Tokyo2020チケット抽選 ~その1~

5月9日からTokyo2020のチケット申込が開始となりました。来年の話ですが、チケットがなければテレビ観戦になってしまいます。この東京大会を逃すと死ぬまで後悔するかもしれませんのでチケットが当たれば上京予定です。大会期間が7月24日金曜から8月9日の日曜までですが、仕事の都合もあり流石に開会式を観に行くのは不可能です。それならば閉会式ならお盆休みも兼ねて行けるかもしれないと考えてチケット抽選申込をすることにしました。しかし開会式のチケットは最高額で30万円超えで閉会式でも20万円はゆうに超えています。家族5人の値段からすれば最低価格の1万円前後のチケットでも合計で5万円となりそれに交通費や宿泊代を含めるとプラチナチケットの金額に近づきます。やっぱり都会は土地や物価が高くまた文化的行事にかかる費用は地方からの遠征費を考慮すればかなりの割高感があります。自然や空気のきれいな地方ですが、こればかりは都会にはかないません。今はもう抽選に当たった気で話していますが、これから申し込んでいざ抽選となると開会式や閉会式の倍率は100倍以上になるのではと予測しています。長男の大学入試の倍率よりも遥かに高いので当たる気もしません。しかし五輪憲章にあるように参加することに意義があり、申込をしなければ参加もできません。ですから家族総出で一人一人ID登録を5月の連休中に済ませました。これで確率が5倍程度に上がるはずです。

いよいよ5月9日です。朝のNHKニュースでこの抽選申込は先着順ではないので初日は大変込み合いますからと異例のお知らせです。お昼のニュースでは全くPCからTokyo2020にアクセスしても繋がらないという人々の声を流していました。私は翌日の夕方に初めてアクセスしてみましたが、なんと前に3万人待ちと表示されましたのですぐに諦めて深夜か早朝にしようと考え、3日目の土曜の朝5時過ぎに起きてアクセス再挑戦です。

PCを開いてIDを入力すると待機人数100名でものの30秒でアクセス可能です。昨日とは大違いでサクサクと事が運びます。やはり都会では昼間の仕事の休み時間やお暇な主婦?が昼間にアクセスして集中しているのでしょうか。「昼間から待ち時間3時間だった」と昨日のインタビューにこの日本は改めて平和な国家だと再認識させられます。そこで早速閉会式は2枚までその他決勝競技は4枚までで国立競技場での陸上でそれが駄目なら第2希望は横浜アリーナで野球決勝です。翌日は女子バレーの3位決定戦と決勝の抽選予約を家族5人で分担してオーダーします。それでも先程申しましたように医学部受験の倍率よりも遥かに高いので5人のうち一人でも当選すればラッキーと言わなければならないでしょう。あとは6月20日の抽選発表を待つだけです。仮に当選して閉会式前日の陸上競技と翌日のバレーの試合と閉会式を観覧できるとすれば5人で行けばおよそ20万円近くかかりそれに交通費と宿泊費を足せばかなりの出費で当選貧乏です。それでも死ぬまでずっと「俺は東京オリンピックを観たぞ!」と自分の後世に言い続ける事ができます。6月20日当日になりました。発表は次回のお楽しみ。

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景色が変わる

大関から横綱になると見える景色が変わると大横綱白鵬関が昔言っていました。短命横綱で先日引退した稀勢の里関も同じことを言っていました。一流のプロ選手が皆異口同音に言います。一般人も感覚的にはわかるつもりですが、実際に見てないので想像上の世界です。物理的には昨日と今日で見えるものは変わりませんので視覚には同じ物が映って網膜を通して視神経に入力されます。そして大脳の視覚野という場所に到達して画像が脳の中で構成されて見えたという感覚になります。

