思想の自由と表現の自由は違う

最近よく表現の自由という言葉が独り歩きしています。この言葉を本当に理解しているのか甚だ疑問に思うことが多いのです。自由という言葉は聞こえが良いのですが、自由は何を言ってもよいのではありません。例えば差別用語などは表現の自由ではありません。では区別なら良いではないかという声が聞こえてきます。しかし自由を振りかざすためには相応の義務というかルールが存在します。SNSで皆さん自由な発言を投稿しますが、勘違いをして何でも思ったことを書けばよいという人がいます。その個人の考え方を頭の中で展開するうちは思想の自由であって誰も文句を言いません。しかし言葉として文章として出してしまうとそれが全て自由とは限らないのです。この事実は誰しも言われればその通りだと納得しますが、実際に書かれていることは何の根拠もなくただの大きな独り言なのに敢えて「自分は正しく自由に表現してどこが悪い」とどこ吹く風です。勿論、執筆者の責任において記名を義務化すれば言えることも言えずに社会が委縮して内部告発などできなくなりますので無記名は尊重しなければなりません。しかし無記名を良いことに相手を傷つける発言や誰が読んでもそんな事言う?という表現をたくさん目にします。それは公的な新聞などの社説だってしかりです。その考えは一部であって全部ではないのにいかにも社会全体がそのように考えているという風な論調で書かれていることが多いと思っているのは私だけでしょうか?

話が逸れてきましたので元に戻しますが、頭の中で考える事はあくまでも一個人の中からでませんので思想の自由は他人があれこれ関与することではありません。しかし表現の自由は多くの人々が目にするわけですから自由の中に制限があります。それを勘違いしている人もいることが問題なのです。それが挙句の果てにイジメなど陰険な問題につながり境界が見えにくくなりどんどん拡散されて収集がつかなくなり傷つく犠牲者がでてくることもあるのです。そこを投稿者はぜひ考えなければいけません。その場の思い付きで書いても一度書いたことは後戻りできずにどんどん拡散します。最近は訴訟になることも多く誤った表現を消せる権利という事例が登場しましたが、それでもネット大手のIT企業は表現の自由を盾になかなか消せる権利を認めません。それが真実かどうかは二の次でいつも表現の自由という言葉で逃げます。その企業の中でも心ある人は多くいるはずですが、企業の総意となるとバカの一つ覚えで表現の自由となるのでしょう。

最近、世の中が誰でも自由にSNSの投稿ができてそれを誰でもフリーアクセスで行き来できるというとても便利な時代になりました。しかしその自由な表現が本当に自由に則った表現ならよいのですが、投稿の中にはかなりの数の履き違えた自由な表現がまかり通っています。そのような誤った文章を読むと読んだ側もいい気はしません。「それなら読まなきゃいいじゃないか」と言う意見が出てきますが、それこそが誤った考えを更に助長するのではないかと思うのです。

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