両親と膝を突き合わせた話

唐突な質問ですが、あなたは両親と向き合って真面目に話をしたことが生涯で何回ありますか?勿論、現時点で既にご両親は他界しているという方も多いでしょう。それならばご両親が存命の時に何回話しましたか?話した内容も種々あります。例えばお金がどうしても必要な場合その話題が最優先になるかもしれません。それはそれで重要なのですが、今回の話題はそんな次元の話ではありません。自分の物心がついた後は自分の目でしっかりと親の背中を見ることができます。しかし自分がまだ幼い頃、つまり自分のことすら覚えていない時期よりも以前のことや更に言えば自分が生まれる前の両親の生き様や生い立ちなどは、自分の両親が子供に語らなければ決して知る由もありません。親戚筋からチラホラと聞くこともあるかもしれませんが、それは断片的に過ぎません。

ではもしそんな内容を聞くとしたらどんな時か?と想像します。事実、私の場合そのような経験がほぼ皆無に近かったものですから。会話の端々に戦争時代の自身の生活状況やもっと昔の生い立ちを過去に聞いたことはあります。しかしその内容は何かの会話のついでに出た話ですぐに立ち消えになってしまいます。つまり今回の私の求めている両親との会話というのは、両親が人生をどういう風に考えてどのように生きてきたかという心の内面のことです。読書をすれば上辺だけになるかもしれませんが、他人のそのような生き様や考え方は簡単に知ることができます。本当に書の中に自分の心の内を全て暴露しているかどうかは著者本人でないと知ることもできません。またそれを確認するために著者に仮に突撃インタビューをしたとしても真実を語ってくれるとも限りません。ですから本当に両親と膝と膝を突き合わせたような会話をしたことがあるのだろうか?という疑問がこの数年で私の心の中に突きあがってきたのです。同様に「自分が子供たちに同じことを将来するか?」と聞かれても「はい」と自信を持って答えられません。「どこまで話せばいいのか?」や「自分は話したいけれども子供たちは聞きたいのか?」という疑問が湧いてくるからです。過去に若かった両親が同じように自分に話そうとした時、私に聞く気持ちがなかったのかもしれません。そのような膝を突き合わす瞬間はもしかすると過去にもたくさんあったかもしれません。しかしその瞬間を自分が見逃していたのではないかと今になって大いに反省もしているわけです。

このような思いが最近の私の心の中でとても大きくなりました。「なぜか?」それは「年老いた両親が数年後にこの世に存在しているか?」という問いに「はい」と自信を持って答えられなくなったからです。また末っ子が中学生になり寮に入って一般家庭より早く子供たちが親元を離れたことも大きな要因です。そして何よりも自分の残りの人生カレンダーを見ると通常ではおよそ30年間の日付しか残ってないのです。石原10年日記3冊分しかありません。そのような思いが私に後悔をさせないように両親と膝を突き合わせた会話をするように急がせているのかもしれません。

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