今年も子供の文化祭に行って来ました!

今年も10月の最終週末がやってきました。そうです、わが子の文化祭の日なのです。我が校の文化祭は高校2年までが参加で、高3の受験生は自宅学習というのが決まりで長女は残念ながら不参加です。三者懇談や参観日などは普通の日にあるため仕事のある身ではなかなか子供たちの学校を訪問することができません。年に一度のこの機会を逃すとまた訪問の機会がありませんので、毎年この日だけはと意気込んでの参加です。

文化祭といってもたかが15歳前後の子供のするお祭りです。たわいもない催しが多いのはいなめません。以前このブログに書きましたが、兵庫の有名中高の文化祭の物凄さは絶句もので誰が行っても一見の価値がありますし見ていてわくわくしました。しかしその学校のレベルが抜きんでて特異なだけであって普通の中高の文化祭はかわいいものだと思います。だから自分の子供が参加しているからこそ興味があり楽しいのであって、自分の子供が参加していなければ行く理由がないというのが本音だと思います。それは運動会でも同じことで、自分の子供が出場するから「がんばれ」と応援できてまた他の子供たちにも声援が送れるのだと思います。全くの赤の他人の子供の運動会だったら皆さんもわざわざ観に行かないのではないでしょうか。スポーツでも文化的なものでもそれがエンターテイメントとして成立するならば人はお金を払ってでもわざわざ時間を割いてまで観に行くのであり、そうでなければ頼まれても行かないでしょう。

文化祭

今回は中2の長男が10月の初めから放課後に催しの準備をしていましたので、まずはその催しに行きました。ビンゴゲームでした。小4の次男はいつも学校中を一人で歩き回って探検します。見るもの全てが目新しくとても楽しいようです。昼食は学食で事前に購入していた昼食券でカレーやラーメンなど子供たちが普段食べているものを試食します。200円程度の値段で食べることができますので、これくらいの味付けと量であれば十分という満足感に浸ります。そして校庭では高校生が露店を開いて焼きそばやたこ焼きを売っています。案の定、次男が買えとせがむのが恒例でそれも買って食べますので帰るころにはおなか一杯になってしまいます。またこの学校には外国人の先生やニュージーランドから来た留学生もいますので、とても国際色豊かです。なかなか日本人は外国人慣れすることが少なく人見知りするケースも多いので、特に小4の次男にはよい経験ができるだろうと思います。その他のクラスではお化け屋敷やゲームなどよくある催しが多いのですが、子供たちが一生懸命に準備したものです。こちらもその催しに参加して実際にやってみたら意外と童心に帰って面白く楽しむことができました。特に次男にとってみればどの催しも夜店のゲームみたいなものでとても楽しそうに遊んでいました。

このような文化祭でも運動会でも、将来ある子供たちが生き生きとしている姿を見るとそれだけで自分にも明日からの活力が湧いてきます。年に1回の催しですがこれからもできる限り参加して若いエネルギーを吸収してきたいと思っています。

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今年の台風から思う自然災害の猛威

今年はいつになく台風が多い年です。特に台風26号は伊豆大島に甚大な被害を残して立ち去りました。また27号も28号も次々と現れては去っていきます。災害にあわれた地域の早い復興を願わずにはいられません。そしていつも思うのですが、災害が起きる前に入念な備えをすべきですが、現実には想定外のケースが多くいつの時代も対策が後手後手にまわっているように思えてなりません。また過去の災害への対応の教訓を今回の災害に生かしきれてないのも事実です。

