宇宙図書館

昨年の25日のクリスマスに周南市文化会館でユーミンのコンサートがありました。日程からみてなかなかこのシチュエーションはないでしょう。クリスマスを挟んで12月21日と22日が大阪で27日と28日が広島のコンサートでした。さすがに24日のイブは会場確保が困難でちょうど25日の日曜に周南市にクリスマスプレゼントをユーミンが運んできてくれました。チケットも2か月前に抽選でした。会場はどんな年齢層だろうと興味がありましたが、予想通り自分たちと同じ世代が多く一安心でした。なにせユーミンは私より10歳上でもう還暦を過ぎています。70年から80年代に青春していたほとんどの我々世代は彼女の歌を聴いたのではないでしょうか。生まれて今回が3回目のコンサートです。1回目は学生時代に聖子ちゃんの武道館コンサートで遠すぎて顔が見えませんでした。次は働き始めて出雲での森高千里のコンサート。これはコネで最前列の中央で乗りに乗りました。今回は22列目でどうにかオペラグラスを使わずに顔を識別できます。勿論、今回のお題目のCDを購入してウオークマンにダビングしてしっかりと予習をして口ずさめるようにして準備万端でクリスマスの夜が始まります。

舞台の照明は宇宙と夢の中をさまよっているかのような凝った演出になっています。始まるまでドキドキしながら1秒1秒と心の中で時間がカチカチと時を刻みます。予定の午後6時を1分過ぎて開演です。一気にテンションが上がります。「なんだろう?この胸に込み上げてくるものは?」と心の中で自問自答します。「そうだ!30年前のあの瞬間が記憶に蘇ってきたのだ!」ユーミンも途中のトークで「音楽は一瞬にして過去にタイムスリップしてくれる。その過去が辛くても甘くても」と言っていましたが、まさに自分の脳裏の無限の記憶の宇宙を漂っている自分が存在していることを今この瞬間に感じているのでした。予習したCDからどんどん曲が躍り出してきて自分もなんとも言えない奇妙な空間に存在しています。周囲の同じ時代をそれぞれ生きてきたおじさんやおばさんと一緒になって手拍子をして立ち上がって一緒に口ずさみながら曲の中に溶け込んでいきます。ユーミンの曲の中でも我々世代のお馴染みの曲で「守ってあげたい」や「リフレインが叫んでいる」などの名曲が登場するともうテンションはマックスに到達して昔のあの頃に一気に戻って頭の中の思い出と今のこの場に立って口ずさんでいる現実の自分とが交叉してどちらが本当の自分かわからなくなってきます。「今の一瞬が永遠に止まってほしい」なんて思っている自分がいます。隣の60歳を過ぎたおじさんも同じようにピーと指笛を鳴らして口ずさんでいます。それぞれの人生を生きてきた証が今まさに爆発している瞬間なのでしょう。

ユーミンも2時間を超えてアンコールも入れて20曲以上歌いました。自分も夢のような時間を過ごさせていただきました。もうこのようなシチュエーションでのコンサートは無いかもしれません。このたったの2時間ばかりの異次元空間でしたが、赤の他人にひとときの夢を見させてくれたユーミンがとても偉大に見えました。

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今年の総括

今年も残り少なくなってきました。今回は恒例の総括で締めくくりたいと思います。今年は末っ子の中学受験と長女の大学入学から始まり夏にはハワイに行きました。また新しい中学の運動会や文化祭のため何度も佐賀を往復しました。いろいろとやらなければいけないことはたくさんあったのですが、子供の事や家族や親戚の事でバタバタとした1年でした。結果として子供たちが満足のいく結果だったとは限りませんが、ベストを尽くした結果ですのでそれを受け入れてこれから進む道を正しい方向に導いていくことができればそれでよしということでしょう。自分としては今しかできない事を精一杯やったつもりですので今年も自分に対しては花丸をつけたいと思います。

5月にはオバマ大統領が広島訪問をされました。平和について再度いろいろと考えさせられました。世界中の至る所で爆弾テロが繰り返されています。世界中で何が起きるかわからない混沌とした世の中になっていますが、それでも日本は他の国々に比べると比較的安全なことに変わりはありません。その平和の中で生きている私たちは本当に幸せだと言っても過言ではありません。結局は人間という欲のある感情を持つ動物の性と言ってしまえばそれまでですが、もっと賢い生き方を選択しなければなりません。それができるはずなのですが、目先の欲に負けてしまいます。戦争のないそして核のない平和は少なくとも日本は先頭をきって進めなければいけません。そして11月にはアメリカ大統領がトランプ氏に決まりました。更に混沌とした世の中に突入したのかもしれません。しかしこれからの4年もしくは8年間は世界平和のために自国の利益以上に奔走することを願っています。8月にはリオオリンピックもありました。多くの人がテレビで観戦して感動しました。また次の世代が4年後の東京を目指すきっかけになったことは間違いありません。この平和の祭典の陰でロシアのドーピング問題が浮き彫りになりました。ここでも一発当てればその人の残りの人生は安泰です。そんな夢と欲望がスポーツの世界でもあるのでしょう。そんな間違った考え方を日本の技術力で4年後には一掃して「そんなドーピングしても無駄!」という考えが世界中に広まってほしいものです。

