家族のいない13歳の「ハッピーバースデー」

子供たちが家を出て早1か月。子供たちの誕生日は3月、4月、6月と集中しています。しかしその当日は誰一人自宅にはいません。今までなら誕生日には必ずケーキを買ってきて家族5人で「ハッピーバースデー」を歌っていました。長女は18歳まで長男は15歳までそして末っ子に至っては12歳で終了です。そんなに早く親元から離れて寮暮らしがいいのか?という意見もあると思います。こういう特別な日には遠く離れた姿を思い描きながらそのような意見に耳を傾けるのも最もだと思います。しかし上から順番に子育てを終えていくにつれて「かわいい子には旅をさせよ」という格言がその寂しさに打ち勝ってしまいました。イギリスにパブリックスクールといって13歳からの子供をしっかり育てるための全寮制の学校が多数あります。その影響が一部にあるかもしれません。

自分の子供時代に誕生日ケーキのろうそくを吹き消したというはっきりとした記憶がぬけているのですが、多分小学生の低学年が最後だと思います。少なくとも中学生になってからは誕生日の存在は家族内にはあっても誕生会なる存在はありませんでした。当時でもしっかり誕生会をしてくれる家庭もあったはずですが、自分の周りでは誕生会をしてもらってない友人もかなりいたのも事実です。周りがしてなければ子供心に羨ましいという感情もないため別に気にも留めなかったのでしょう。しかし現代の少子化時代では親は勿論のこと祖父母までもが入学式や卒業式に顔を出す時代で、学校側は事前に式に参列する人数を制限するところもあります。親離れができない子供が増えたのではなく、子離れができない親が増えたのかもしれません。それでも自分が親にしてもらえなかった誕生会を子供にしてあげたいという気持ちはあるものの、それも一部は親の自己満足なのかもしれません。言い出せばきりがないのですが、嫌がる子供にまで誕生日ケーキのろうそくを吹き消す必要はないのかもしれません。しかし多分反抗期を卒業したであろう高校2年の長男でも昨年のケーキのろうそくを恥ずかしながらも嬉しそうに吹き消していました。だから今回13歳になる末っ子が中学卒業するまでは誕生会をして「ハッピーバースデー」を歌ってろうそくの火を吹き消させてやりたかったなあとそこだけは寮に入れて1か月も経ちませんが、ちょっぴり寂しい思いもしました。連休に一時帰宅しますので遅ればせながらのケーキを買っておく予定です。

末っ子にはテレカを山ほど持たせてあるので毎夜9時前後の義務学習時間の合間に毎日電話をかけてきます。もうちょっと大きくなったら面倒臭がって電話も掛けなくなるのかもしれませんが、まだまだ小学校を卒業したばかりでかわいいものです。そして誕生日当日もいつものように彼が電話を掛けてきました。そうするといきなり末っ子より「今日、校長先生に呼ばれた」との内容です。「また何をしでかしたのか?」と親は気が気ではありません。すると新中1の生徒のみ誕生日に校長先生からお呼びがかかるとのこと。やはり学校も家族のいない13歳の「ハッピーバースデー」をよく理解していました。

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地震が起こる度に思うこと

山口県は昔から地震が少ない地域だと子供ながらにも揺れの感覚で何となく感じていました。大学で上京した時、数か月に1回は揺れる関東の大地で「東京は地震が多くよく揺れるなあ」と感じたものです。それまでは山口で揺れたという記憶は年に1度でもあれば多かったと思っていました。しかし上京後に揺れる度合いが増えてくると感覚がどんどん麻痺してしまい震度3程度の揺れでは全くビビらなくなってしまった大学時代でした。その当時はまだ大地震は私が生まれてから経験が皆無で、首都直下型地震などという言葉は存在していませんでした。