私が小学生の頃の台風はいつも8月の下旬頃この山口県に襲来していたように記憶しています。その当時の社会や理科の教科書には台風は10月頃によくやって来ると記述がありましたが、印象ではいつも夏休みに多く秋にはあまり来ないというのが実感でした。それ以前の伊勢湾台風や枕崎台風や室戸台風などの歴史的に災害が大きかった台風はどれも秋口に多かったからその後10年から20年経過して史実として載った教科書にはそのような記述になっていたのだと思います。ところで山口県は自然災害が昔から少ない地域で地震も台風も大雪もあまりありません。ここ数年の記録的豪雨による災害は記憶に新しいところですが、その他はあまり大きな気候の変化もない温暖な瀬戸内海式気候です。ここで生まれて育った自分にとり東京に住んでいた時の地震の多さにはびっくりしました。勿論、北に住んでいれば雪は多いし、南に住めば雨や台風が多くなるし、日本海側だったら冬に曇りが多いなどなど地域により特徴があります。瀬戸内海式気候は小学校で習った通りにヨーロッパの地中海性気候と似ていて本当に温暖だという事実は地元を離れて初めてしみじみと感じました。そういう意味で山口県はとても恵まれた地域だと自負しています。

約10年以上前に一度大きな台風がこの地域を襲って確か最大瞬間風速が60mを記録したことがありました。そして停電になってうちの地区は3日間電気が来なくて仕事にならないこともありました。長い所では5日間停電した地区もありました。昔ならろうそくと懐中電灯でどうにかなったのかもしれませんが、今はパソコンなど電子機器が大半で電気がなければ動きません。当院では電子カルテを使用していますので、無停電装置で2時間程度はもちますが、それ以上停電が続けばアウトです。自家発電はあるにこしたことはありませんが、費用対効果としては現実として買えません。ですから停電イコール診療ストップというのが現実です。もちろん情報はノートパソコンのバックアップなどで対応できますが、プリンターは動かないしレントゲンや心電図ましてや血液検査など全て電気のおかげで動いているのです。停電して初めて電気のありがたさがわかった瞬間でした。

人類の英知で便利になった反面、現代はちょっとした災害でライフラインが止まれば全く社会が動けなくなるという時代になっています。災害は必ず忘れたころにやってきて、いざというときの準備や練習が大切ですが、なかなかうまく機能することは難しく痛恨の極みという教訓を残して立ち去っていきます。歴史はその繰り返しなのでしょう。

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リアルさではわからない空想と現実

先月、任天堂の創業者の山内溥さんが亡くなられました。そうです、1980年代にあの伝説的なファミコンをこの世に出された方です。私も最初のファミコンから遊びましたが、その後どんどんゲーム機が進化していきます。2001年の10月、ちょうど9.11のテロが勃発して、イラク戦争に当時のアメリカ大統領が踏み切るかどうかという瀬戸際で緊張していた時期でした。時を待たずしてアメリカ軍がイラクに爆撃を開始しました。その前の湾岸戦争の頃からハイテク兵器の使用で戦争自体がテレビゲーム感覚で空想と現実の間を行ったり来たりするようになっていました。今でもあの時の一瞬が空想なのか現実なのかわからなくなることがあります。このようなことは他にもたくさんありますよね。9.11の瞬間は久米宏さんがニュースステーションのキャスターをしていた時で、缶ビール片手によく見ていましたが、突然テレビの左上画面に煙の上がる世界貿易センターが映し出されてその後に2機目の旅客機がビルに突っ込む瞬間を見ました。久米宏キャスターも一瞬何が起こったのかがのみこめずに目の前の画面の説明に苦労していたのをよく覚えています。3.11もあの押し寄せて全てを飲み込んでいく津波をリアルに見ました。ただただ「うっそー」というぐらいがせいぜいで声を上げることもできずに本当に現実なのかと疑いながら眺めるしかないという虚無感とはこういうことを言うのでしょう。

