気管切開と胃瘻について

高齢化社会を迎えて寿命が延びるとどうしても病気が増えます。昔なら「畳の上で死ねれば本望」と言っていましたが、今では医学の進歩で昔なら助かるはずもない命が助かってしまいます。それが良いことか悪いことかは私にはわかりませんが、目の前に死にかけた人をみたら素人でも助けなければいけないと思うでしょう。玄人からすればそれが結果的に将来本人と家族にとって良いことに繋がるとは限りません。高齢者が増えて医療費が上がり国は病院から自宅へと盛んに訴えています。20年前の医療レベルとは隔世の感がありますが、その当時すでに現在の予測はついていたはずなのにいつの間にか2020年に突入です。また一方で一般人にとっては今を精一杯生きることしかできません。20年前に胃瘻が開発されましたが、簡単に言えば口や血管から栄養を入れずに直接胃に管を通して栄養を送る技術です。当時の医療者は患者さんの家族の希望で延命のみの目的であっても胃瘻を造設せざるをえませんでした。その行為が現在では疑問視されて延命のみでは胃瘻は施行されません。それよりもっと前から気管切開はありました。呼吸停止した患者さんに一刻も早く脳に酸素を送り届けないと脳死になりますので気管にチューブを挿入して人工呼吸器につないで一命をとり止める処置を気管挿管と言います。その行為自体には異論はないのですが、その後自分の力で呼吸できない患者さんはいつまでもチューブを気管に挿入できないので、気管に穴をあけて管を装着して引き続き人工呼吸器に繋げなければなりません。そこまでは仕方ないことなのですが、一度人工呼吸器を繋げてしまうといくら家族の願いで人工呼吸器を外してほしいと請われてもはずせません。なぜならそのような行為をすると逆に医療者側が殺人罪に問われる可能性もあるからです。かつて医師がそういう行為を行い裁判になって社会的関心を集めたこともありました。そのような矛盾と相反するかのように医療の進歩を見てきた自分としては複雑な思いもあります。第三者の立場からは冷静に物事を言えますが、いざ身内に起これば気持ちが揺らぐかもしれません。しかしそれは誰しも自分自身にふりかかってこないと考える事はほとんどありません。

今回自分の父がそのような状況になりました。過去の経験から延命は困難と私は判断しましたが、正しいかどうかはわかりません。また延命措置に関して一個人の意見を押し通すこともできません。多数決で決めることもありますが、このような繊細な問題の場合は全会一致が大原則です。そうしないと医療者側が困ってしまいます。意見の相違があった場合は自分の意見を封印して他者の意見を優先させて意見をまとめて全会一致にするということになります。それが本当にいいことかどうかわかりません。更に何十年後に周囲があれは正しかったとか間違いだったと判断するかもしれません。しかし現在進行形での判断は困難で、当時の判断が皆の気持ちを考慮すれば最善の策だったのかもしれません。延命治療に関する正解はありません。これからもっともっと高齢者が増えていきます。できれば誰しもこのような難しい判断は避けて通りたいのが本音です。

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