裁判員裁判と検察審査会制度で何が変わったのか?

裁判員裁判制度が施行されてから6年が経過しました。最初は皆、恐る恐る自分は当たらなければいいなあと思っていたことでしょう。まあ宝くじに当たるようなものです。しかし最近の司法の判断で裁判員裁判の結果がよく覆されます。特に死刑判決もあり得るような凶悪犯罪の裁判員裁判では誰も関わりたくないはずですが、それでも運よく?当たってしまって参加することもあります。そして仕事の時間をやり繰りして自分の良心と向き合いながら判決を出すわけです。それも裁判官などのプロではなくあくまでも市民感覚でその結果を求められるわけです。また守秘義務もありかなりのプレッシャーもあります。ところがその出した結果が上級審で簡単に覆されます。過去の判例に照らすとそぐわないという理由で。だったら最初から検察官だけでやればいいじゃないかというのが当然の市民感覚です。経緯から考えれば当然なのですが、司法の場ではそれが当然とは言えないようです。その他にもはて?という制度に検察審査会制度があります。検察の不起訴を不服として再度審査要求をしますが、それもほとんど原審通りで却下されることが多いです。プロが不起訴としたのだから再度裁判をやっても一緒でしょ!という上から目線が伝わってきます。三権分立と同様に司法という権力構造に少しでも市民感覚的なチェック機構がはたらき始めたのですからそれは過去からみれば一定の進歩なのでしょう。しかし実際は議決してもひっくり返されるならやってもムダという諦め感が漂いはしないでしょうか。それではこのような改革はなんのためだったのか?ということになります。もっと市民感覚を反映しようということからスタートしたはずです。これでは司法の自己保持的満足に過ぎないと思いますが、皆さんはどう思われますか?

世の中には理不尽なことがいっぱいあります。それをいちいちあげればきりがありませんが、普通の人間ならどんなに残酷な被告人であり司法という立場に関与したとしても相手に死刑を求刑するということは並大抵のことではできません。よく無差別殺人などで死刑を求刑された場合に一方で必ず死刑制度反対という意見も聞かれます。これは死をもって償うという行為が絶対的な神への領域を侵すのではないかという懸念もありますし、唯一生き物で知恵と感情をもつ人類という種が自ら自分たちに対して破壊行為をしてよいのかという疑問にも繋がります。ただし個別的には死刑制度反対といいながらも集団的には国益をかけて自らの生命を守るために自衛という戦争をしかけるのも人間です。個としては小さくて小心者の人間も集団という傘下の蓑を羽織るといつの間にか勘違いして暴走化することもよくあります。「赤信号、皆で渡れば怖くない」と表現すればわかりやすいでしょう。海外を見渡せばたくさんこのような理不尽な出来事があります。その氷山の一角にこの司法問題も位置しているように思えます。何千何百万と殺戮をする戦争とは異なりますが、人が人を裁いて死に導くことに変わりはありません。個人的には死刑制度は存続すべきと思いますが、考えれば考えるほど正答にはたどり着けないような気がしてなりません。

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