頂戴は横に置きます。そして望まぬ妊娠の場合も除外します。欲しいと思って授かった子供ならどんな親でも最初に対面した時は否定的な感情を持つことはありません。その後に経済的な困窮や離婚などの試練が待っていようともほとんどは跳ね除けて前進できます。最近、子育て途中で親が病気になり子供が親を看病するヤングケアラーが話題によく出ますが、それをも乗り越えていく子供は傍目から見ればとても頼もしくみえます。しかし実際の当人たちはとてもそのような美談で片づけることはできません。そしてそのよう苦しい環境で育った大半の子供は大きくなってもその感謝の心を忘れない素晴らしい大人になります。一方で不幸にしてそのような環境が子供を悪事の道に進ませることもあるのも事実です。そのような色々な場面を見たり聞いたりすると結局のところ「自分自身の心の持ち方次第」になるのかもしれません。

では自分の場合どうだったかと言えば、極貧生活を経験したことや暴力、暴言、ネグレクトなど受けたこともない家庭でしたのでその辛さは言葉では理解できても実感としては決してわかりません。それは同じ境遇なら同意見でしょう。寧ろ一般的には裕福な家庭に育ったと言った方が良いかもしれませんので、子供の頃はそのような事を考えることもありませんでした。これも当然です。そして親になったら今度は対岸からの立場で子供を見つめます。少しでも幸せになれるようにと。それなりに生活にも余裕がありましたので、子供たちも私と同様に育ったと信じています。そして子育てに後悔しないように自分としてはこの15年間は全速力で走ってきました。空回りしたことも多々ありました。また子供たちが自ら望んだのではなく、親の身勝手な暴走ではなかったのかと自問自答する局面もありました。しかし親になりたくてなった親なら皆そのような場面に遭遇することはあったはずです。無かったという親がいればそれは鈍感な親に他なりません。

ただ最近になって少し気になる事があります。それはそのような幸せな環境で育った子供は逆境やプレッシャーにかなり弱いのではないかと思うのです。これも全ての子供に当てはまるものでもありません。強い子は強いのです。しかし一般的には少しだけ弱く見えてしまうのです。これも親の目からで子供はそう思ってないかもしれません。でも「残りの少ない時間でどうにか逆境に強い人間に育ってほしい」と願っています。

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目標設定への到達の極意は脳みそを騙すこと

前回は目標相手を探せということをお話ししましたが、今回は目標の具体的設定について考えてみたいと思います。いつも私はまず小さな目標を決めます。先にお尻を決めればそこに到達するまでの日数で割れば1日にやらなければならないルーチンワークも必然的に決まってきます。わかりやすく実際の例を挙げて説明しましょう。ここに実際に解かなければならない数学Ⅲの黄チャートがあるとします。例題は全てで280問あり、その例題の下に数問の類題が付属しています。そして単元の終わりごとにやや難しい問題が合計160問あり、トータルで440問を解かなければなりません。それが3月下旬の頃でした。お尻は次男の予備校の夏期講習が始まる7月初旬までとしました。3月下旬から6月下旬まで100日あります。そこで440÷100をしたいところですが、440÷90で計算します。答えは1日約5問になります。毎日継続することが大前提で1問も解かない日はありません。辛くても最低でも1問は解きます。続けるということが翌日への頑張りに更に続いていくのです。そして毎日の基本的なルーチンとして3問というルールを作り火曜と木曜と土曜午後の休みの日を利用してその日は6問解きます。日曜は予備として3問とすると週7日でおよそ30問解けます。それを90日の約17週間で賭けると30x17=510問とお釣りが来ます。しかし実際には解けない日や難問にぶつかって6問進めなければならないのに1問の日もあります。それを見越して余裕をもたせなければなりません。その間に仕事をしながら雑用も紛れ込んできますのでやっている最中はかなりしんどいです。今日は解くのをやめようと思う日もあります。しかしそのような日も最低1問は意地でも解くのです。その最低でもやったという達成感が翌日の頑張りに絶大なる効果を発揮するのです。また数学ですからわからないことも多々ありますが、その時は暗記してわかったつもりにして脳みそを誤解させます。すると何日か経過して考えてみると誤解した脳みそが今度は勘違いをして理解したつもりになります。それから更に数日が経過して見直すとその勘違いが理解したようになっています。ここまで来れば類題が出ても同じパターンで解決できます。そのような手段で6月下旬に予定通り終了しました。終了してしまうとそれまであんなに苦しかった毎日がとても懐かしくなります。これもルーチンに歯磨きをするように必ず毎日解いて脳みそを数学脳にしてしまうことにより勘違いさせてしまうのです。解き終わってから数日間は何もしませんが、その時は解いてない毎日の自分に違和感があります。ここまで来ればしめたものです。このようにルーチンワークを決めてメリハリをつけてやらないゼロの日は絶対に作らないで意地でもかじりつく。これがミッションを完了させるポイントです。そして必ず終了日を決めてそれよりも早めに終了させるように少し自分への負荷を強くして毎日のルーチン終了を数日間先まで早く終わらせると余裕も出てきます。このような方法で7月中旬からの次へのルーチンワークに繋げました。このように自分の性格を熟知して脳みそを騙す方法を確立すれば色々な場面で応用がききます。

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