太宰府天満宮にお参りして

今年は長男が大学受験です。センター試験が差し迫る年始に神頼みをすると御利益が分散されそうなので早めに太宰府天満宮に参拝してきました。今まで私は太宰府天満宮に参拝したことがありません。防府天満宮も3回しか参拝したことが無く家族が関連する受験がある時だけお参りする都合の良い参拝者です。そんなご都合主義の参拝者でも神様は我々に微笑み助けてくれるのだろうか?といささか心配しながらの太宰府詣でです。ちょうど連休中は長男の寮が閉鎖されて受験生にも関わらずに家でゴロゴロしていたので手を引っ張って一緒にお参りです。自分の高校時代と比較してはいけないことは重々承知しているのですが、「俺は高校3年になったら脇目も振らずに受験戦争真只中だったぞ!」と心で叫ぶのですが、本人はいたってのんびりムードです。これは本人の性格が一番大きいのですが、現代のスマホやネット社会は多くの情報を得るには昔と比較すれば1000倍以上高速化された一方で受験勉強に関してはかなり悪影響を及ぼしているのではないかと思っています。そんなことを考えて新幹線に乗っていたらいつの間にか博多駅に到着です。博多駅から便利なことに直通バスが1時間に3-4便出ています。福岡空港国際線ターミナル経由ですが、ほぼノンストップ便に変わりありません。連休の民族大移動で皆考えることは同じでバスの発着所は長蛇の列で、皆は乗り切れずに次のバスまで待ちます。その光景が延々と続いています。乗って市内の渋滞を抜けると後は都市高速を座席に座れずに満員車内でおよそ1時間立ったままで門前の太宰府駅までやって来ました。

連休である程度の混雑は予測していましたが、年末年始と比較したらかなり空いているのではないかと勝手に想像しながら参道を歩いて行きます。今年の連休は好天に恵まれて少し歩くだけでも汗ばみ紫外線が痛く感じます。境内を抜けて正面まで到着しましたが、参拝するのもそんなに待ち時間はなくスムーズでした。そして祈願のために5000円を納めてお宮に上がって正座して神妙に10分ほど御祈願していただきつつがなく終了です。最近は正座なんてしたことがなくものの5分で足が痺れてきて胡坐をかくはめになりました。自分でも情けなく思いましたが長男も同様です。その後に絵馬に願いを書き多くの掲げられた絵馬の中に埋もれるように掛けてきました。流石に学問の神様だけあって私たちよりも更に気の早い受験生が山のように絵馬にそれぞれの夢を書いていました。皆が皆合格できないのは宝くじと一緒で科学的には理解しているもののやはり最後は宗教でしょうか?神頼みも立派な合格手段の一つで本当に藁をもすがる思いで神にすがる思いです。昨年の長女や次男の神頼みは我々よりも他の受験生がより強く神様を拝み倒したのでしょうか?今回はこの第一弾の太宰府を皮切りに第二弾、第三弾とミサイル発射のように連射して神様を拝み倒す予定です。そして来年には再びこの参道を通り絵馬に御礼を記したいなと思いながら大宰府天満宮を後にしました。帰り際に梅が枝餅の老舗でつきたての餅を食べながら残り9か月を家族ともども乗り切る覚悟を新たにしました。

