今年の桜も格別な気持ちで観ながら

また桜の季節がやって来ました。3年前の桜を見たのが最後で翌年からの桜もこの時期に同じように咲き誇っているのですが、記憶が定かではありません。多分、その当時は来年の桜はきっと今年以上に感無量に咲き誇るに違いないと思いながら一昨年、昨年と鑑賞していたのかもしれません。そして今年の桜も昨年同様に来年こそは晴れやかな気持ちで花見をしたいと思いながら眺めているのです。そして来年の今頃、今現在観ている桜の記憶が定かではないのでしょう。結局、新型コロナが落ち着くまでの桜の季節は同じような繰り返しになるのではないかと思います。同じようなことが40年前にもあったような記憶がします。丁度40年前の桜が咲く頃に上京して右も左もわからない新宿で桜を眺めていたはずですが、全くと言っていいほど記憶が抜けています。3年前に母校の大学の桜並木の下で長男の入学式に参列した時の散りゆく桜は決して忘れることが生涯ありませんが、当時の自分の入学式に咲き誇る桜は全く記憶にないのです。

それはなぜなのでしょうか?その記憶にない当時は相当なアドレナリンが自身の体内で分泌されて交感神経が活性化された状態だったからなのかもしれません。交感神経が活性化されると生き物は戦闘モードに突入して身に降りかかることを払いのけるために必要最小限の情報しか入力できなくなり、その他のどうでもよい情報はスルーされます。戦闘モード中では咲き誇る桜などはどうでもよい情報であると脳は見なすのでしょう。一方で命に関わるかもしれない情報は事細かに脳で処理されます。では副交感神経が活性化されたリラクゼーションされた時はどうなのでしょうか?例えば温泉に浸かりながら露天風呂から散りゆく桜を観たなら一生涯忘れえぬ記憶となるはずです。実際に20年前に今は亡き父と鹿児島の霧島連山へ旅行した時に露天風呂から眺めてまだ咲いてない桜を眺めた記憶は今でも鮮明に残っています。次に来るときは必ずや散りゆく桜を眺めようと誓いましたが夢は叶いませんでした。また学生時代には2月には後期試験があり3月は再試験などに追われてどうにかギリギリで進級してほっとした時にはいつの間にか桜は散ってほとんど桜の記憶はありません。

では今年の咲き誇る桜の記憶はどうなるのでしょうか?ここまで自身の事を詳細に分析できていますので今年の桜の記憶が将来に残ると読者の皆さんはお考えになるかもしれませんが、答えは否です。まだまだコロナ騒動からは脱出できずに5歳から11歳の集団接種に奔走して、次男の浪人生活突入などもあり気忙しい3月でした。そして4月からもまだまだそのドタバタ劇は続きそうですので結局はアドレナリン放出状態のまま維持されそうです。そのため来年の今頃に今現在の記憶を辿ってみても定かではないような気がしてなりません。コロナ騒動が終結し子供たちの行く末の方向性が決まれば少しは戦闘モードから解放されて咲き誇る桜の記憶も蘇るのではないかと思います。いつになれば記憶定着モードになるかは現時点で定かではありませんが、早く来てほしいものです。

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