最近のSNS事情~時代は変わったものだ~

ケータイがこの世の中に普及して早20年になります。私は「値段を下げます」とか「乗り換えたらお得」などのキャッチコピーを無視し続けてこの20年間NTTドコモの超お得意様ですが、別にヘビーユーザーではありあません。ただ乗り換えが面倒くさいのが一番で次に目先の欲にとらわれても長い目で見れば結局損をすることが多い世の中なので乗り換えをせずに20年が経過しただけなのです。結局今では家族一人が各々1台のケータイやスマホを持ち合計7台所有となりました。ただし両親は昭和1ケタ生まれですのでケータイ機能だけで十分ですので昔ながらのガラケーですが、我々世代は流石に時代の流れに乗り遅れないようにとスマホデビューを果たして2年が経過しようとしています。ただ個人的にはメールと通話ができてあと少しだけネットを見ることができたら文句なしの使用方法ですのでほとんどケータイレベルの親世代と変わりありません。しかし子供世代ではこちらの考えが全く通用しないレベルで多種多様のスマホ機能を駆使して楽しんでいます。そのため月末になるといつもこれ以上利用されると通信機能が落ちますという警告が必ず届きますが、私はほとんど通信機能を利用していないため???です。

また子供たちはラインなどのSNSを利用していろいろな人と繋がっています。昔「友達の友達は皆友達。世界に広げよう友達の輪」というテレビで「笑っていいとも」のキャッチフレーズがありましたが、正にその言葉通りの世界をネットは可能にしてくれました。ただし我々昭和世代では信じれないことも起きています。うちの息子や娘はコンサートに行くときにはそのSNSで友達の友達は皆友達感覚で全く見ず知らずの人でも同じファンクラブの会員なら当日コンサート会場で初対面でもお互いにチケットを融通して入場したりするのが普通のことのようです。事前にお金を振り込むこともあるようですが、そのような事がきっかけでトラブルに発展していく可能性は十分にあります。家内ともよくこの話題になるのですが、それがジェネレーションギャップなのかもしれません。事実これがきかっけで金銭トラブルに巻き込まれたり、挙句の果てに殺人事件に発展することもないとは言えません。しかし子供たちは何食わぬ顔をしてスマホを触っているのです。多分、子供世代から見れば「何言ってんの。この親は?」くらいの感覚でしかないのです。

先日、長男がアニソンのコンサートでチケットをとってもらって初対面の人と一緒に相手の車に乗せてもらってコンサート会場に行ったそうです。そして帰りは一緒に食事をして帰ったそうですが、親としてはかなり抵抗感を感じます。もし何かあったら誰が責任を取るのかという不安が付きまとうのです。しかしそのことを直接子供にラインでぶつけても「大丈夫」の一点張りでそれ以上突っ込むと間違いなく親子喧嘩が勃発してコンサートに行く以前に修復不可能な冷戦状態に置かれること間違いなしです。それもわかっているので「十分注意して、気を付けるように」くらいしか言えませんでした。そしてコンサートが終了して無事に帰ったとメールをもらうと胸を撫で下ろしました。

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今がファースト

最近、「〇〇〇ファースト」という言葉が流行っています。以前の予備校講師の「今でしょ」の流行語を少し改変して「今がファースト」という造語を作りました。今年の流行語大賞には「アメリカ・ファースト」と「都民・ファースト」がノミネートされるかもしれませんが、「今がファースト」もランクインされればいいなあと個人的には思っています。またファーストを漢字にするとイチローの「一」でしょうか?この一文字が年末の清水の舞台で書かれる可能は低いかもしれません。以前このブログでも少し話題に触れましたが、「今という一瞬」が大切なことは誰にでも理解できるはずですが、ついつい「今という一瞬」をいい加減にしてしまうのも人間の弱い部分かもしれません。今がなければ未来はないし過去がなければ今はないのですが、過去は決して戻ってきません。また未来は誰にもわかりません。結局は「昨日から学び、今を大切に生きて、その結果として明日がある」と思っています。「アメリカ・ファースト」は自国の身勝手な保護主義と非難され、「都民・ファースト」は東京では受け入れられるかもしれませんが、地方のひねくれた田舎者からすれば「東京ばっかりいい思いをして」などと敵視されかねません。しかし「今がファースト」なら誰でも素直に受け入れることができるのではないでしょうか。

誰でもやるからには一番を目指すべきです。しかし非情にも世の中では一番からビリまで序列化されてしまいます。これは区別であって差別ではありませんが、それでもビリだったらいい気がするはずなんてありません。しかし「一番でなかったらビリと同じ」というフレーズが社会でよく使われますが、これも全てが的を射ているかと言えば必ずしもそうではないでしょう。しかしそれだけ「一」や「ファースト」という言葉は特異的な言葉として受け取られるのだと思います。客観的な順番は一目瞭然ですが、主観的な見方をすれば個人の中でまた1~100までの自己評価がつきます。いくら客観的な評価では99番であっても個人としては100点満点をつける場合だってあるわけです。その場合は客観的には劣等生でも個人という主観的な結果としては合格なのです。