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今年のゴールデンウィークは勉強三昧

先週は家族そろって佐賀に行きましたが、後半は長女が早々と横浜に帰ってテニスとバイトに精を出しました。長男は学校の寮が閉鎖されるため否応なしに自宅でゴロゴロしていました。末っ子は連休明けに中間テストが待ち構えているため山のような宿題とともにテスト勉強をしていました。末っ子の教科はまだ私でも理解でき教えることができますのでこの連休は家庭教師に早変わりです。長男の大学受験問題は私には理解不可能です。末っ子の学校の数学や理科は中高一貫教育のため高校で教える内容が中学1年でも出てきて中1にとっては難解なのですが、内容がかなり重なる部分があるために一緒に教えた方が効率がよいのでしょう。しかし全てをやり終えた我々が後から振り返ってみて効率が良いと言うだけで、たかが14歳の子供にとってはかなりのボリュームで大変なことには間違いありません。特に高校の化学で元素記号を「水兵リーベ僕の船、七曲がりシップス、クラークか」と覚えさせられたのが、いきなり中1で出てきたのにはビックリです。考えてみれば元素記号から考える方がとても理解はしやすいのですが、元素がどういうものかさっぱりわからない中1にとってみれば更に難解になる可能性が高く、いくら効率化を求めても理科嫌いにならないかと心配になります。中高一貫教育は優秀な子供にとっては非常に効率よく6年間を5年でやり終えることができる素晴らしいプログラムですが、うちの末っ子のように学校の授業についていくのがやっとでちょっと油断すればたちまち落ちこぼれそうになる子供にとっては困りものだと入学してから初めて気づきました。

そんなこんなで連休の後半は末っ子と一緒に物理と化学と数学と英語の勉強を一緒にしました。昔に習ったことですのでかなり忘れていましたが、参考書を読み進めるうちに思い出してきました。全く無知の子供に基本的事項を教えるのですから、昔取った杵柄で時給2000円くらいの価値でしょうか?それを無給で教えました。教えながら自分がもし14歳に戻ってこの教科を初めてみれば多分今の末っ子と同じように落ちこぼれそうになるかもしれないなと思いながらの不安な家庭教師でした。数学や英語もどんどん公立中学よりも先に進んでいきますのでこれから先本当にこの学校で大丈夫だろうかと更に不安が重なってきます。末っ子をこの学校に入学させたのはまず寮生活をさせたかったのが一番で授業についていけるかどうかなんてあまり考えていませんでした。なぜならある程度の勉強で中学入試をクリアした子供たちですので流石に中1から黄信号が灯りそうになるとは想定外でした。今思えば当然と言えば当然でせめて優秀な成績でなくてもいいから普通でいいのにと思うその普通がとても困難なことに気づかされたのです。寮生活など学業以外はとても充実して満足しているのですが、新たな火種が出てきたのです。今年のゴールデンウィークは中学、高校の理数系科目の勉強一色の1週間でした。中学受験が終わって一息と思っていたのも束の間で、また不安を感じながら夏休みまで無給の家庭教師をしなければならないようです。一難去ってまた一難です。

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末っ子が少しは成長した運動会

時の流れは早いものです。昨年不安交じりで末っ子が中学入学したと思ったらもう後輩が入学してきました。昨年は家内と二人で観戦した運動会ですが、長女が一度も佐賀に足を踏み入れたことがないので今回を逃すと来年以降に佐賀に行く可能性は皆無になりますので、「意地でも帰省せよ」と命令を出しました。なぜなら長女は大学の学年が上がるごとに実習などで余計に時間が取れなくなるからです。長男も命令したのですが、クラブでバスケットボールの試合があり、高校最後の県予選が入っていたために断念しました。レギュラーではなく控えですが、悔いのない試合をしてほしいと思います。末っ子の運動会は昭和の日で、当日は朝5時には自宅を出発して佐賀に3人で行きました。長女は3月に自動車免許を取得しましたので行きの高速道路で練習がてらに運転させたかったのですが、急カーブの多い中国自動車道では不安が募り断念しました。運転することおよそ3時間で到着しましたが、もう運動場は父兄でごった返しです。出場する種目は徒競走や団体競技など含めて数種目ですが、昨年観戦したときより身長が伸びて成長した姿を見ると少しは頼もしく見えます。数年前までは小学生でかけっこと表現した方がピッタリとしていましたが、今では徒競走に昇格です。あと数年もしたらもっと逞しくなっておっさんみたいに見えるかもしれません。中学高校時代では見た目の成長と心の成長がアンバランスで反抗期など多くのトラブルも起きます。ただ末っ子の場合はその難しい思春期を中学寮という特殊な環境で過ごして成長して行きますので、上の二人とは明らかに異なる青春を味わうはずで、それはそれで親としては楽しみな一面でもあります。そんなことを考えながら観戦していますと「もうお昼?」の時間になってしまいましたが、末っ子は昨年同様に寮で出された弁当を応援席で食べています。親としてはちょっぴり寂しいような嬉しいような複雑な気分です。午後の競技も順調に終わり無事今年の運動会も終了しました。


