アメリカでの学会発表 ~言語は人類最大の発明だ!続編~

前回、聖地ロンドンのお話で、「言語は人類最大の発明だ!」という以前ブログで書きましたが、その後編をお話しましょう。

卒業旅行で英語の重要性を認識するも、その後大学病院に新米医局員として入局して、ボロ雑巾のようにこき使われて英語の重要性のことなど遠い昔話になっていました。多分その当時は118時間労働くらいだったでしょうか?またその頃は労働者権利も現在ほど叫ばれてなく、丁稚奉公的な要素も多分にあり、もし私が36協定なるものを当時知っていたならば、良くも悪くも今の自分はなかったかもしれません。そんな時代の中でも20歳後半~30歳前半までいろいろ吸収することもたくさんあり、楽しい時代でもありました。

30歳、医師になって6年、そろそろ周りが見えてくる頃です。そうすると大学の医局から「そろそろ大学病院に戻って来なさい」というとてもありがたい?御連絡をいただくのです。ちょうどそのとき医学論文を書き博士号を取得するために、ご多分に漏れず大学に戻ってまたボロ雑巾生活が始まったのです。しかし今回は研究をしてアメリカで学会発表をして英語で論文作成しなければなりません。研究や英語の読み書きについてはそれでも周囲の先輩医師に頼ればどうにかなります。しかし学会発表だけはそうはいきません。

199611月中旬、先輩医師とジャズで有名なアメリカのニューオリンズの地に立ちました。発表はポスター発表といって要旨を英語で画用紙に書き掲示して、その場にじっと2時間ほど立って異邦人の質問を待ち続けるのです。来ました、来ました、45人の外国人が!彼らと身振り手振りで専門用語を駆使して話すのです。専門用語は医師の間では万国共通でお互いに英語なまりがあってもどうにかなるのです。むしろ日常会話レベルのリスニングがからっきしで、相手の言いたいことがさっぱりわかりません。こちらはこちらの言い分を向こうは向こうの言い分を言い合って、相手もこれ以上意思の疎通が無理だなと思うのでしょう、立ち去ってゆきます。そんな2時間なのです。終わる頃には精神的にヘトヘトですが、「よし、必ずや英会話を成就させてやるぞ!」と気持ち高々に帰国の途につくのです。しかし現実は厳しくまたもやボロ雑巾生活が待っていまして、更に英会話成就への道は険しいのです。まだまだ最終編まで到達できませんのでまたの機会に。

1996年に初めてアメリカ合衆国という地に降りました。「日本よりも大雑把な国だなあ」というのが第一印象でした。しかし何と言っても世界のトップが集うだけあり最先端のことばかりです。しかし今でも記憶に鮮明に残っているのは、学会発表ではなく発表後に3日のご褒美の自由行動のことです。私はトムクルーズのトップガンが大好きでしたので、サンディエゴのロケ現場まで行って、そうそうあの最後のシーンでジュークボックスにコインを入れるシーン、あのレストランに行ったこととアメリカの馬鹿でかいスーパーに行きクリスマスグッズがたくさん並べてあり、日本で買えば1万円は軽くこえそうなものを安くしこたま買い込み飛行機の手荷物として重たいのに必死で持って帰ったことです。

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自分にとってのロンドン

もうあの盛り上がったオリンピックが終わってから3週間が過ぎようとしています。「ロンドン」その言葉の響きは自分にとって格別な思いがあります。遥か彼方の地ですが、自分の人生では2回足を運んだことがあります。1回目は以前のブログでも書きましたが、大学卒業旅行で3日間の駆け足でロンドン市内を散策したときで1988年のことです。その時は生まれて初めての海外旅行で右も左もわからない状況でしたので一瞬の出来事で何をして何を見たのかという記憶もほとんど残っていません。2回目はその悔しい気持ちをリベンジさせたかったのかどうかは別として、1992年の夏休みに9日間で家内とイギリス周遊をしました。周遊といってもスコットランドのエディンバラに3泊してあと残りの4泊はロンドンでしたので都市滞在型の旅行です。その当時は勤務医をしていましたが、同じ循環器内科に医師が6人いましたので、夏休みは1週間ずつもらうことができました。よって土日をはさんで9連休が取れたのです。現在の自分の診療所ではそんな長期の夏休みなんて考えられません。昔は忙しかったけど楽しい時代だったなあと懐古してしまいます。