ではどこで景色が変わるのでしょうか?これからは科学と哲学の領域を行ったり来たりしながら解明していきたいと思います。まず視神経線維を通って大脳に到達するまでは情報が昨日と本日で異なることはあり得ません。なぜなら物理的に見える情報のインプットが変わらないわけですから。すると必然的に大脳の視覚野に入力された時点で情報が修飾されることになります。情報の修飾というのは過去の行動や経験などの記憶が海馬という場所に保管されています。つまり大脳の視覚野に入ってきた信号がいち早く海馬の過去のデータと照合されて同じ景色なら過去に見た景色と同一であると判断を下して昨日も今日も変わらないと景色であると思うのです。それが大関までの毎日だったのでしょう。それが横綱審議委員会で横綱に推挙された当日から見える景色が変わるのです。それは横綱になったという使命感や責任感という重圧が大脳の海馬の別の場所に保管されて昨日見た景色が同一であるのにもかかわらず別の景色に色付けされるのです。昨日まではアウトプットされなかった重圧という修飾つまり着色される因子が横綱になった今日からは海馬からアウトプットされますので景色が変わったということになるのだと個人的には科学的に分析しました。

なぜこのような分析をしたかと言いますと、今回長男が大学入試で第一希望の大学に入学できましたが、私個人としても一緒に並走してきたという自負があります。自分の母校でなければここまで並走したという自負がなかったかもしれませんし、入学式にも出なかったかもしれません。過去の海馬にある自分の学生時代の記憶と30年以上の時を経て自分の息子が歩く後姿をだぶらせているのかもしれません。またあの歩き慣れた大学の道を再び歩くことを当初は予想していませんでしたが、いざ歩くとなると嬉しいとか不安だとか懐かしいとかいろいろな思いが交錯していました。ですから入学式の当日まではその道を歩いた時にどのような気持ちになるのかが予測不能だったのです。それが横綱の「景色が変わる」という言葉に集約されているように思えたのです。答えは「景色は変わりません」でした。しかしその後は海馬から過去の記憶が溢れるように湧いてきてその後は寝ているときの夢にまでその当時の記憶が蘇るようになりました。昨年まではそのような夢は全くみていませんでした。つまり視覚上は変わらない景色なのに頭の中ではかなり景色が変わったのでしょう。これからどのように景色が色付けされるか楽しみです。

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平成天皇退位と令和天皇即位~千年以上続く男系家族の世襲による苦労~

平成天皇陛下の退位と令和天皇即位の10連休から早50日が経過して令和という言葉の違和感がなくなってきましたが、まだ令和の日付スタンプが手に入らず、平成という文字をボールペンで二重線を引いてその上に令と書くかRと書いています。その作業だけでもかなりしましたが、そろそろその作業も終了です。周囲も「平成さよなら、ありがとう」から「令和こんにちは」祝賀ムードもほぼなくなってきましたので、サラサラ流に令和を取り上げてみたいと思います。昭和から平成へ、戦争から平和へ、大震災を経てなど内容は既に出尽くしていますので敢えて同じ内容には触れません。