末っ子の学校の運動会は昭和の日でこの数年は前後の並びが週末と重なり一泊旅行が可能となります。そのため今回も昨年と同様に郊外の温泉ホテルに宿泊となりました。勿論のこと末っ子は寮生ですので運動会の後に夕食を共にしましたが、早々と寮に送っていきました。運動会の数日前が誕生日で、14歳になりましたので、夜はしゃれたレストランで誕生会も兼ねました。運動会は上の二人は広島でしたので末っ子を連れて過去に何回も観に行きました。一般的に上の子の運動会は下の子も連れて観に行きますが、反対に下の子の運動会に上の子を連れて行くことはあまりないように思いますがどうでしょうか?そのような機会も今回が最初で最後です。翌朝、末っ子は運動会の後片づけをしてゴールデンウィークは長期帰省となりますので寮に車で迎えに行き家路につきます。長女の大学は連休が暦通りで月曜は授業がありますので、今日の午後に福岡空港から東京へとんぼ返りとなりました。本当に子供たちの予定がバラバラで一緒に行動できる時間はほんのわずかしかありません。最近はわずかでも家族で一緒にいる時間の大切さをしみじみと感じます。

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東京での昔の通学路を歩いて~後遍~

前回の大学での思い出は6年間続きます。多くの記憶が大学の正門前で溢れ出してきましたが、到底全て書ききれませんので今回はそこから通学路の阿佐ヶ谷までの思い出をお話ししましょう。大学前の通りは現在でも医大通りと名前は変わりませんが、お店はほとんど変わりました。そして目の前にはタワマンがそびえています。3-4軒の当時利用していたお店が昔のまま残っていました。その医大通りから靖国通りのメイン通りに出て新宿駅まで歩いていきます。当日は春を通り越して初夏を思わせる陽気です。額が汗ばんでタオルで拭きながらハーフで有名な新宿3丁目を通り歌舞伎町を横目に見ます。私はあまり新宿3丁目には行きませんでしたが、友人達は朝までよくオカマバーで飲み明かしていました。昼間の歌舞伎町は今でも恐ろしくありませんが、当時は夜の歌舞伎町でも恐れることなく一人でも酔って歩いていました。若気の図々しさとまだ平和で良い時代だったのでしょう。今は夜なんて恐ろしくて一人では歩けません。通りを歩いていくと店は変われども通りの雰囲気は変わらずに当時を思い出しながら新宿駅から中央線に乗って阿佐ヶ谷まで向かいます。大久保、東中野、中野、高円寺と車窓は変われどもやはり昔の中央線沿線は多くの記憶が残っています。そしてまだ花弁が2割ほど残っていた桜並木や小学校を見るたびに当時も同じ光景を目にしていたことが一瞬で甦ります。阿佐ヶ谷駅のホームに降りたった時、多分10年ぶりになりますが、懐かしさが更に大きくなっていきます。


