回天記念館を訪れて

先月末の土曜の暑い日の午後に大津島の回天記念館に末っ子と行ってきました。夏休みの社会科の課題研究で地元の歴史的遺産についてレポート提出の宿題が出ています。地元では回天基地や人間魚雷については周知の事実ですが、地元を離れるとこの史実を知らない人が多くなります。今回は佐賀県民、市民の一部の人々に子供の夏休みの課題を通じてその史実を知っていただくには絶好の機会でしたので迷わず大津島へと足を運びました。徳山のフェリー乗り場からおよそ40分の船旅です。そして乗ってみて気づいたこと、それは以前いつこの船に乗って大津島に行ったのだろうか?と記憶の糸をたどりましたがなかなか思い出せません。やっと過去の記憶にたどり着いたのが、なんと15歳の今頃だったのです。かれこれ37年前にまで遡らなければなりません。ちょうど今の末っ子とほぼ同じ年齢です。その時は回天基地ではなく中学時代の恩師や友人と海水浴に出かけたのでした。地元にいると本当に大切なものが言葉では表現できても体感することは縁遠くなってしまって空気のようになって見えなくなるのだなあと再認識させられました。自分にとっても忘れかけていたものを取り戻せた貴重な1日でした。


船が馬島港に接岸した後、歩いて10分で記念館に到着です。坂道を上がると汗が一気に噴き出し記念館の中のクーラーが心地よいというより肌寒く感じられます。それは当時20歳そこそこで日本のために尊い命を捧げた隊員の方々の英霊を前にすると身震いするような引き締まった気持ちになったためのピンと張り詰めた空気のせいであったのかもしれません。記念館の中で隊員の方々の家族への手紙の文字を目で追っていくと胸が詰まりそうになります。今自分がこの世に生きているというよりも祖先のお陰で生かされているといった方が適切かもしれません。私たちの祖先が未来の幸せな日本を夢見て命を捧げる姿を想像すると胸が張り裂けそうにもなります。そのような厳粛な気持ちになった約1時間の見学でした。その後実際に潜水艦に乗船してこの地を出発する基地跡を見学しました。夏でもひんやりとした300mほどのトンネルを抜けて海に突き出たそのコンクリートの建物まで続く道を歩きながら当時同じようにこの道を歩いて永遠の別れを告げた隊員の方々の気持ちを考えてみましたが、到底想像を絶する状況違いありません。そしてその物悲しく寂れた無機質なコンクリートの建物のから青い海が見えます。そこから潜水艦に乗り込み日本の未来のために片道だけの燃料で出発するのです。当時の海の色も今と同じようにきれいな青色だったのかなあとつい想像してしまいます。

そして現在の平和な日本があります。今生きている私たちはさらに未来の子供たちにこの平和な日本を託さなければいけない義務があります。近くにいると私たちはついついその平和の尊さを忘れがちになります。また過去のことを誰かが未来の子孫に伝えなければ忘れ去られてしまいます。広島や長崎の原爆投下や終戦記念日以外にも多くの尊い史実が日本のあちこちに残されていることを私たちは忘れてはいけません。

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