最後は自分の人生は自分のもので他人のものでもなくましてや子供のものでもありませんが、その自分の人生を一番にするために子供のために努力することが今自分にとってしなければならない最優先事項ならば、それはそれでよいのです。また子供が巣立って何もすることがなくなれば仕事一番になるかもしれません。今できることを今すぐにすることが「今がファースト」なのです。昔の私はそんなことをしていませんでしたが、今の私はどっちがよいか迷った時には常に心に「もしこれをしなかったら、後で後悔するのではないか?」と自分に問いかけるようにしています。よくわからない場合は全て後悔するにしてしまいます。どうしても決められなければ翌朝の「朝のアウトプット」に判断を委ねて寝させて保留します。それでもダメなら完全に期と気が熟すまで放置します。そして決して「未来の自分が過去の自分に後悔したよ」と言わせません。

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読書感想文は必要悪か?

小中学生の夏休みの課題で読書感想文があります。これは我々の時代からずっと続いていますので時代を超えた素晴らしい課題と言っていいのかも?しれません。学校によっては冬休み明けも夏休みに続いて読書感想文があります。年に1回の夏のみであれば「仕方ないな」とあきらめて子供にサジェストしながら書かせるのですが、年に2回もあった日にはちょっと一言余分に物申したくなります。それは私の家内も同じ気持ちのようですので一概に私だけの読書感想文への偏見ではないようです。

まず「本」というものが存在して、それを人間は読みたいと思って読み始めます。上から目線で「この本を読んでみよ」と言われた日には仕事の資料で仕方なしに読むことはあってもましてや、「その本の感想を書け」と言われたら「読みたくもないのに感想文まで書けるか!」と無味乾燥な感想文になるのが必然ではないでしょうか?「好きな本を読んで思ったことを書け」ならまだ書ける可能性もあります。しかし読みたくもない本を指定されて感想文を書けと言われても当時の私も小学生ながらおかしいなと思っていました。そりゃあ本が好きでちょっとませた女の子ならいつの時代でも県のコンクールに入選するのも簡単なことでしょう。しかし「文字が苦手で国語嫌いで人生経験も浅くおませでもない私がなぜ読書感想文を書かないといけないのか?」と当時から大いに疑問を持っていましたので、自分の子供たちが読書感想文嫌いな気持ちがとてもよくわかります。むしろ強制することにより更に国語嫌いになり、挙句の果てに日本語嫌いになるかもしれません。実際に10年前までの私が国語嫌いで読書嫌いだったので実感できるのです。「では今はどうなのか?」と聞かれれば、読書嫌いでも感想文嫌いでもありません。しかし読書感想文を書けと強制されれば「そんなの無駄」と言うでしょう。なぜなら「感想文を書け」と言われて書くのではなく、読んだ後に感想が自然に心から湧いてくるものです。湧いてこなければ小説と一緒で「あー、面白かった」で終わってしまうのではないでしょうか。

ではなぜ10年前から読書を始めたのか?それはやはり「必要は母」なのです。人生でいろいろな困難にぶつかった時に自分の考えでは到底及ばないことが多々あります。その時に過去に同じ気持ちになったことのある人の考えを知りたいと思います。そして私が尊敬する齋藤孝先生が「読書とは過去の作者とその本を通して会話することだ」と書かれていたのが本当に腑に落ちてから読書が好きになっていったのです。そしてブログを書き始めてからわかったことは感想文でもなんでも文章を書くということは「自分の文章を通して読み手である相手と会話するのだ」と思えるようになってから書くことが全然苦にならなくなったのです。国語嫌いの子供たちにそれを言葉で伝えてもわからないでしょう。どうしても必要になったときに初めて自分で身に染みてわかるのです。それまでは読書感想文の強制はやめて好きな本を読ませることが大事です。全く本を読まないのはいささか問題がありますが、読書感想文を書かない自由があってもいいのではないでしょうか?

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夏休みの理科の自由研究は必要か?

自分が小学生の頃よりずっと以前から学校での夏休みの宿題に理科の自由研究と読書感想文がありました。現在に至っても個人的にその良くも悪しき伝統が脈々と学校で受け継がれています。はっきり言って私は小中学校でそのような課題は苦痛で嫌いでした。今年も6月に入って夏休みを1か月後に控えて世代を超えて今度は親として憂鬱な日々を過ごしています。今回は夏休みの自由研究について次回は読書感想文についての親として子供の教育という観点から私見を述べたいと思います。日本は官僚により支配され、教育行政は文科省が牛耳っています。ですからゆとり教育などとアホなこと言って教育レベルを下げてアホになったら英語教育にすり替えて脱ゆとりと朝令暮改の連続ですが、決して責任を取ろうとはしません。今回の文科省前事務次官の爆弾記者会見で官邸対元官僚の構図を見ても本当にこの人々は国の将来を心配しているのか?と疑問を持たざるを得ません。話が横にそれましたので本題に戻しましょう。

