今年の世相を表す漢字は?

師走になり今年の世相を表す一文字が清水の舞台で発表されました。「北」に決定です。未来志向の言葉ではありませんでした。現在の日本や国際社会は北の核の脅威をどうにか食い止めなければなりませんが、なかなか思うようにいきません。また北の拉致被害の解決も被害者家族の高齢化からすれば待ったなしです。そのような事を全て踏まえて日本国民が「北」に対してしっかりとした立場で臨まなければならないことでこの言葉が選ばれたのでしょう。当初の私の予想では「排除」や「忖度」なども有力候補でしたが、やはり未来志向の言葉ではありません。またアメリカファースト、都民ファーストが流行しましたが、それよりも日本国民ファースト若しくは人類皆兄弟で人類ファーストの方がよいと思います。しかし人間皆自分勝手ですので、「自分さえよければよい」から「自分の地域さえよければよい」へと拡大してやがては「自分の国さえよければよい」となります。挙句の果てに「人類さえよければ後の自然や動物などどうなってもよい」という思想に変わっていきます。その典型例が「核開発」であり「パリ協定離脱」につながっていきます。「ファースト」はそのような暗い世相を反映するような意図を感じる言葉に成り下がってしまいました。それまでは「ファースト」は巨人の王選手やイチロー選手の「イチ」を想像していましたので、同じ響きの「ファースト」でも雲泥の差があります。

また今年の流行語大賞は「インスタ映え」と「忖度」でした。こちらは妥当と言えば妥当な受賞ですが、インスタグラム自体私にはよく意味がわかりません。最近やっとラインをうまく使いこなせるようになりました。少し前まではラインに相手が読んだかどうかがわかる既読機能がついていることさえ知りませんでした。周囲より5年遅れでラインデビューです。他にツイッターやフェイスブックなどもあるようですが、使い方がわかりませんので使用していませんが、時にスマホにわけのわからぬ内容のフェイスブックのお知らせが届きますので全て削除しています。しかしこの行為は子供に聞くと相手を無視していることになるようであまり相手に対して良い印象を与えないようです。しかし現在でも懲りずに削除しまくっていますのでSNSを通じた友人はかなり減ったかもしれません。それでもその程度の薄い関係ならどうでもよいのでこれからもどんどん削除していきます。自分のように何でも白黒をつけないといけない性格は損なのかもしれません。同じ損ついでに漢字は異なりますが、やはり予想通りの「忖度」です。これも個人的には嫌いな言葉ですのでそのような雰囲気や匂いを感じる場所には可能な限り近寄りません。

今年も世相を表す漢字や流行語をみると現代社会を表していて一昔前の事しか知らずに20年前からパソコンを操って時代の最先端だと勘違いしていた我々世代は、PCを使えないスマホ世代からみれば本当のアラフォーかアラフィフなのでしょう。しかし「まだまだ若い者には負けてはいられない」と気持ちを奮い立てて来年も頑張りたいと思います。そもそも「若い者に・・・」ということ自体がかなり年寄り臭くなった証拠です。

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横綱日馬富士引退とガバナンス

先日、日馬富士関が電撃引退しました。またもや角界の暴行問題です。暴行は今の世の中では絶対にいけません。そのことについては議論の余地がありませんし、今までのブログにも暴行については私見を述べてきましたので一切触れません。角界では親方と弟子の関係が親子以上の絆となってきた伝統もあるためちょっとしたことで軽く頭を叩くくらいの風潮はあってしかりだと思います。そのような行為を暴力ととらえるかどうかですが、現在では触ったら暴力行為と捉えかねない風潮ですので体と体がぶつかる格闘技などの世界ではどこまでが暴力でどこまでが躾でかわいがっているのかという線引きが困難な場合も多々あります。それが自然に拡大解釈という独り歩きを始めて今回のような問題が起きるのです。しかし今回は暴力以外で気になる問題点を論じてみたいと思います。

第一にテレビ、マスコミ報道が警察の捜査段階にも関わらずに大騒ぎして余計に当事者たちを追いこんだのではないか?騒いだから電撃引退意に繋がったのは間違いないと思います。貴乃花親方は被害届を警察に出していたのだからもう少し事の推移を見守っても良かったのではないか?また貴乃花親方はいくら捜査中だからといっても協会の事情聴取には応じないとそれこそ協会のガバナンスが問われます。昨今ガバナンスという言葉が独り歩きしていますが、神戸製鋼、三菱マテリアル、東レ、日産など数を挙げればきりがありません。更に言えば個人個人のガバナンスはどうかと問われて「私個人のガバナンスはちゃんとしております」と胸を張れる人が多くいるでしょうか?

