物欲と心欲

人間には欲望があります。その欲望には形あるものと目に見えないものの二種類があります。前者が物欲なら後者は心欲と表現すればよいでしょうか。心欲という言葉は少しわかりにくいので精神的満足と言い換えればわかりやすいかもしれません。世の中はどうしても目に見えるものを評価しがちですが、本当に大切なものは目に見えないものだと個人的には思っています。

それではまず物欲から論じてみましょう。物欲の代表選手はお金でしょう。ただしただの紙切れであるお金はそれ自体に価値があるのではありません。その札束の厚さや預金通帳の0の数がそれと等価である別のものに交換できるために欲しいものなどを数値換算できるからお金は物欲の代表になります。いわゆる人間にとっての物理的な価値基準の物差しと言い換えることもできます。努力の対価が数値換算されて報酬としてお金が支払われますが、あくまでもお金が目的ではなくその努力の結果であるということは誰もが承知しています。しかし歳をとるにつれていつの間にかお金が主人公になり努力の代償である個人の努力は忘れ去られがちになります。最終的にはお金を増やすこと自体が目的化されることも多くなり、人間はお金に操られて自分自身を見失ってしまいます。勿論、借金があればそれを返済することが主目的になりますが、いつの間にかどんどんお金に縛られていきます。同時に物に対する執着心も心の中を覆っていきます。それが物欲の本性だと思うのです。お金が決して悪ではありませんが、それ自体が主役になるとよろしくない状況に陥りやすいのです。一方で心欲は自分の脳みその中にしか存在しません。しかしその空間は果てしなく広がっておりその空間を全て満たすほどの満足は到底できません。そしてその空間では自分は自由に往来でき誰も邪魔しません。いわゆる思想の自由です。またその中では自分が好きなことを考えて自分が好きなことをしてそれで自分が満足できれば他者の関与はありません。自分の心が満たされ満足していれば、他人から自分を否定されても全く関係ありません。しかし自分を含めて凡人はなかなかそう割り切れません。

以前から物欲と心欲について引っかかっていましたが、歳をとるにつれてその違いがはっきりと見えるようになってきました。若い頃は子供を育て生活をしていかなければなりませんのでお金を稼ぐことも重要な目的になります。しかし運よく順調に借金を返済して子供たちも巣立ちして自分たち夫婦だけでそれなりに生活していくだけなら若い頃のように必死で物欲に駆り立てられることも減ってきます。物欲から心欲に変わるということはある意味で幸せなことだと思います。以前なら子供の塾代も良い学校に行かせるというある種の物欲であったのかもしれません。しかしそれを達成するとその達成感は精神的満足である心欲へと変わります。人生も歳をとるにつれて物欲から心欲に変われればそれにこしたことはありません。人生最後の死ぬ間際に一言「いい人生だった!」と言えれば墓場まで物欲を持っていく必要はありません。

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