世の中が便利になることは非常によいことですが、それによって失うものもあります。車は人間社会にとって現在ではなくてはならないものです。その引き換えに環境問題があります。そしてそのつけが結局人間の健康問題として深くのしかかってきます。きれいな空気や水、これらは人間が生きていく上で失ってはいけないもので仮に失えばそれは人類の存亡にさえ関わってきます。今トヨタが水素自動車ミライを発売しています。水素で走って水だけしか出ないなんて夢のような車です。江戸時代には飛脚が郵便物を運んでいました。そして黒船が襲来して産業革命があり、この100年で自転車から自動車、そして機関車からリニアモーター、そして飛行機までありとあらゆる乗り物は全て石油もしくはその発電された電気を利用しています。この水素自動車も水素を作るには必ず電気も必要なはずです。同じ化石燃料を燃やして環境破壊を引き起こすにしても、個々がそれぞれ勝手に破壊するのと一方で効率よく化石燃料で電気を作って個々にエネルギーを再配分する場合では後者がより環境には優しいのは明白です。その考え方がこの水素自動車に反映されているのだと思います。全てのエネルギーは地球が誕生してから水が作られ太陽というエネルギーが光合成により炭素を含んだ物質を作りました。その長年の合成と分解の果てに石油などの化石燃料になったわけですから、結局は地球という惑星から考えれば化石燃料を燃やして二酸化炭素が増えようが、水素を使って車を動かそうが地球という大きな目から見れば最も小さな分子や原子が結局のところ形を変えただけで消えてしまったり新たに生まれてきたものでもないわけです。それを考えればこれからの環境問題は地球の外からの地上全体に降り注ぐ無限の太陽エネルギーをいかに効率よく人類にとって使い勝手の良いエネルギーに変換していくかにつきるわけです。しかしそれには莫大な時間と費用がかかります。というよりも100年以上もしかしたら1000年の時が必要かもしれません。
エネルギー革命と同様に人間関係も同じことが言えそうです。いつまでも大切にしていた関係も一瞬の出来事でもろくも崩れ去り修復不可能になることも多いです。スマホやネットでとても便利な世の中になりましたが、一方でとても壊れやすい世の中にもなってしまいました。画面を通した文字だけのつながりと言いましょうか、感情を込める必要のない世界で相手の顔も見えない、ましてや本音なんて絶対に見えないガラス張りの冷たい仮想空間と表現した方がピタッとくるかもしれません。そのような便利な世の中に慣れてしまうこと自体が本当に正しいのだろうか?また人と人の絆でつないだ古き良き時代と比較して今を生き抜くことに不安を感じる自分はどこかおかしいのでしょうか?毎日毎日を必死で生きることは誰しも同じです。そして過ぎ行く時間のみが生まれてから死ぬまで期間の差こそありますが、唯一この世に生まれてきた生命全てに平等に与えられています。その他に平等なものはないかもしれません。そのような価値観だけはどんなに便利な世の中になっても見失ってはいけないと思っています。