ロンドン、それは自分にとって初めて世界に目を向けた聖地なのです。卒業旅行で人類の最大の発明でありツールでもある言語の大切さを身にしみて感じていた自分にとって、その2回目の旅行は往復の飛行機のチケットと宿泊ホテルを決めただけで後は全て成り行き任せの旅だったのです。なぜスコットランドだったのか?ネス湖に行ってネッシーを見たかったから。そのイギリス北部は日本でいえば北海道にあたるのでしょうか。とても自然に恵まれ、エディンバラの古き街並みの景観は最高でした。またインバネスという町からネス湖をめざすのですが、その町の雰囲気は「魔女の宅急便」に出てきた街並みに似ていて感激ものでした。その地を片言英語で失敗を繰り返しながら旅をしていくのです。

オリンピックの最終日にマラソンがあり、ロンドン市内を選手たちが駆け抜けます。その街並みや建物は自分でも当時4日間かけて地下鉄と2階建ての赤バスを駆使して歩き回っていましたので、いろいろな場所が記憶に残っています。選手が走る道を自分も一緒に当時を思い出しながら走ったような感覚といったら理解してもらえるでしょうか。オリンピックではいろいろな感動を見せていただきました。どの選手をみても日頃から絶え間ない努力をしてきた集大成でロンドンの地に立っているわけですから、勝っても負けても見る人皆が感動します。自分も過去に行ったことがある聖地でしたので、なおさら今回のオリンピック中継は興味を持って見ることができました。

ロンドンオリンピックは3回目。いつになるかはわかりませんが、3回目のロンドンに行ってみたいと思っています。夢、目標は必ず持ち続けていないと成就しません。行きたいと思えば人間はどうしようかと考え始めるのです。スポーツでも仕事でも遊びでも全て一緒です。興味をもつだけではだめで「じゃあ、どうすればいいのか?」と考え始めたら半歩前進。そうするとまた1歩前へ進もうとして新しい展望が開けてくるのです。

今回の話題とは無関係ですが、今年も患者さんがサギソウを診療所にもってきてくださいましたので写真を掲載しておきます。今にも大空へ飛び立っていきそうです。まだまだ残暑も厳しく「夏よっ、逃げないでくれ!もう少しそのままでいたいから! Stop the season in the sun・・・」の気分ですが、爽やかな秋風も吹き始めて一歩一歩秋の気配が漂いつつあります。

サギソウ

サギソウ

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世界遺産の宮島

宮島 厳島神社の鳥居先日、お盆休みを利用して宮島に行ってきました。今はやりの世界遺産の宮島です。世界遺産といっても新南陽駅から各駅停車の電車に揺られて2時間、船で15分と2時間半もすれば到着しますので近いものです。過去にも何度も足を運んだ地です。しかし近いため宿泊したことはなく、今回は敢えて一泊二日の小旅行の計画を立てました。日帰りとその地に一泊するのでは同じ風景を見ても夜、朝の光景が違って見えることがよくあります。宿泊した旅館は桟橋から徒歩10分程度のところにある錦水館です。かけ流しの天然温泉というフレーズに惹かれました。立地や雰囲気は最高によかったです。到着後一休みして夕方から神社周辺を散策して、ロープーウェイで山頂まで行きました。よくあるコースですが山頂に行くのは今回が初めてです。今までの日帰りコースではロープーウェイは選択肢に入っていませんでした。宮島って厳島神社が世界遺産で有名ですが、その自然の美しさもそれに劣らず素晴らしかったのです。勿論、当たり前のことですが自分としては再発見なのです。なんでも興味をもつまではどんなに素晴らしいものでもゴミ屑同然で、一旦興味をもつとそれが宝の山に変わることってよくありますよね。やはり日々の些細なことにも目をそむけずに真剣に見つめていくことは大切なことです。今回は夕暮れまで山頂に滞在できました。30度を超える夏の暑い海沿いから500mほど天空に近づくだけで爽やかな風が吹き一瞬でも平地の暑さを忘れさせてもらいました。また山頂付近の森林群の中を散策しましたが、自分が住んでいる近くにこんな素晴らしい所があるなんて目から鱗が落ちた思いです。