遠く離れるといろいろと思いが募ってきますが、近くにいると見えなくなることもあります。離れてみて初めて近くにいればいるほどその大切さを忘れていたのだということをしみじみと感じたこの1年でした。子供が皆外に出て行き家に残ったのは我々夫婦と年老いた両親です。そして毎日変わらぬ自宅兼診療所の往復で平凡な日々が過ぎていきます。たまに末っ子や長男が帰省するとわかったらそれだけで1週間前からウキウキと心が躍ります。もし子供が自宅通学だったらこんな気持ちにならなかったでしょうし、それ以上に小言を言ってケンカが絶えなかったかもしれません。よそ様より一足早く大切なものを教えて頂きました。来年も大きな変化はないかもしれませんが、地道にコツコツと成亀勝兎の毎日を送っていきたいと思います。

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年賀状の変遷

毎年10月になると来年の年賀状の枚数を予測カウントします。そして12月までに喪中で減る分を考慮しなければなりません。まだ私の場合、喪中枚数はそんなに多くはありませんが、父の場合は年ごとに減ってきています。今年で88歳になったのですから当たり前といえば当たり前です。しかし年賀状の文面は毎年悩んでしまいます。特に職業柄繋がる相手には無難な文面を毎年適当に選んで印刷します。勿論、手書きが良いことはわかっていますが、そこまで気持ちと時間に余裕がありません。それとは別に昔からの友人に送るための年賀状は家内が子供の写真を撮ってプリントして送ります。そのような家族写真を仕事関係に相手に送るのも少し考えものです。そのように2種類の印刷年賀状を準備するために毎回、前年の年賀状リストを作成してそれぞれ何枚必要かをカウントするのです。そして実際に宛名書きを始めてその枚数が合わなくなると友人にも家族写真を送ることなく仕事相手の年賀状を使用して心の筆で「来年は写真付きで送るから今年はこれで勘弁」と思いながら一筆したためて送ります。また翌年写真付き年賀状を多めに注文して余ると困ってしまいます。ありきたりの年賀状なら余りを郵便局に持参して普通葉書に交換しますが、写真だとその年で一番かっこよく写った写真か皆が揃って撮影した家族の貴重な写真の事も多く交換も躊躇ってしまいます。そしてその年賀状を交換せずに持っていても結局はどこかにいってしまうのが関の山です。子供が小さかった頃は悩まずに仕事相手が50枚で友人が30枚という風にカウントしていたのですが、子供が成長して成人してくると家族集合写真を友人に送るのもそろそろ卒業かなあと思い始めます。子供が結婚してなかったらまだ家族の集合写真を送れますが、それでも少しずつ違和感を覚え始めます。自分がそのように思い始めると同時に新年に送られてくる友人からの年賀状を見ても同じ違和感が芽生えてきます。友人からの年賀状も家族の成長の軌跡を表現したものではなく、旅行に行った時の一般的な写真のプリントアウトに変化して差出人も子供の名前をはずして夫婦二人の連名にするか個人の名前の手書きに変化してきます。そして最後には仕事も友人も分け隔てなく同じ文面のシンプルな年賀状へと変わっていくのでしょう。

以前はプリンターやパソコンが普及していなかったので年賀状を書くこと自体が12月の一大イベントでした。そしてそのイベントが面倒くさかったのですが、一方で一枚一枚相手を思いながら書いていたのも事実です。しかしそれが文明の利器の登場で時間と手間暇をかけなくなり薄っぺらな一枚の厚紙に取って代わってきたように思えます。だからせめても写真くらいは今の気持ちを込めてと思っていましたが、それもあと10年も経たないうちに終わるかもしれません。表の宛名書は印刷で30分もあれば100枚なんてすぐに終わりです。便利な世の中になったものですが、一抹の寂しさというか不安も感じます。しかしもう昔の手書きの時代には戻れません。今はスマホで年賀の一斉送信もあるようですが、そこまでドライになる勇気は私にはまだありません。

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東医と私の偶然の出会い

今年わが母校東京医大が創立100周年を迎え先月には新宿で記念式典がありました。そして先月末には定例の東京医大山口県人会が新山口駅前のホテルで開催されてはるばる東京から同窓会長の恩師が来県されました。また100周年記念事業として東京オリンピックの前年春に現在ある東京都庁のそばの病院敷地に地上20階建ての新病院が完成予定です。そのためにささやかながらの寄付をさせていただきました。そのためかどうかは定かではありませんが、月刊発行の東京医大新聞に寄稿依頼が来ました。800字以内といういつものブログよりは少ない字数制限の中でどのように思いを込めて書こうかと推敲の連続でしたがようやく完成し先日メールで送付しましたので今回は再編集の上改題して掲載です。

~昭和57年3月下旬に東医から自宅に1本の電話。浪人を覚悟していた私は広島で予備校のテストを受けていた。呼び出しを受け電話に出ると「繰り上げ合格が来たが東京に行くか?」との父親の一言から私と東医の偶然の出会いがスタートする。

