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3月の初めに家族皆の時間を強引にこじ開けて家族写真を撮影しました。なぜそのようなことをしたのか?まず子供たちの成長の一コマ一コマは写真館で卒業や入学などの節目に撮影してアルバムにしてあります。そのアルバムが今となってはとても分厚くなり年輪を感じさせます。では「我々の写真は?」と振り返るとあまりありません。昔は撮影していましたが、子供の成長と共に自分たちは撮らなくなりました。また「自分の親の写真は?」と考えると更に見当たりません。旅行に行ったりした時の写真は存在しますが、正面からの凛々しい姿の写真はないのです。冗談にも両親の葬式写真くらいはまともな写真を飾りたいと以前から思っていましたのでそれも含めて皆の忙しい合間をぬっての全員集合写真と個別写真です。子供たちはそれぞれ東京や広島そして佐賀の寮にいましたので長期休暇ですら皆が一斉に揃うことは稀なのです。今回は年老いていく両親の後ろ姿を見るにつけ先送りにしてきた思いを今こそしておかなければそのタイミングを逸してしまうと感じましたので思い立ったが吉日でバタバタと予定を開けての写真撮影となった次第です。

前日までは雨が降っていましたが、朝からはお日様も顔を出して絶好の撮影日和です。撮影していただくプロの方には以前から子供たちの撮影でお世話になっています。今回は家族皆でしかも記念写真でもありますので自宅まで出張していただき撮影しました。スーツを着てシャキッと撮影するには暑いくらいの日差しです。1階の診療所の一角で撮影を開始して最後は野外での撮影で終了しました。この日のために長女と次男は昨夜帰省して本日の午後にまた東京や佐賀へとトンボ帰りです。撮影しながら思ったこと、それはこれから先の将来に至るにやはり節目には記録を残さなければ後世に振り返ってみても何も残らずに寂しい思いをします。記憶にも残りますが、詳細な記憶は年月がどんどん消しゴムで消して斑模様になっていきます。また「両親の1年先は?」と考えた時に「本当に実在しているのだろうか?」という危機感が今回の撮影の動機になったのだと思います。ときに年賀状で一張羅のスーツを着て家族写真を送ってくる友人がいます。以前は羨ましいと思ったことはありませんでしたが、子供の成長と共に家族写真を撮影すること自体が皆無になってくると撮ろうと思ったときに撮っておかないと嘘になるということです。「親孝行したい時に親はなし」と同意義でしょう。4月になって皆が今はバラバラですが、先日やっと立派な写真がアルバムと共に送られてきました。それを眺めながらやはり撮影しておいて良かったと思っています。

何年先かわかりませんが、節目にこの家族写真を見返した時にその当日の雨上がりの日差しの強かったあの瞬間のシャッター音を思い出すに違いありません。あの時に皆で無理をしてでも時間をこじ開けて良かったと。もしかしたらお葬式の時に遺影を見ながらまた思い出すかもしれません。そして親から子へそして孫へと受け継がれていく一瞬一瞬をフォトで残しておくことは素晴らしいことだときっと思うはずです。

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