北口を出てアーケード街を通りますが、そこも8割は昔とは違うお店です。その中で当時から営業が続いているお店を見つけだすのは記憶の中の宝探しのようです。現実と過去の記憶が一致すると心臓の鼓動が一回ドクンと鳴り響くようです。それから昔のアパートに近づいてくると更に胸の鼓動が高鳴ってきます。10年前はあった6年間お世話になったアパートを見つけるとまずはホッとしました。私が入居したときが新築でしたので築35年です。周囲には新しいアパートが立ち並び昔のままひっそりと建っています。隣には大家さんがまだご健在で住んでいらっしゃいます。当時はちょうど現在の私と同じくらいの年齢で、現在は私の両親と同じ年代です。病気もされたようですがお元気のようです。当時はあまり大家さんと会話をしたことはなかったのですが、自分の子供が大学生になり当時の大家さんや両親と同い年の同じ立ち位置に立ったからでしょうか?東京を離れてから30年経過する今の方がとても親近感が湧いてきます。親子の世代がおよそ30年周期で巡ってきてその当時の親の気持ちがわかるとは正にこの事を言っているのでしょう。少しの間大家さんの自宅でその老夫婦と世間話をしました。東京でも高齢者が増え老老介護も増えて救急病院は満床で救急患者はたらい回しだそうです。一方で田舎は高齢化率が都会以上に上がってシャッター街が増えたことをお話ししました。次の30年後の自分の近未来像を映し出しているようでした。懐かしさと不安が同居した訪問でしたが、「また学会の時に電撃訪問します」とご挨拶をして、短い6時間の東京滞在を後にして飛行機に乗りました。

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東京での昔の通学路を歩いて~前遍~

いつもなら一泊二日で上京して学会に行くのですが、土曜日にどうしても外せない用事があり日曜日の日帰りで東京の学会に行ってきました。今回はスケジュールがタイトでしたので学会に参加しただけで内容としてはあまり実りのあるものではありませんでした。ちょうど昼時で2時間程度の空き時間がありましたので10年ぶりに新宿御苑前にある大学の校舎とかつて6年間住んでいた阿佐ヶ谷に立ち寄ってみました。ちょうど来年の3月に大学卒業30年になります。同時に東京を離れてからも30年です。10年、20年と区切りにはかつての思い出の地を踏むようにしていますが、今回がちょうど3回目になります。かつて中央線快速で阿佐ヶ谷から新宿まで15分でその後は新宿の歌舞伎町を横目に靖国通りを歩いて15分で大学に到着です。30年経っても自分のかつて6年間歩いた道は今でも続いています。ただその通りの沿線の建物は様変わりしています。特に昔食べていた食堂やレストランそして飲み屋さんなどはほとんど姿を消してしまいました。その中で稀有にも現在でも残っているお店を見つけるととても懐かしく嬉しくて感動ものです。自分が歳をとった分そのお店も年輪を重ねて古びて見えて現在の若者にとっては入りづらい場所かもしれませんが、私から見れば浦島太郎が戻ってきた時にほっと一息つける場所と言っても過言ではありません。「学生時代にクラブを終えてこの店でよく皆とビールを飲みながら飯を食ったなあ」と懐かしさに浸りながらの新宿駅から大学までの短くも長い15分の過去と現在を結ぶ思い出の通学路の旅です。

そして大学の正門前に着くとやはり想いが込み上げてきます。最初にこの正門をくぐった入学試験の雪の日が思い出されます。入学試験は一次試験と二次試験の小論文をこの大学の教室で受けて、面接は体育館で10か所以上に分かれて行われました。面接は目の前に面接官が3人並んで交代で質問しますが、形式は現在でも変わりないようです。面接官はその当時の教授でしたが、顔などは緊張して全く覚えていませんし、質問内容もほとんど記憶は遥か彼方に飛んでいますが、唯一今でも忘れられない質問がありました。読書についての質問でしたが、その面接担当教授は「君の一次試験は現役にしてはかなりできているようだが、高校時代にあまり本を読んでないようだね。司馬遼太郎と漢字で書けるかね?」と聞かれて自信なさげに「遼」と書いた記憶があります。正確に書けたという自信はありませんでした。するとその教授が「大学に入ったら多くの本を読んで見識を広げるように」と言われましたので、子供ながらにそれで合格したと信じていました。後で考えてみれば何の根拠もないのですが。入学後に自分の出席番号の後ろで慶応高校出身の友人が同じように聞かれて「福沢諭吉を漢字で書いてみなさい」と言われたそうですが、なんと母校の創始者なのに「諭」を「論」と間違えて「ろんきち」と書いて彼は間違いなく落ちたと思ったそうですが、晴れて6年間一緒に勉学を共にしました。それも今となっては懐かしい思い出です。まだまだ想いが込み上げてきますが次回に続きを。

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