理科の自由研究を私も小中学校としてきました。当時でも子供ながら本当に意味があるのか?と思っていましたが、その点については親になった現在でも同じです。それをしたからといって自分の人生が大きく変わったとは思いません。自由研究というぐらいですのでやらない自由があってもいいのではないでしょうか。やりたければやればいい。それも自由ではないでしょうか。それともう一つの大きな理由は昔から感じていたことで現在も同じように感じていることなのですが、親の見栄張り研究が多いのです。小学生の頭でそんなこと思いつくのか?という素晴らしすぎる自由研究の多いこと。そして学校側も暗黙の了解でファーストネームの子供の名前のみで市の代表に選ばれ県のコンクールに出品されます。一方、大人の世界ではラストネームは有名教授の名前を書かなければ有名な学術論文として認められないためデータを改ざんして論文不正の温床となっています。この二者の違いはラストネームがあるかないかだけです。子供一人で研究の目的や方法、そして解析や結果から得られる考察など無理に決まっています。それなら最初から母親の名前をセカンドネーム、そしてラストネームは父親の名前をはっきりと記載して夏休みの共同自由研究にした方がよっぽどスッキリすると思いませんか?その道のプロが見ればどれくらい親が手伝ったかなんてすぐわかると思います。それを秋に文部科学大臣賞などと受賞されるのはかなり本来の目的や本質をゆがめているのではないかと思うのです。

そこで今回の結果と考察です。まず理科の自由研究は自由だから提出しない自由があってもよい。親との共同研究は共同研究者名をはっきり記載する。私も子供の自由研究にはアイデアを出しますが、実験は必ず自分でさせて結果も出させます。考察は子供一人では導けないのでサジェストすることはありますので共同研究者になります。昨年の次男の中学校で親が全く手伝わずに1枚の紙に書きなぐったような自由研究を見かけましたが、本来はそれが本当の子供の姿だと思います。また今年も悩ましい夏がもうすぐやって来ます。

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朝昼晩の4T

先日、車のラジオで朝昼晩に3Tをすると有意義に過ごせると誰かが言っていました。朝の頭が冴えているときに前日までに吸収した知識を整理するための「アウトプットの1T」、昼からは多くの知識を吸収するための「インプットの2T」、そして晩は昼間の全ての事象を終了させて明日のために頭を切り替えるための「リセットの3T」で、「この3Tをうまく使いこなせばあなたも有意義な人生を送れます」とのことでした。「なるほどこれはうまいこと言うな」と思いながらその時は車を走らせていました。

それから1週間が経過して再度3Tが気になり「あの時の3Tは何のTだっけ?」と思いを巡らせますが、2Tまではアウトとインの対義語ですのですぐに思い出せます。しかし最後の3Tが頭に浮かんできません。そしてやっと「リセットのTだ!」と思い出します。そして再度その3Tを自分にあてはめてみると1Tと3Tはしっかりと腑に落ちるのですが、午後の2Tがイマイチなのです。自分の生活スタイルの中ではどんどん知識や事象を吸収する時間帯は午前中なのです。朝イチのアウトプットは自分が昨日までに吸収した知識や事象が確実に定着しているかを確認するためですので理にかなっています。しかし頭にドンドン吸収できるのは頭の冴えた午前中で午後ではないのです。昼食後に午後の能率アップを図るために20分程度の仮眠をするのが私の日課ですが、それでも午後には睡魔に襲われたりして効率よくインプットできないことが多いのです。学生が午後の授業中にウトウト昼寝してしまうのと同じです。ですから午後はもう少し行動的にチャレンジをした方がよいのでは思い「トライのT」に変えてみました。よって午後は「トライの3T」で晩は「リセットの4T」です。皆さん、どうでしょう?この方がスッキリしませんか?晩の「リセットの4T」は朝イチの「アウトプットの1T」と同様に大賛成です。翌日までつまらない事を残さないために自分をリセットする時間が必要なのです。私の1日のタイムスケジュールの中ではどんなに忙しくてもスポーツジムに行って汗を流して大浴場に浸かります。365日毎日は不可能ですが、できる限り行くようにしています。その「私の4T」によりその日の夜が気分一新できて1日の仕事時間とプライベート時間を分ける役目もしています。ですから私にとっては3Tではなく4Tなのです。

自営業を始めて来年で20年目を迎えます。最初はガムシャラに24時間リゲインを飲まずに戦ってきました。子供が成長していくにつれて何を優先順位の上位に持っていくかを悩みました。それならば「今がファースト」で優先順位をつけました。周囲からは冷ややかな目で見られたこともありました。50歳を過ぎて三途の川の向こう岸がおぼろげに見えてきました。今このブログを読んでいるあなたの場合、「現在の自分の置かれた立場ではそんな事できないよ」と言われるかもしれません。またこの「私流の4T」があてはまらないかもしれません。それはそれでいいのです。以前に「今でしょ」が流行語になりましたが、「今がファースト」で今できることをやればよいのです。後に振り返って後悔しないように。

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