第二に横綱審議員会が偉そうに物を申していますが、元来協会に横綱を推挙した責任はどこにいったのでしょうか?通常の企業の場合なら横綱審議委員長は代表として推挙した責任を謝罪すべきなのに、寧ろ貴ノ岩関の先輩への礼を失した態度が引き金になり日馬富士関の暴行を断罪しました。一方、暴行現場で傍観していた他の横綱を含む力士の行動ついては触れていません。傍観者に社会的責任はないのでしょうか?ある人は被害者を軽視して加害者贔屓だとか別の人は協会と横審がグルだと言っています。まず横審は推挙した責任をしっかりと謝罪すべきです。また協会内部で貴乃花親方と理事長の不仲を面白がって取り上げる報道もありましたが、そもそも協会のガバナンスがとれ理事同士の意思疎通がとれていれば暴行の翌日にはしかるべき処置をして大人同士の話し合いができたのではないかと思うのです。その意味からも協会内部のガバナンスが問われているのでしょう。

最後に先輩が注意をしている最中にスマホをいじって無視したら一般社会でも誰だって殴りたくなるかもしれません。殴ることは決してよくないのですが、そのような兄弟子と弟弟子の関係を許した角界の風潮はよくありません。これは以後の貴ノ岩関の復帰に大きな傷跡を残すでしょうが、若さゆえの過ちもあり一人の個人を社会が潰してはいけないと思います。協会、横審、力士の全てが反省しなければなりませんが、今回の事件で一番惜しいことは日馬富士関の引退という最悪の事態を防げなかったことです。

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時間厳守

以前のブログで「約束を守ること」はお互いの信頼を得るためには大切であると書きましたが、今回は「時間厳守」についてお話したいと思います。時間厳守もお互いの信頼関係を築くには必要不可欠です。それを強く感じたのは高校生の頃でした。中学生まではほとんど学校とクラブ活動でそんなに人との交際で時間を気にするほどの事をしたりされたりということは皆無でした。敢えて言えば学校の授業に遅刻しないくらいの事で自分も含めて周囲の友人も体調が悪くて欠席することはあっても授業開始に遅刻してくることはありませんでしたので、時間厳守は当然でした。ところが高校になると同じクラスの人が平気で朝のホームルームに遅刻してきて担任が名簿にその生徒を遅刻と書き込む行為が多々見受けられました。それも一人や二人ではありません。中学までそのような光景を見たことがありませんでしたので高校の朝のホームルームはある意味異様な雰囲気でした。当時の自分にはとても違和感を覚えたのです。また高校生になると中学生以上に友人との付き合いが増えましたが、友人同士でも少しずつ時間にルーズな人間が出始めてきましたので個人的にはなるべくそのようなルーズな付き合いは避けるようにしていました。

この時間厳守という観念が根底から崩れたのは大学生になってからです。上京して一人で生活を始めると前日夜にバレーボールをしてそれから飯を食って飲みに行ってというよくある大学生活を送っているとその疲れで翌朝時間通りに起床できません。人間は歳を取ると目覚めが早くなり朝の5時頃には起きてゴソゴソと活動を始めますが、当時の20歳そこそこの若者はなかなか朝時間通りに起きることができないのです。後に我が子を見ながら「若い時は寝ても寝てもそれでも眠い」という気持ちが痛いほどわかりましたが、当時の自分には理解できませんでした。大学生になって初めて自分も時間厳守ができずに大学の講義に遅刻してしまうことが出てきたのです。一般的に当時の大学はどこでも似たり寄ったりですが、遅刻すると誰かが代返したりしてお互いにカバーし合います。入学当初はその行為に対してとても嫌悪感を覚えましたが、半年もするとそれが普通になってきて自分もそのうちの一人に組み込まれました。周囲の同級生は関東出身の浪人生が半分を占めていましたので、現役で都会を知らない地方出身者から見ると「都会のませた人達は遅刻するのも一つのトレンドなのかなあ」くらいにしか思えませんでしたが、半年で見事に私も都会人に変身できたのです。そして6年間の学生生活では時間厳守というボキャブラリーは儚くも私の中では消えてしまいました。

卒業間近になって「社会人になったら大丈夫か?」と心配しましたが、社会に出れば学生時代にはいい加減と思っていた時間管理を皆きっちりとできるようになり時間厳守という言葉は当然の語彙に戻ってしまいました。ちょうどハイティーンの頃に声変わりや反抗期があるように時間厳守も大人へ成長していく過渡期なのだと今では理解しています。ですから我が子の時間管理のルーズさも今は見て見ぬ振りをすることもよくあります。

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宝くじの当たる確率

年の瀬になると年末ジャンボ10億円とテレビコマーシャルが頻回に流れます。当たれば一攫千金の大金持ちですが、世の中そんなに甘くありません。私は25年前に一度だけ宝くじを購入したことがありますが、たった一度きりでその後は買いたいとも思いません。当時宝くじを買った理由はちょうど年末の宝くじが販売された12月のある夜の夢に白い大蛇が出てきました。その時何かいいことがある予兆かもと思いたまたまテレビで宝くじのコマーシャルをしていましたので30枚くらい買いました。当時はまだ1億円だったような気がしますが、はっきり覚えていません。勿論結果はかすりもしませんでしたが、一応同じ市内で一等の1億円が出たと話題にはなりましたので私よりもっと大きな龍の夢を見た人がその幸運を掴んだのでしょう。その時の教訓で他者に運を委ねるような行為は二度としないと心に決めて今日に至っています。