大学卒業後山口に戻り地震のことは話題に出ませんでしたが、阪神淡路大震災で一変します。大震災のときは出雲に住んでいました。雪がちらついてあたり一面が真っ白になった朝一番の大きな揺れでした。山陰ですから神戸からはかなり離れていましたが、かなりの揺れを感じて飛び起きたのをよく覚えています。その当時は県立病院に勤務していましたのでその震災後に神戸市長田区の長田高校で救護班として5日間ほど出務しました。その時は震災から1か月近く経とうとしているのに火事の後でまだ焦げ臭い匂いが充満してがれきの山が至る所に残っていたのは今でも鮮明に覚えています。まるで昭和20年の敗戦国日本の写真を教科書で見たことがありましたが、そのさし絵さながらの光景でした。次は勿論、東日本大震災です。この震災はまだ記憶にも新しいのですが、自然に対する人間の無力さを見せつけられました。そして山口からは遥か遠くのため映像のみが先行して実際の凄まじさを阪神淡路大震災の現地にいたときのようには感じ取れませんでした。また阪神淡路大震災の時のように何か手助けはできないかと考えましたが、その当時は開業して現在の自分のテリトリーを離れること自体が、地元に住んでいる多くの患者さんに迷惑がかかることもわかっていましたので、自分の思いを行動で表現することはできませんでした。人間はその時々の置かれた立場によっていやがおうにでも動けない時もあるものだと感じた次第です。

そして今回の熊本大地震。スマホが木曜の夜にけたたましく鳴り始めました。一体何事かと思ってからおよそ10秒くらいでしょうか?大きな揺れを感じました。十分にテーブルの下に逃げ込む時間はありましたが、それ以上に体が一瞬凍りついたように動けなくなり呆然と立ち尽くしたと時に揺れがやってきました。その後も何度となくけたたましいスマホの警告音。その度に身構えます。そして翌朝の大参事を映像で見た時はやはりショックでした。更に翌日の夜も何回もけたたましく鳴ったスマホの警告音で地震の本震と余震の猛威にかなり恐怖を感じました。早く地震が終息してくれることを願うばかりで、月並みですが被災された方々にお見舞い申し上げることくらいしかできません。そしてどんな時でも今自分の立場でできることをしっかりとやっていかなければならないと思っています。

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広島のホテルに1泊

先月末に久しぶりに家族が皆揃ったので広島のホテルに1泊してきました。本当は古びた温泉宿がよかったのですが、長男のクラブ活動のため学校の近くのホテルで全員集合となったわけです。子供が大きくなると長期休暇ですら家族のイベントは子供の学校の予定に大きく左右されるという典型例です。今回のイベントは子供たちそれぞれの新しい出発の門出にどうしても家族全員集合をしたかったのが最大の理由です。今回の宿泊先は広島駅から南に向かって海沿いのグランドプリンス広島に宿泊しました。今回もネットで広島と温泉で検索すると市内に近い宮島など有名どころが出てきますが以前に宿泊したことがあるのでその他の場所を探してもなかなかこれぞという宿がみつかりません。そこで行き着いたのがこのホテルでした。最近の温泉ブームもしくは源泉でなくても大浴場を好む人種が増えてきているニーズに答えるべく地下深く掘って源泉を汲み上げているようです。一応れっきとした温泉ホテルになります。今回も両親や弟家族も一緒に夜を過ごすことになりました。末っ子が大和ミュジーアムに行きたいとかねてから言っていましたので、まずはその見学をしました。昔はパイロット希望でしたが視力が悪く諦めた末っ子ですが、次は自衛隊に興味をもって先日は書店で防衛白書を小遣いで買っていました。自宅でも機関銃を右手に左手にはスターウォーズの刀を持ってエイヤアとやっている性格です。戦艦大和の前で目を食い入るようにして見ていました。やはり何でも興味を持つということはいいことです。将来は空軍を諦めて海軍志望なのでしょうか?今春からの寮生活で将来なりたい職業はいろいろと変わっていくことでしょう。見学を終えてからは車でものの1時間でホテルに到着してチェックインです。