今回のお題は「千年以上続く男系家族の世襲による苦労」についてです。日本は世襲に対して非常に関心が高い国で一部の国では皇室と同じようにロイヤルファミリーがありますし、北朝鮮などは典型的な世襲による独裁国家です。比較的歴史の浅いアメリカではあまり世襲を耳にしませんが、ケネディ家とかブッシュ家などと家系が存在します。血の繋がりはその家系に生まれた子供の運命でどうすることもできませんが、それを守り続けていくことは大変な事です。例えば市川海老蔵さんの場合は成田屋を絶やさないために息子の勸玄君に愛情とともに歌舞伎を愛するように教育しています。もし子供が歌舞伎役者をやらないと言えば父親は子供の幸せを考えて泣く泣く諦めると思います。それが親というものです。一方で子供も成長する過程で親の背中を見て育っていきますので、なかなかその川の流れに逆らって逆走することはできません。親子ともども生きていく間に自然と学習していくのです。その象徴が日本国をずっと見守って来られた天皇家であり、男系の長男が一番の重荷を負います。昭和天皇も平成天皇も令和天皇も国民のために日本の象徴であり続けるために頑張ってこられてこれからも頑張られるのだと思います。そのような重圧を考えれば世襲は大切でありまた大変でもあるのです。国民の8割が好感をもつ皇室なんて世界中にありません。安倍首相の支持率でさえ5割いきませんし、昔SNSがなかった時代の紅白歌合戦でさえ8割到達は困難でした。話が変わりますが、医者の息子は周囲から小さい頃から「大きくなったらお医者さんになるの?」と聞かれます。昔は「いらぬ御世話!」と若気の至りで反発もしていました。「他人の事よりまず自分の事を心配すれば」と心で相手に叫びながら適当に「はあ」と取り繕っていました。他人からすれば何気ない一言かもしれませんが、本人からすれば心に刺されるように痛いこともあるのです。ですからなるべく私は世襲に関する事は今まであまり触れてきませんでした。その気持ちは今でも変わりありません。

平成から令和の時代になり皇太子殿下が天皇陛下に即位されましたが、今後のご苦労は計り知れないと思います。そして日本の象徴として平成に引き続き戦争のない平和な時代が続き国民の皆が幸せに過ごせるような令和の時代になればいいと思います。令和という響きは本当に素晴らしいと思います。

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新病院内覧会と同窓会

前回は旧友と会って飲んで語り合い楽しい時間を過ごさせていただきました。翌朝はいつものように早くから目が覚め大浴場とサウナでアルコールを抜きます。この常宿はトイレのみついて大浴場とサウナのあるビジネスホテルです。JR神田駅から徒歩5分と絶好のロケーションで長男のいる新宿にも地下鉄で乗り換えても20分で到着します。本日は学会と内覧会と同窓会と目白押しで、家内は内覧会のみ同伴してその後は別行動となり夕方東京駅で待ち合わせです。前回長男の入学式の翌日に新宿で生活用品の買い物をした時に30分ほど時間がありましたので新病院の前を通ってみました。その時はまだ規制線が張られて遠目にしか内部を覗くことができませんでしたが、今回は堂々と中に入って行けます。まだ使用されてない建物で全てが新品の匂いが残っていて病院臭がしません。いずれ年月が経過すると病院らしい匂いが染みついてきます。その未来の匂いを私が嗅ぐことはないと思いますが、4年後に順調にいけばこの建物内を長男が歩いていることを想像するだけで私も家内もドキドキします。1階から一気に最上階のVIPルームまでエレベーターで上がります。「自分が病気をしてここに入院するとしたらここに入れるのだろうか?」と至らぬ事を想像してしまいます。最上階から眺めた都心の景色は過去に眺めた景色と違います。同じ景色なのに異なるということは以前の記憶の中での景色に現在の感情が色付けされ修飾されているのです。それから順に下の階へ降りて6階の大講堂や食堂そして屋上テラスを観て回ります。その後は階下の手術室に降りて行きます。ここの手術室に再び来ることなんて将来自分が癌にでもなってそれも上京して母校に入院することなど途方もなく低い確率です。これから6年間この大都会のど真ん中の病院で青春を謳歌できる長男の事を想像すると私まで鳥肌が立ってきます。1時間ばかりの内覧会でしたが、我々夫婦にとっては同窓会記念式典よりも今回の上京の目的は内覧会見学でした。それから品川の学会に出席しなければならず急いでとんぼ返りで新宿に戻ってきます。