今回この話題を出したのは最近何かのコラムに本日のお題目が掲載されて読んだのがきっかけです。現在の110億円が当たる確率は何百万に1人だそうです。日本の人口が1億人でも宝くじを皆が買うわけでもないし、購入する人は1枚のみ買うわけでもない。最低でも10枚、いやそれ以上買っているかもしれません。その配分や比率を計算すると何百万分の1らしいのです。この宝くじが当たる確率はハイリスク・ハイリターンの投資などで大儲けする確率よりはるかに低いそうです。言われてみれば当たり前の話ですが、10万円の当選確率だったらもしかしたら投資といい勝負になるかもしれません。それがそのコラムのオチでした。私は株もしません。私がしているそのような投資らしきものは多分定期預金の金利分くらいしかありません。「もし投資と宝くじをするならどちらで夢を見たい?」と質問されたら迷いなく投資と答えるでしょう。なぜなら運のすべてを黙って他者に委ねるのか、少しでも自分が関与して当たる確率を上げるかの違いで投資にすると思います。しかし投資をするにしてもまずは投資とは何かということから勉強を始めてそれからどこの株を買えば儲かるかなどの情報をインプットした後に自前の少額の資金で株などの購入をして投資をすると思います。何も考えずに購入するなら多分宝くじと同じくらい低い確率になると思うのです。ですから私の場合投資を購入する前段階までに相当時間がかかる計算になります。その費やす時間や労力の手間暇を考えたら全く自分の限られた時間を投資するには見合わない換算になってしまうのです。それだけの時間とお金を費やすならもっと他にやりたいことがたくさんあります。結局は自分の中では投資などのギャンブル性のあるものは非常に優先順位が低くなります。

今回のコラムを読みながらあらためて自分の中で宝くじやギャンブル性の高い投資はこれから先もあり得ないなと思った次第です。以前の国会でカジノ法が承認され具体的な法案が審議されて東京五輪前後から大阪などで解禁される予定です。個人的な意見ですが、あまり好ましいことと思えないのは私だけでしょうか。

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牡丹の植え替え

以前から牡丹の鉢の植え替えをしなければいけないと思っていましたが、やっとのことで重い腰を上げて晩秋の穏やかな暖かい日差しの午後に行いました。この牡丹の想い出は20134月のこのブログで詳しく書いていますが、そこまで戻って読めない方のために簡単に説明します。この牡丹は私の祖母が亡くなる2週間前にたまたま牡丹の有名な島根の大根島から行商に来られていた80歳前後の御婆さんをヒッチハイクの如く市役所から駅まで送ったお礼に頂いた苗でした。自分の性格からそんな見ず知らずの他人を車に乗せることはあり得ないのですが、当時病床の祖母と重なって見えたのだと思います。その苗の鉢植えをしてすぐに祖母が亡くなりました。その後一度は大きめの鉢に植え替えをしましたが、それから早10年の月日が経過してこの10月に祖母の17回忌をしました。毎年4月下旬に花を咲かせた時に毎回そろそろ植え替えをして肥料をやらねば枯れてしまうかもしれないと思っていました。やはり今回は祖母の17回忌がきっかけとなり11月初旬の暖かい午後に踏ん切りがついたのです。

植え替えと言っても素人ですのでまずはネットで調べます。まず底に敷く小石である鉢底土、それから赤玉土7割と腐葉土3割の混じった培養土、そして完熟堆肥をジュンテンドーに行って買い揃えました。素焼きの直径40cm程の鉢では牡丹が窮屈そうでしたので60cm程の大きい器の鉢に変えました。本当は素焼きが水はけを考えると良いのですが、なかなか大きい素焼きの鉢はお店にも揃えがなくプラスチック製の鉢になりました。そのため土を入れる前に底に直径5mm程度の穴をキリで56個開けて水はけがよくなるようにしました。やり始めるといろいろと疑問が湧いてきますが、10年前の植え替えでも悩まずに「エイ、ヤア」とやっても毎年花をつけた思い入れの牡丹です。今回も素人の私の不手際をものともせずに来年からも咲き続けてくれることを信じています。

生きるものは必ず終わりがやって来ますが、牡丹は鉢植えにしなければ50年でももつとネットに書いてありました。しかし鉢植えはどうしても根が張るのを阻んでしまうため寿命も短命に終わるようです。2001年に頂いた大根島の行商のお婆さんもご健在なら90歳を超えているかもしれません。祖母は89歳まで生きました。そのような魂のこもった牡丹ですので鉢植えで窮屈でもまだまだ頑張って33回忌までは花を咲かせてほしいものです。晩秋の暖かい午後のほんの2時間ですが、過去から今日までのいろいろな出来事を思い出しながら植え替えました。この10年で子供たちもどんどん成長して皆家から出て寮生活をしています。いつの間にか私の祖母の想い出から子供との思い出に変遷していきます。そんな午後のひと時を過ごしながら来春の牡丹の花が今年よりも大きく咲いてくれることを期待しています。これからもこの牡丹は私たちの人生を見つめてくれるでしょう。今回の掲載写真は今年の春に咲いた牡丹の花です。4輪咲かせていますが、以前はもっと大きかったように記憶しています。来春の大輪が楽しみです。

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