世界中、どこでもケータイ、にらめっこ!

先日、東京に出張に行った時のこと。都内のJRや地下鉄に乗っているとき、車両の中で半分近くの人が液晶画面に向かっていました。なんとなく現代的な光景を見たような気がしました。25年前に東京にいた頃の朝の通勤ラッシュの中では、目をつぶり瞑想にふけるか、新聞か文庫本を読むか、パスポートサイズのウオークマンを聴きながらイヤホンからシャカシャカと音楽が漏れ出ていました。今回は週末の上京で、朝夕のラッシュ時のことはわかりませんが、やはり液晶画面を見ている人が一番多いのではないでしょうか?以前海外に行ったとき、アジアのリゾート地ですが、そこでも現地の人は皆ケータイ片手に歩いています。むしろ異邦人である我々の方が旅行雑誌や地図を片手にアナログ人に変身しています。一週間後に帰国するとデジタル人に戻る予定ですが。もう世界中、多分アマゾンやアフリカのジャングル奥深くに行かなければ、どこでもこのような光景が当たり前になっているのでしょうか?

ケータイを自分が持ち始めたのは約20年前の1995年です。ポケベルで緊急時に呼び出しを受けるとその周囲の公衆電話を探さなければいけません。現在ほど探すのに苦労はしませんが、それが面倒で購入しました。つまりポケベル付電話で本当に必要不可欠の代物でした。しかしそれがどんどん付加価値ばかり高められていき本来の目的である人との緊急のコミュニケーションという意義が薄れていきました。現在はスマートフォン一色ですが、個人的にはまだそこまでいくことにためらいを感じています。買い変えてしまえばそのような思いは一蹴されるのでしょうが、なかなか踏み切れません。昔なら両親に「あまり画面ばかり見ていると目が悪くなるからやめなさい」と怒られていたでしょう。今は親子連れでも親は親のケータイで子どもは自分のゲーム機で画面を追いかけています。田舎では電車の中に人がぎゅうぎゅうに押し込められている光景は見かけませんが、バスの中でも歩行中でも画面に食い入って見ている人はたくさんいらっしゃいます。

あと20年したら今度はどんな光景になっているのか予想もつきません。文明、技術が発達して、いろいろ便利なものが発明され、日常生活が便利になるのは非常によいことで否定する気はありません。しかしコンピューターなどの電子技術が発達した現代は昔と比べてなんとなく人と人とのコミュニケーションの取り方が下手になったのではないかと思っています。自分を例に取ってみてもメールはとても便利でいいものだと思っていますが、昔と比べて、直接人に会ってまたは電話で会話してという手段は明らかに減り面倒くさく思うようになりました。このような文明的な功罪が将来の人類に与える影響はどのようなものになるのかはわかりませんが、どんなに機器が発達しても人間社会では人と人とのコミュニケーションなくしては成り立たないことは明らかだと思います。

「世界中、どこでもケータイ、にらめっこ!」という標語が当分は続きそうですが、果たして本当によいことなのかどうか疑問に感じることがあります。

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