地元国立と試験日程の合う東京の私立医大を3校受験してダメなら浪人くらいの気持ちで半年前に試験日程と偏差値とで合致したのが東医でした。同窓の志ある先輩先生方には誠に申しわけなく思いますが、それが東医を知った経緯です。田舎しか知らない私が想像していた新宿にある東医は「太陽にほえろ」で西新宿の歩道橋を新米刑事が超高層ビル群を背に走るあのイメージでした。右も左もわからぬまま入学式。バレー部の顧問でもあった大高学長の式辞もあり緊張もしましたが、その後に同級生たちと偶然の出会いが始まります。出席番号の前は青森出身で後ろは東京の友人。そしてバレー部に入部しなかったら絶対に会話を交わすこともなかったであろう金沢と東京の友人。彼らは今の自分を育ててくれたかけがえのない友人だと確信しています。学生時代は小心者でしたので授業にはわりと真面目に出席していましたが、勉強はあまりしませんでしたので試験では苦労してかなり追試を受けた記憶があります。しかしクラブ活動は真面目でした。酒を飲みながらどう練習すれば東医体で勝てるかという夢をよく語り明かしていました。そして70周年を迎え現在の大学病院が新病院としてオープンしその中でポリクリをさせていただきました。

東医を離れて山口に戻り28年。100周年を機に東医との偶然の出会いが再び芽生え始めました。子供も将来ご縁があったら世代を超えて偶然の出会いがあるかもしれません。東医で青春を過ごしたあの素晴らしい時をもう一度世代を越えて。現在の私の土台を築いてくれた東医に本当に感謝です。東京医大100周年おめでとうございます。できれば130周年までは見届けたくがんばりたいと思います。~

以上の原文の文字カウントは約800字の範囲に収められました。今回の寄稿を書きながら母校に対する想いや青春時代の東京での6年間がたくさん脳裏に蘇ってきました。同級生の皆がそれぞれの地上のどこかでがんばっているのだろうと思うと自分も負けてはいられないという思いが沸々と湧き上がってきました。

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来年5年ぶりの中学校同窓会へ向けて始動

時間が過ぎるのは早いものでロンドンオリンピックから4年が経過しリオオリンピックも閉幕して4か月が経過しました。4年前の暑い夏に富田中学校同窓会が開催されました。準備期間はおよそ10ヶ月で我々スタッフも自ら楽しみながら無事終了できました。終わった直後は今流行のレス症候群になりましたが、一方で当分の間は同窓会に絡むことはご遠慮願いたい気分でした。最初の1年は音信不通だった旧友と連絡を取り上京したときに飲み会に参加してメールのやり取りもありましたが、2年目からは旧友との連絡もほぼ途絶えて地元で気の合った同級生と年1回程度の定期的な飲み会を細々と継続してきました。前回の同窓会の終了間際に「次回の同窓会は5年後の8月13日の日曜日で忘れないで」と出席者全員に予告しました。なぜなら地元では毎年盆前後は高校など同窓会の嵐なのです。そして遠方の女性は家庭の都合もあってかなり前から周知しないと日程を合わせることも不可能なのです。そのため4年前に石原10年日記で暦を調べて盆前後で遠方からの移動などを考慮して最も出席可能な日を検討したところ5年後の8月13日の日曜日が有力日として浮上しました。5年後なんて鬼も笑いそうですが、同窓会を開催したホテルに予約を早々と入れて場所の確保が最優先事項でした。そしてリオオリンピックが始まる1年前に同窓会準備委員会を立ち上げることを確認して前回の準備委員会は同窓会直後に散会してその1年前となった今年の夏に準備委員会の再立ち上げを兼ねた飲み会となったわけです。

そして今回第2回目の準備委員会では同級生の転居などの情報収集目的と同窓会開催の告知を兼ねて年賀状を送付して同級生の現住所確認をします。届かない場合はその同級生を探すために既知の同級生にメールを拡散させて居場所を突き止めます。前回はスタッフが足を使って実家周りをしましたが、今回はその必要はありません。その点では前回の遺産があるためかなり楽です。春までに同窓会名簿を完成させていよいよ出席確認の往復葉書を送付するのが4月下旬の連休前後になります。そして同窓会に出席していただける恩師にも連絡をとる予定です。恩師は既に数名がお亡くなりになられていましたが、ご健在でも後期高齢者のため事前に連絡を取り出席可能かどうかを確認する必要があります。そして多分その間にまた話が盛りあがって何回かプチ同窓会を兼ねた飲み会を開くことになります。準備委員会なんて自分でも引き受ける前には面倒だと思っていましたが、いざやると決めたらなるべくその途中経過も楽しまなければ損だということをモットーに前回の企画や準備を進めました。遊び心がなければこのようなボランティアは成り立ちません。

そうこうするうちにお盆なんてすぐにやってきます。そして更に60歳目前の5年先のお盆休みの日程を今から密かに石原10年日記で調べています。こういう性格は自分でも徳なのか損なのかはわかりません。前回の同窓会では300人中100人の出席で物故者は6人でした。今回の出席者の目標は最低でも前回を上回る100人以上を目指しています。物故者は6人のままで増えないことを祈っています。

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