チェックインして部屋に入ると窓の外には広島湾が見えます。遠くには宮島も見えています。市内からすぐの場所で海の見えるホテルというのもなかなか格別です。人類の祖先が海から陸に上がってきたようにその末裔も海を眺めて波の音を聴くと心が和むのはやはり何万年という時を超えてもその受け継がれてきたDNAは変わっていないのでしょう。その波の音を聴きながら露天風呂から海を眺めるというのはある意味贅沢な都会でのひとときと言っても過言ではありません。それも家族で会話を楽しむ時間を持てることは今を生きる至福の時かもしれません。今までは皆がずっと一緒にいたのが当然だからそのありがたさも全然わかりませんでした。離れてみて初めてわかるそのありがたみ。そして時計の針は戻したくても元には戻りません。これから先に進む針はどこを指していくのかはわかりませんが、確実にわかっていること、それは時間とともに家族は離れ離れになっていくこと。そしてまた新しい家族ができてそこで一緒に時間を過ごす幸せなひとときが来るであろうこと。しかしそのひとときは人生の時間軸からすれば短くその一瞬の幸せな時を当人たちは気づかないこと。そしてそれを失って初めてその時の重大さに気づくこと。なんとなくそのことに気付いている人は今という一瞬をとても大切にするはずです。

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末っ子の入寮

2月初旬に佐賀の中学入学説明会に行って同時に入寮説明会も聞いてきました。その時に入寮にあたってというしおりをいただいてきました。そして先週の月曜日が入寮式でその翌日が入学式でした。ウィークデイですので私は勿論行っていません。しかし学校説明会の時の話と学校生活のしおりを読むとこの学校の子供への教育方針を垣間見ることができます。そしてなんといっても寮生活の利点は集団生活です。スマホ世代のひ弱な13歳の多くはそのような集団生活を嫌がります。その意味ではうちの末っ子は自衛隊に入隊したいというような性格ですので寮生活にはもってこいです。6年後にはこの寮生活が必ずや子供を大きく成長させてくれるはずです。

しおりの中での1日が始まるとまるで自分自身が中学生に戻ったような気分で頭の中での1日がスタートします。起床時間は決まっていて眠い目をこすりながら整列して点呼を取りラジオ体操をして朝食をとり学校へ。通学時間は校内に寮がありますのでものの3分で下駄箱に到着です。やはり長男、長女の2人は電車通学でしたのでそれと比較すればはるかに睡眠時間や勉強時間などすべてにおいて有効に時間を活用できます。夕方、クラブ活動を終えて一目散に帰寮して入浴と夕食を済ませるとその後からおよそ3時間程度の義務学習が始まります。学校の宿題や予習復習にあてるのでしょう。しかしまだ勉強癖がしっかりついてない子供たちです。寮の監督の先生に注意を受けたりしながら少しずつ慣れていくはずです。これが自宅ならスマホ片手にテレビを見ていることがどうしても想像されてなりません。高校生まではスマホ全面禁止論者である私にはそれが一番の寮の魅力と言っても過言ではありません。寮ですからケータイも勿論禁止でipodなどの画面付き端末も禁止で唯一可能なのはCDプレーヤーのような音楽機器のみで、建前は英語のリスニングをするためだそうです。テレビは寮のリビングにありますが、義務学習がありますのでテレビを見入るような時間はなかなかとれないのが現実です。食事なども集団ですから好き嫌いがあっても食べなければなりませんが、そこは現代っ子でお菓子やカップ麺で空腹を癒すのでしょう。これは現在の長男の広島での寮生活と全く同じでしょう。