午後は病院の隣のハイアットリージェンシーで同窓会記念式典に臨みます。私の年代になると仕事や立場も少しは一段落します。出席者も我々と同じ一段落ついた世代が多いようにみえますが、知っている先輩や同級生や後輩が大学本部の教授になったり同窓会の理事になったりしています。特に今回は特別な記念式典ですので出席すれば誰かに出会えるであろうと思っていました。当時はそんなに話したこともない先輩や後輩であっても卒業して時間がたてばまた変わるものです。4月の入学式の時の来賓祝辞で言われたことが脳裏をかすめます。「東医の良いところは何?」と聞かれたら「卒業したらわかるよ」と答えているとのことでした。本当にその通りです。卒業までは「こんな大学」くらいにしか思いませんでしたが、卒業すると同窓の輪がわかってきます。離れると余計にその大切さが身に染みてきます。長男には医学部に行くなら最初から我が母校に行けば良いと勧めてきました。私立にはそれぞれの伝統があり良さがあるのです。

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上京して同級生に会う

5月26日に東京医大同窓会設立100周年記念式典がありました。同時に東京で超音波学会もあり、一石二鳥で上京しました。昨年までなら同窓会に出席していたかどうかはわかりません。しかし今回は自分の置かれた状況から考えて欠席する方がいかがなものかということになります。特に今回の同窓会は100年記念式典もありますが、7月1日に西新宿の都庁の近くに新病院がオープンしますのでその内覧会というおまけ付きのため更に上京しようと考えたのです。2年前に少額ではありますが新病院建設費用目的で大学に寄付もしましたし自分がこの新病院にお世話になることは九分九厘ないと思いますが、長男がこの新病院で病院実習を将来することなどを考えれば当然内覧会で隈なく観ておきたかったわけです。私が病院実習をした旧病院も当時はオープン2年目でピッカピカの2年生でした。時代は巡るのだなあと思っています。今回は長男に会う予定もあり家内も内覧会に行きたいとの事で同伴です。その旨をバレー部の同級生で歳以外でも全ていつも私より数年以上未来を歩いていた友人に今回の長男の入学の件を連絡していましたので、それなら家族で一緒に夕飯を食べようということになり、同窓会前日に神楽坂で待ち合わせです。4年に1回の学年同窓会で二言三言の言葉は交わしますが、それ以上話すことは卒業以来ありませんでした。在学中は授業など学業ではグループ全く違いましたが、放課後バレーボールを通して「どうやったら試合に勝てるか?」とか春と秋の合宿で一緒に過ごしたり個人的な悩みの相談の乗ってもらったりと公私ともにかけがえのない友人だったと思っています。しかし人生では仕事や結婚などを通して無二の親友と思われる人がずっと自分の傍にいる事の方が稀です。「あの当時は楽しかったなあ」と過去の記憶を辿りながら神楽坂の駅を出て目的地に向かいます。会えばすぐにあの当時に戻れるのはわかっているのですが、お互い30年を経て積み上げてきたものもありますので、少し不安な気持ちになるのも事実です。そんな思いを馳せながらこじんまりした小料理屋に3人で到着です。

店に入るとカウンターとテーブルでものの10人も入れば満席になる小さいお店で、姿は30年という時を経て白髪交じりになっていますが即座に握手を交わして「久しぶり」という枕詞で会話が始まります。今回は友人の奥さんも一緒で彼らの結婚式は丁度31年前の卒業した翌月の昭和天皇の誕生日に祝福したのを今でも鮮明に記憶しています。それから1か月後に私は東京を去りました。もう30年が経過しているのです。しかし今回はただ単に「同級生と久しぶりと会う」だけではなく「次世代の彼の同窓の後輩になる長男を連れてきた」ことに意味があるとお互いに思っています。なかなか子供を同窓にすることは本人の意思やお金やタイミングなど偶然のチャンスに左右されてしまいます。私達もたまたま合格した大学で同じバレーをしたという偶然の賜物なのです。人生は点という偶然が積み重なって線となり次世代に繋がっていくものなのだと感じながら旨い酒を飲みながら語り合いました。家内と長男にとっては親父の知らない過去を聞けてさぞ楽しかったことでしょう。

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