国民と国家、個人と国家~憲法記念日に寄せて~

故ケネディ大統領の演説「国家が国民に何をしてくれるかを欲するのではなく、国民が国家に対して何ができるかを考えて実行することのほうが重要です」という名演説がありますが、個人的には非常に好きなフレーズです。とかく現在の世の中は自己責任が強く求められながらも、一方で他人に責任を押し付けることも多く、国が悪いとか行政が悪いといえば何でも通るかのような風潮があるような気がしてなりません。国家は国民を守らなければなりませんが、国民はあまりにも国に依存しすぎているのではないかと思います。では国家はどうかというとこれもしかり、理不尽なことが多々あります。この理不尽さも突き詰めていけば官僚や国会議員など個人の集まりが烏合の集団になり勝手な思惑で構成されています。彼らも個人からみれば国民のうちの1人で何の権力も持たないのですが、一旦国家という蓑を装着するといきなり権力者に変身して周囲を見渡すことができなくなります。皆が皆とは言いませんが、どうにかしてほしいものです。仮に変身するならば誰にでもわかる正義の見方に変身してほしいものです。

昨年、クリミア問題がありました。プーチン大統領がクリミア併合は国家が自国民を守るために欧米諸国との万一の戦争まで考えて核使用の可能性を検討したと言っています。もし隣人が殺されそうになったら米国と同様に銃をぶっ放してもロシアでは自己正当防衛が認められるのかもしれません。また国内の反体制派のリーダーが射殺されたときには大統領は犯人に法の裁きをかけるとは言っても死刑にするとは言いません。核の使用も法の裁きも国家元首という立場からすれば当然の主張でしょう。このように国家と言う蓑に覆われてしまうと戦争という殺人が正当化されてしまいます。一方で個人の立場の場合には大統領でも殺戮が容易に認められるとは到底思えません。国家という隠れ蓑は個人の価値観を覆い隠し常識とは完全に異なる考え方に向かってしまうようです。

このように相反する考え方は自分の中でも存在しています。仕事という社会的立場では社会や会社の立場での考えを優先させて言論の自由という個人の意見を押し殺すことが多いのですが、一旦家に帰宅して個人の帰った場合、ニュースなどでクリミア併合や国民と国家についての意見に関しては必ず右に傾く人もいれば左の人もいるわけです。これが個人でも国家のために尽くす場合と国家に対して要求する立場の違いになるのです。国家的主張が個人的主張より大きくなるのはどこの国でも仕方ないことで「我が国の国益を考えると・・」という常套文句がよく使用されますが、個人で考えれば「それはないでしょう」という非常識が国家間では常識になっていることに問題があります。この過激な主義主張がまかり通るからイスラム国が生まれて、最終的には大国間の第三次世界大戦勃発にもなりかねません。そんな世の中にしないようにするためには国民と国家または個人と国家の関係を戦後70年経過していますが、過去の大戦の失敗に立ち戻ってしっかり今一度考え直してみる必要があるのではないかと思っています。

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