土曜日も私立の学校は我々の時代と同じ半ドンで週休2日ではありません。土曜の午後と日曜の午後が寮の中で友人と遊んだりできる唯一息抜きができる時間なのですが、最近の現代っ子は親離れできずに週末になると帰省する子も多いようです。しかしうちの長男は広島という近距離ですが帰ってきません。親としては交通費を節約できるという利点はあります。末っ子も距離は遠いし性格から帰省するとは思えませんが、まだ13歳でホームシックになれば帰ってくるのかもしれません。入寮説明会で死語となったテレカをたくさん持たせた方がよいと聞きましたので探し回って持たせました。どんな状況になるかは予測がつきませんが、このように私自身が寮生になったつもりで固い頭でシミュレートして不測の事態に備えるつもりですが、取り越し苦労に終わってほしいものです。

つい先日まで末っ子が通った小学校の桜並木が旅立ちの日には満開になりました

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それぞれの旅立ちと250回記念

今回偶然にも250回記念と旅立ちが重なりこれも何かの運命を感じます。私のこのブログの目標が1000回つまり1000週間の間1週の休みもなく毎週月曜にブログを更新するという自分にとってはとてつもないまだ15年先までの計画の4分の1まで達成できたことにquarter分ほど満足しています。最初の頃は毎回1200字の原稿用紙3枚分の内容を何度も書いては修正しては書き直す行為を繰り返していましたが、いつの間にか書くことに慣れたのか?あまり苦も無く書けるようになりました。そして思うことがあったら3-4個のお題を一気に書き上げることもよくあります。まずは書くだけ書きなぐってあとは数週間ほったらかしです。そのうちに頭の中で整理されていくのでしょうか?何回か推敲するうちに自分の思いや主張や冗談などがうまく織り交ぜていけるのです。そして私が生きてきて将来子供たちへ送るこの未来の日記が完成していくわけです。その今回の250回記念版ですが、それがちょうどこの旅立ちと偶然にも重なったのです。昨日、長女が横浜の大学女子寮、そして末っ子が本日佐賀の中学寮へそれぞれの夢と思いを抱いて出発していきました。また長男も住み慣れた広島の高校寮に本日戻っていきました。横浜、広島、佐賀と場所は違いますが、それぞれ大高中学校の寮です。詳細はまたおいおい書いていこうと思っていますが、それぞれの旅立ちとそして自分へのこれからの叱咤激励も含めてはなむけの言葉を贈らなければなりません。

まずは諭吉さんがどんどん自らの羽で羽ばたいていきます。しかしそれ以上に3つの都市を行き来して今までに踏み入れたことない未開の地に私も足を踏み入れていきます。再々行く事はできませんが、仕事で学会に参加したり出張で行ったりするのとはわけが違います。笑いあり、怒りあり、涙ありの人生を旅することになるでしょう。少しずつ大人への階段を登っていく我が子の後ろ姿をいつの間にか下から見上げている自分がいます。最初は一緒に人生の階段を夫婦それぞれの片手を繋いでよちよち歩きで登っていた子供たちがいつの間にか自分の脚力だけで登り始めます。それを客観的に上の方から眺めていた私がいました。どんどん自力で登り始めた子供たちはいつの間にか私を追い越して彼らを下の方から見上げる日がやがてきます。それがいつの日かはわかりませんが、1000回記念日までにはこのブログにその内容を書き込む日が必ずや来るはずです。以前にも書きましたが私は10年くらい前から石原10年日記をつけています。その10年の暦を眺めて何年後に子供たちの学校入学や卒業などの予定を書き込んでいます。すると本当に10年なんてあっという間にすぎていきます。しかし日記を10年間続けるつもりでも途中でその日記を束ねている糸がほどけてページがバラバラになって使いづらくなり買い換えるはめになってしまいます。私の取り扱いが悪いのか石原さんがそこまで続かないよと思っているのか?定かではありません。現在3冊目ですが、そろそろ4冊目の予定です。今度こそ10年分の同じ日の10個の思い思いの文章が並ぶ10年後のことを考えながらチャレンジです。

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