翌朝は朝一番に厳島神社に参拝しました。普段日帰りなら朝一番に自宅を出発してもゴールに到着するのは早くても午前10時頃でしょうか。その頃には人の列で神社境内も数珠状に連なっています。しかし今回はまだ午前7時前、人影もまばらです。また昼間なら汗びっしょりかきながら並んでお参りとなりますが、朝の爽やかな海風が吹いています。シンボルマークの鳥居が朝日を浴びて輝いています。たぶん朱色に輝く鳥居を見るのも初めてです。見るもの全てが新鮮です。その後はお決まりの水族館です。沖縄の美ら海水族館や大阪の海遊館でジンベエザメやマンタは何回も見ましたが、ここの水族館には初めて入館します。スキューバダイビングで瀬戸内海や日本海を結構潜っているためか、ここの瀬戸内海で見られるコーナーの魚はかなり見たことがあります。大物がいなくても普段のダイビングの延長線上の水の中の光景で十分に堪能できました。足早の2日間の小旅行でしたが非日常的空間を味わえました。

最近、「灯台下暗し」という諺の意味が少しだけわかりかけてきたように思います。先日の同窓会で25年ぶりに会った同級生が「平凡な日々を送り続けることができることこそ非凡なんだ」と昔よく言っていたのを思い出しました。身近なこと、平凡なことを見過ごさずに日々努力をして全力投球することが大切なんですね。

宮島 厳島神社

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昭和53年度富田中学校卒業生同窓会バンザイ!
by Doo48(同窓会おじさんおばさん48歳)

昭和53年度富田中学校卒業生同窓会やっとここまでたどり着きました。昨年の10月の実行委員会発足以来、準備を重ねて開催にこぎつけました。まず一番苦労したことは住所録作成でした。結局本人若しくは実家の住所が判明したのは8割弱でした。そして同窓会出席者は300名中100名に若干届きませんでした。同窓会自体も盛会に開催できました。自分にとっても出席者のほぼ7割は中学校卒業以来の30年ぶりの再会です。今回は名簿作成のために何度となく卒業アルバムを開いて当時の少年少女を眺めていましたので、参加者のほぼ9割は一発で顔と名前が一致します。当時あまり話したこともない同級生も友達感覚です。あとはタイムスリップしていきます。昨年の高校の同窓会と異なるところは地元密着がより強い一方職種は高校以上にさまざまなことで当然といえば当然です。

会が始まり物故者に黙祷を捧げましたが、もう6名にも及びます。人生のはかなさも身に沁みます。また約40名の同級生の住所が未だに判明できません。その不明者の住所がこの会を通して一人でも多く判明すれば幸いです。また実行委員会でその当時の担任の先生をそれぞれ電撃訪問してインタビューをして同窓会へのメッセージをいただきビデオメールを作成しました。ビデオ作成は大変でしたが、当時の先生にお会いできて本当によかったと思っております。しかし数名の先生は亡くなられているようでした。ここでも年月の経過を感じます。

宴もたけなわ、同級生の屈託のない笑顔を眺めています。その笑顔は当時の面影とだぶります。純粋そのものです。何の駆け引きもありません。会話も不要です。それだけで万感の想いに浸っています。自分の青春時代が脳裏を走馬灯のように流れていきます。色は勿論、セピア色。会の終わりには校歌を歌って記念撮影となり、引き続き第二部開催となりました。お盆とはいっても公務員は通常通りの勤務もあり夕方からしか出席できない方もいますし、逆に子供がまだ小さくて昼間のみしか出席できない同級生もいるわけです。またお盆と正月は相方の実家に帰省しなければならなくて残念ながら欠席の同級生も少なからずいます。そんなこんなで午後3時から開始して第一部、第二部を通して午後830分まで盛り上がりました。その後もまだまだ話も尽きることなく事実上の三次会に突入。同級生で元力士のちゃんこ屋さんで盛り上がったことは言うまでもありません。