我々はテレビゲーム初期の世代ですがその後進化していくゲーム機と複雑化していく世界情勢をこの30年間に目の当たりに見てきました。その創造された空想の世界とリアルな現実を絶えず見てきましたが、最近ではどちらが本当の世界なのかがわからなくなることがあります。「あれ、これって現実だろうか?それとも夢の中?」というふうに。創造されたドラマでもリアルなものがあります。一方、実話ですらドラマ化されるといろいろと脚色されてぼやけてくることもあります。我々はニュースで現在進行形の世界情勢をテレビの画面上の二次元の世界でしか見ることができませんが、それが空想と現実の中で本当にどっちが正しいのかを区別がつかなくなることも多いのです。特にイラク戦争で戦闘機の中が映し出されて、あたかもテレビゲームのような画面が登場して右レバーで攻撃設定の十字マークを攻撃目標に標準を合わせて親指で右ボタンを押すと画面上にミサイルが出現して数秒後に攻撃目標が爆破される。全くのテレビゲームです。しかし現実にはそこに何百人という死者がでる。テレビゲームでも敵をどんどん倒していくことが次のレベルに到達するための目標であり全然悲壮感がない。だから空想と現実のリアルさが混乱してしまうのです。そして世の中ではゲーム感覚で簡単に殺人を犯したり、クリックしたりダイヤルするだけでお金をだまし取ってしまうことも多くなるのです。このようなリアルと空想の世界はこれからもっと垣根が低くなっていくと思います。我々はそのリアルと空想を混同せず勘違いをしないようにしっかりと受け止めて考えていく力が必要なのではないかと思うのです。

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「地方はアツイぜ!」って言いたいよね

前回のあまちゃんの続きで、今回は「地方はアツイぜ!」について。今回のドラマでは地方に焦点を当てています。生まれも育ちも大都会の主人公アキ(能年玲奈)は母(小泉今日子)の故郷に初めて行き、見るもの出会うもの全てが目に新鮮に映ります。しかし田舎の人々の目にはその新鮮に映るものを見慣れてしまっていて「そんなものがどうして新鮮なの?」って感じです。逆もしかり。主人公の親友(橋本愛)が東京に出て「アイドルになるぞ!」と地元の無人駅のホームから東京まで線路が伸びるトンネルに向かって叫びます。トンネルの向こうに光り輝く出口が見えますが、その先に何があるのか見えません。

今から30年前に山口の片田舎から大学進学で上京しました。住んだのは中央線沿いの阿佐ヶ谷で学校は西新宿の超高層ビル群の一角にありました。田舎から上京した二十歳前後の自分にとり「大都会で見るもの全てが新鮮!」でした。例えばマクドナルドや吉野家の牛丼でさえ地方にはなく新鮮だったのです。勿論、新宿駅を歩く数珠のように連なる人、人、人。じぇじぇじぇでしたね。しかし6年経って山口に戻るときは、その大都会は自分の一部に溶けこみ新鮮味などなくむしろ愛着が湧いていました。「住めば都ですよね」田舎も都会も。東京生まれが都会が地元で愛着をもつことと全く変わりありません。

また主人公アキのじっちゃん(蟹江敬三)は遠洋漁業で1年近く故郷に帰りません。そして孫にこう言います。「俺から見りゃ、北三陸(東北の田舎町)も東京も日本にかわりはねえ!ここが世界で一番素晴らしい場所だってことを田舎から出たことのない元祖アイドルの夏ばっぱ(宮本信子)に教えるために、おらは船さ乗って世界中を周っているだ!」という一言。アキは「かっけえ!」と叫びますが、同時にそれは視聴者の私の叫びにも聞こえました。田舎にはたくさんの素晴らしいものがありますが、見慣れると新鮮さがなくなり自分のところは活気がないと思い始めます。都会は都会で刺激的ですが、本当に魅力的な町ってどういうものをさすのかを今回のドラマで考えさせられました。外見のかっこよさやスマートさやきらびやかさ、そしてゼニはたくさん都会に落ちていることに間違いありません。しかし本当に自分が生まれ育った環境がどれだけよいかは、外に出て見つめ直さなければわからないことも確かです。「地元に帰ろう」という挿入歌もドラマで流れていましたが、大学を卒業して地元に帰って約25年、最初は都会と比較していましたが、最近は比較すること自体ナンセンスだと思いますし、地元慣れして感覚も麻痺しています。

