跨線橋に10年

コロナ特集を続けてきましたが、今回は他の話題にしたいと思います。跨線橋は皆さん御存じでしょうか?辞書で調べると「橋の一種で鉄道線路をまたぐもので道路をまたぐものは跨道橋という」と書かれています。何気に小学生の頃から日常用語として使用していましたが、漢字テストをされたら多分現在でも書けません。しかし日常会話では地元民皆が普通に使用していました。この地元の慣れ親しまれた「古川跨線橋」がこの度老朽化により架け替える事になりました。東京オリンピックで私が生まれた年の昭和39年に建設されましたのでゆうに50年を超えて、もう4-5年前から架け替えの話は出ていました。しかし工場群と住宅街を結ぶ基幹道路ですので、架け替え工事中には何千人という通勤者が迂回しなければなりません。現在でも朝夕の通勤時間帯は大渋滞になりますので、古川跨線橋が1本なくなれば大変なことになると地元民は常々思っていました。そのため地下道の建設や現在の跨線橋の補強などいろいろ代替案が出されましたが、貨物の停留場所にもなっておよそ100mの間に何十本もの線路がしかれている上か下を鉄道の大動脈である山陽本線も走り24時間列車が通過するために工事も大変だと言う事で代替案は全て退けられて架け替えとなりました。そして現在進行形の交通網に影響を与えずに建設作業を行うには10年という年月がかかるとの試算でした。これに対して地元民は一斉に「なんでぇー、そんなに長期なの?」と疑問の声が上がりましたが、当局は「現在進行形の交通網に影響を与えずに作業を行うには10年」という呪文のような決まり文句以上のことは言わずにとうとう通行止め当日になったのです。渋谷の駅再開発や新高輪ゲートウェイ駅のような当地よりももっと複雑な工事でもそんなに時間がかかったでしょうか?甚だ疑問です。個人的意見としては建前とは別に本音は地方の行政府にはあまりお金がないことと地方では人口が少ないために同じJR管轄下でも大都市とは優先順位が違うというのが正直なところだと思っています。それはそれで致し方ないのですが、多数決の原理で進むこの建設について一部不満があるのも事実です。

あまり文句ばかりを言っても仕方ないので、跨線橋の古き良き思い出をお話したいと思います。この跨線橋は小学生や中学生の通学路でもあり私は通学路として使用していませんでしたが、小学生の頃に跨線橋を歩いたり自転車で通って友達の家に遊びに行った記憶が蘇ってきます。流石に高校生になると通らなくなりましたが、上京して大学から帰省するたびに親の車での送迎にこの道を通っていました。新幹線で周南工業地域の夜景が見えてきてその跨線橋を通る度に「地元に帰ってきた」という感慨にふけったものです。現在地元にいない同級生もこの跨線橋には何かしらの記憶があるはずです。そんな自分たちと同年代の跨線橋がなくなるのですから少しは感慨深いものがあるのかもしれません。10年後には新しい古川跨線橋がお披露目される予定ですが、流石に10年は長い!BACK TO THE FUTUREのデロリアンに乗って今から10年後の跨線橋を観に行きたいものです。

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