リーダーシップ

このコロナ禍でリーダーシップという言葉が取りざたされています。リーダーシップなんて小学生の頃から国民誰もが口にする言葉です。広辞苑で調べてみますと「指導者としての地位または職責」「指導者としての能力、資質、統率力」と書かれています。誰が読んでも当たり前の翻訳ですが、実際にこの国を見渡してみると上へ行けば行くほどリーダーシップをとれる人材が不足していることを痛感しているのは私だけでしょうか?勿論、多くの人を束ねるにはリーダーの人望と能力が必要不可欠です。我々下々の世界ではそれでもリーダーが存在して困難な事でも曲がりなりにも進めていくことができますが、それは少人数の集団だからです。一方で市政、県政そして国政という大きな集団を引っ張って行く上では我々が想像しているリーダーシップ像がそのまま当てはまるとは到底思っていませんが、それでもこのコロナ禍という国難を乗り切るには強いリーダーシップを兼ね備えたトップが必要なことに変わりはありません。人が多ければ多いほど右や左や上や下などとしょうもない事も含めてとやかく言う輩が増えます。しかしそれは当然の事でその中でどの意見を取り入れ排除するかを決めるのがリーダーの仕事ですが、更にその意見を有言実行していかなければ意味がありません。有言無行ならテレビのにわかコメンテーターでも総理大臣は務まります。しかしそれでは日本丸が沈没してしまいます。

最近、政治家は地方行政を含めて二世議員の花盛りです。個人的に二世議員が悪いとは思いません。特殊な職業の場合「親の背中を見て育つ」ことはとても重要です。しかし「親の七光り」だけでは人を引っ張る事など到底できません。最初は「親の七光り」だけであってもその後にしっかりと精進して大成する人もいれば逆もしかりです。政治家に限って言えば後者の方が多いように感じているのは私だけでしょうか?それぞれの田舎の身内の事情であったとしても選挙で選ばれたわけですから責任は重大です。現在の総理は二世議員ではありませんでした。たたきあげで派閥を持たない総理がどこまで通用するかということとどれだけリーダーシップを発揮できるのかという期待もありました。勿論、総理大臣という国のトップですから生半可な事では務まりません。しかしそれでも政治は結果責任を伴いますので駄目なものは駄目と批判を受けるのも当然です。その意味で今回の総理の就任時の支持率が数カ月で一転して不支持と拮抗するという事実は政府や国会議員の目線は国民とはずれているということになります。その風を瞬時に察知してコロナ対策をしなければ更に支持率は下がるでしょう。その場を読む力が無ければリーダーとは言えません。また決断する時はズルズルでは駄目で即時決断する能力も必要でその先を読む力も無ければなりません。このようなリーダーシップを持つ人物はその世界を見渡してもなかなかいませんが、それは狭い社会の中でも同様です。ちょっとした会のまとめ役、学校で言えばクラス委員もしかりです。そのような小さな環境から我々も協力しながら将来のリーダーになるべく人材を育てていかなければなりません。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です