今回、同窓会の幹事をさせていただきいろいろな人と再会でき、また新たな繋がりもできましてとても感謝しています。次回開催は5年後の2017813日の日曜日です。それまでは自分の人生の舞台にはその同級生たちは登場しませんが、同級生それぞれに晴れ舞台がありそこで活躍することを信じています。「日本のどこかで同じ時代を生きた同志がそれぞれがんばっているのだな」と思うだけで皆さん、明日への活力がみなぎってきませんか?同級生の皆さん、「素晴らしい時間を共有できてありがとう」感謝、感謝です。

同窓会大成功バンザイ!

富田中学校

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地元の夏祭り ~サンフェスタ新南陽~

毎年8月の第一土曜日が地元の夏祭りです。夏祭りといえば徳島の阿波踊り、東北地方の七夕祭りやねぶた祭りが有名ですよね。しかし規模は小さくローカルでも夏祭りはどこの地域でも地元の皆さんの思い入れが強いように思います。例えばこの周南市も新南陽と徳山そして鹿野や熊毛が一緒に合併しましたが、それぞれ夏祭りは昔のままです。新南陽でも和田地区(炎のストッパーといわれた広島カープの故津田投手の故郷)と福川地区と私が住んでいる富田地区、この3か所をみても互いに文化圏が微妙に異なり、祭りもそれぞれ異なります。ましてや徳山地区でもさもありなんです。お互いに他の地区の祭りにぶつからないように調整して開催されています。

この地元の夏祭り~サンフェスタ新南陽~が始まったのは確か私が中学生の頃だったと記憶しています。当時は夏休みのクラブ活動を終えてから友人と一緒に行った記憶がかすかに残っています。当時はなんとも思っていなかったのですが、大学生、社会人になり地元を離れてしまうと妙に懐かしく行ってみたいなあと思い始めるのですが、なかなか都合がつきませんでした。地元にいれば些細な催しでも遠く離れて初めて懐かしいものだと気づくものなのですね。「親孝行、したいときには、親はなし」と同じ意味でしょう。

この夏祭りの名物はなんといっても祭りのクライマックスに永源山公園から夏の夜空に打ち上げられる花火です。2000発もの花火がものの30分で打ち上げられます。今まで経験してきた祭りの花火は1発1発を打ち上げるのに間がありました。この間が夏の夜の一興といえば一興です。ところがサンフェスタの花火は太く短く一気に打ち上げてしまうのです。もう少し時間をかければいいのにと思うのは私だけでしょうか?しかしその一気の打ち上げ方がまた好きなのです。あまりにも一気に打ち上げるので風のない暑い夏の夜空には打ち上げ終わった花火の煙がモヤモヤとして春でもないのに霞んで次の花火が見えにくくなることもありました。花火鑑賞でもう少し風が吹けば霞みもとれるのに思ったのは私だけでしょうか?

その花火には必ず子供たちを連れて公園のふもとまで行き、ほぼ真上に打ち上がる花火を鑑賞します。最初は子供たちだけだったのが最近は子供たちの友人が泊りに来て一緒に見に行くことも多くなりました。その時毎年私は思うのです。いつまで子供たちと一緒に花火を見に行けるのだろうか?と。自分が大人になって故郷を離れて夏祭りを懐かしく思えど行けなかったように、子供たちもいずれ親元を離れて同じ思いをするのでしょうか。皆さんもそのような経験をお持ちでしょう。子供たちもいつかきっと「離れて初めて故郷を思う」同じ思いを抱くのでしょう。

今年も8月4日に夏祭りの花火は無事に終了しました。お盆には去年から地元の同級生と約1年間かけて準備した中学校同窓会が開催される予定です。同級生のいろいろな人生模様を見てきたいと思っています。

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