現在、地方の商店街は疲弊してシャッターが閉まり、一方で都会は億ションや多くの店や施設が増え、更に東京五輪で再びミニバブルになりつつあるとテレビで放映しています。「景気が悪い」だの「都会は良い」だのと愚痴をこぼすよりも「田舎は大都会よりもかっけえ!」と思いっきり都会に向かって叫んで自らが変わっていかなければいけないのではないでしょうか?クドカンさんのこのドラマに込められたメッセージには「地方はアツイぜ!」って日本中の人々に叫んでほしいのではないかと勝手に推測しています。

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あまちゃんを見終えて

先月まで放映された「半沢直樹」と「あまちゃん」が上半期のテレビ界をリードしましたが、どちらが好きでしたか?半沢の最終回は舞台役者さんだけあって最後の土下座から左遷人事までの目の動きや表情などはさすがで迫真の演技でしたね。あまちゃんはやはり主人公の透明感は誰もが認めるところですが、脚本の練り方や小ネタの出し方など今までに見たことがないドラマでした。私は「半沢直樹」を全編見ていませんので詳細なコメントはできませんが、現実的に自分の会社でもよくありそうだけれどもそこまで本当にする?が「半沢直樹」だと思います。間違ってたらごめんなさい。一方ドラマの世界だけども現実に起きてもおかしくないのが「あまちゃん」だと思っています。リアル感のエンタテイメントだけなら半沢ですが、あまちゃんは視聴者皆に考えさせて笑わせて幸せな気持ちにしてくれました。笑顔や笑いはいつの暗い時代にも必ず必要なものでしょう。

私は半沢派ではなくあまちゃん派です。なぜならきれいごととはわかっていても、ドラマは空想がリアルになって現実として飛び出してきてほしいという願望があるからです。一方、過去にもリアルに近いドラマで例えば救命救急もので職業柄冷静に分析できるものなどもありましたが、実際の経験者からすると江口洋介や松島奈々子や米倉涼子があまりにもかっこよすぎてピンときません。医療はもっと不確定要素が多くかっこ悪いことも多いのです。他のドラマでも2枚目のキムタクがかっこよすぎてリアル感をあまり感じることができません。おとぎ話の主人公が地上に降りてきたという感じだからでしょうか。

あまちゃんの場合は実名もしくは実在する人物に限りなく近い登場人物がドラマの中にいて物語も実際にはありえないと思うけど、天と地がひっくり返らなくてもちょっとずれたくらいでおこるのではないかというリアルな期待感があるわけです。そしてこの空想と現実の狭間の中でのリアル感がたまらない。それはちょうど我々1980年代のアイドル全盛とバブル絶頂から90年代のどん底を経験していまだに負の連鎖を引きずっている世代にとって、30年前の1コマ1コマがあの時の音楽や小ネタによって蘇るわけです。それがドラマのワンシーンであると同時に自分の記憶の中のワンシーンでもあるのです。登場人物はあまちゃんだけどもそのワンシーンには自分も脇役として画面に登場しているのです。そしてあまちゃんが純粋に前向きに生きていく。そこに自分とは全く違う世界のお話だけど妙にリアルさがあり、小ネタを聞いてドラマに隠されている意図もしくは糸を手繰り寄せようとする自分がいるのです。このドラマの登場人物では特に脇役の個性が光って群を抜き巧妙に描かれています。また80年代と現在、北三陸と東京という時間的距離的空間をうまく同時進行で描きいろいろな伏線がしかけられて観る者に考えさせます。「前に観た時のあの場面がここに繋がるのか」とか「この言葉の隠された意味は何だろうか」と推測して楽しむのです。3.11もソフトに正面から見つめていました。このようなドラマは画期的で衝撃的でした。この半年間、自分の毎朝の楽しみ方を変えたことは間違いありません。

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