延命治療

高齢化社会の突入で延命治療については議論が大いにあることと思いますが、今回は上からも下からも表からも裏からも覗いてみましょう。所詮、煩悩と欲のある人間の考えることですから賛否両論併記でいきたいと思います。

まず「もし自分が寝たきりの植物人間になったらあなたならどうしてほしいですか?」というお題でいきます。この質問ならほとんど人は自分も含めて答えは同じで「延命してほしくない」いう意見に集約されるでしょう。しかし同じ質問でも「自分の親なら?」または「自分の子供なら?」という質問だと急に答えが分かれます。親の場合大往生なら延命なしという選択肢が増えると思いますが、突然のことなら悩みます。少しでも長く生きてほしいという意見が増えると思います。しかし10年来の介護の果てなら延命なしという意見もあるのではないでしょうか。ところが血の分けた子供の場合なら延命あるのみでしょう。親が先にあの世に行くことには異論を挟みませんが、自分の子供が先に旅立つのは到底受け入れ難いものがあります。あくまでも医学評論家的な立場での発言です。でも考えてみてください。条件は皆一緒。瀕死の状態で余命いくばくもない状況にかわりありません。ただ自分のことか家族のことかまたは評論家的な他人事かの違いだけです。まだものも言えず生まれて間もない子供なら別ですが、ある程度社会を覗いて事の善悪がつく年齢になれば自分の生き方、死に方を考えたことはあると思います。結局は「その時になってみなければわからない」という答えが正解だと思います。人間なんて結構身勝手な生き物ですから。

最近、臓器提供意思を示すドナーカードを提示する人が増えています。自分が脳死なら人にあげてもいいかなと皆思うでしょう。しかし自分ではなく家族の場合は答えがまるっきり変わってきます。「そこまで痛い思いはさせたくないから絶対イヤ!」という人から「世の中のどこかで愛する人の分身が生き続けてほしい」と思う人まで幅広いでしょう。脳死はあと数日の命ですからこのような冷静な判断がある程度できますが、脳死ではない植物状態だとこうもいかず前述のようにころころと考え方が変わったり、その時に置かれた状況だけでも変わることもありますよね。

結局は「テメーの事はテメーで決めなければならない」ということが大前提でそれもしっかりとしてないから家族の意見集約もできないのだと思います。最近はドナーカードや生前遺言書の作成から自分の葬式まで生きているうちに死後の事まで事がうまく運ぶようなしくみができています。全てそうとは限りませんがビジネス化されています。また意味は違うものの厚労省は「自宅で最期を」と医療費削減目的で叫んでいます。医者になって25年、医者になりたての頃に自分の祖父が眠るように老衰により自宅で亡くなりました。天井をみながら死にたいといつも思う自分ですが、今は医療技術の発達とモンスターが多くて最期の人間の尊厳死さえも制約が多くなり関係者としては複雑な気持ちです。

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