サンデーショック

「サンデーショック」この耳慣れない言葉をご存じでしょうか?関東地方で2月1日が日曜に当たる数年1回の出来事です。簡単に言えば閏年みたいなものです。関東では私立中学受験の解禁日が2月1日でおよそ2割近くの小学6年生が中学受験をすると言われています。それだけ都会は中学受験がヒートアップしているのです。受験に関わりのない方には無意味な出来事ですが、受験最上位校を目指す女子6年生には大きなチャンスが訪れるわけです。それは女子のミッション系の私立中学は解禁日の2月1日が日曜だと受験日が2日にずれてしまいます。この2月1日から3日までの間にほとんどの有名私立中学校が受験日を毎年変えずに行っていますが、この日曜に限ってだけ数年に1回受験日が1日から2日にずれて受験勢力図が大きく変わるのです。関係ない方には「なんのこっちゃ?」でしょうが、都会の私立中学受験のために3年以上も必死でがんばってきた子供たちにとっては大きなチャンスでもありまた競争もその年に限って更に激化するわけです。

私は現在関東地方に在住ではありませんが、昔東京に住んでいたことがあります。都会ではいろいろな文化、芸能などありとあらゆるものがあふれています。勿論、物価や地価も高いのですが、一旗揚げるにはもってこいの土地柄です。そこに生まれ育った子供たちはある意味いろいろなチャンスに恵まれていて幸せだと思うのです。本人の努力なくして幸運の女神は微笑みかけませんが。それでは田舎の子供たちは不幸か?というと決してそんなことはない。田舎には都会以上に素晴らしいものがたくさんあります。都会と田舎を比較して物を言うこと自体ナンセンスだと思います。しかし田舎者が都会に6年間住んでみて都会に残ろうか田舎に戻ろうかと当時は悩みました。しかしこの歳になって初めて当時田舎に帰ることを決断してよかったと思っています。だって都会と田舎の良い面と悪い面を両方知ることができたからです。やはり両方知らないと都会の景気はよいが田舎は悪いなどと簡単に批判はできないと思うのです。TOKYO2020をにらんで現在はバブリー東京ですが、それもいい面と悪い面の表裏一体です。都会に生まれて早くからお受験戦争に巻き込まれること自体、個人的には全然悪いとは思いません。なぜならその時のその人間としての努力があるからです。一方田舎でも数年後には受験戦争とは言いすぎですが、必ず高校受験などの戦場も待っています。だから早かれ遅かれ田舎でも都会でも必ず勝負事が待っているわけです。「人間は若いときの苦労は買ってでもせよ」と昔からよく言われますが、その通りだと思います。高校球児が甲子園目指して一心不乱に野球にうちこむことだってとても素敵です。若者が夢に向かってがんばっている姿は何を目指していても素晴らしいことです。夢を持つこと、それは老若男女問わず大切なことですが、今回のお受験戦争のサンデーショックで皆が皆幸運を掴むことはできません。負けても今までやってきたことの否定では決してありません。そのような思いを馳せながら我が子供一人一人を見ながら毎年考えるのです。この子は田舎型がよいのか?それとも都会型がよいのかを。

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スマホのあったかい話とメェ~(迷)惑な話

今年の干支は羊です。私は羊年生まれではなく辰年生まれですが、新春の業界新年特別寄稿の依頼があり羊の毛のあったかい話題と鳴き声のメェ~(迷)惑な話がお題でした。それで過去のブログの中で今回のお題に関係のある話題を探してそのブログを改変して編集しましたのでそれを今回は掲載します。手抜きと思われるかもしれませんが、改変で新たな話題も満載しましたのでこうご期待を。ただし2000字程度での依頼でいつもよりは長編ですが、最後まで読んでみてください。それでは始まり始まり。

私はいまだにガラケーを使用しています。スマホやアイフォンに乗り換えようと思ったことはありますが、なかなか踏み切れません。またガラケーという言葉の由来もつい先日まで知りませんでした。勝手にガラガラポンのケータイくらいにしか思ってなかったのです。皆さんご存じだと思いますが、もしかして知らない方もいらっしゃるかもしれませんので補足説明しておきます。ガラケーとはガラパゴスケータイからの由来だそうです。ケータイという機能が日本独自に進化していったもの、つまり世界標準から孤立した状態であたかもガラパゴス島の動物が海を越えて他の外来種と交わらずに独自の進化を遂げたものという意味だそうです。その意味からすると私の今回の話はガラケーであり、さらに個人的には通話とメール機能しか必要のない古代のシーラカンス型ガラケーから最近のガラスマに至るまでのあったかくもあり迷惑な話ということになります。

以前、小学校でスマホの利用による青少年へのトラブルについての講演がありました。世の中がケータイからスマホに変わりつつ、小学生でもスマホを持っている時代です。我が子には高校生から長女にケータイを持たせましたが、それも通話機能とメール機能のみしか使用させていませんでした。しかしその長女のケータイのメールにさえも詐欺まがいの最終督促状なるわけのわからないメールが届きました。以前の詐欺まがいのメールは100万円払えだのいかにも詐欺とわかる文面でした。しかし長女へのメールは最終督促状という脅し文句は健在ですが、その他の文面は本当にマイルドに書かれて連絡先担当者の名字までご丁寧に書いてありました。さすがに娘も自信なく私に見せに来ましたが、私も購入したドコモの店に持って行き、その担当者からよくある迷惑メールでしょうと言われて納得した次第です。それくらい巧妙化している現代のネット事情です。子供たちが怪しい罠にかかることも稀ではないと痛感しました。ちょー迷惑な話です。

その講演では小学生がスマホでラインを使っていろいろなトラブルに巻き込まれるお話でした。といっても自分がスマホを持っているでもなく、ラインとはどんなものかも詳しく知りません。まずはそこからわかりやすく説明していただきました。その話を聞いていくうちに「うちの子に限って」という常套文句はあり得ないと思いました。スマホを持たせてないだけで普通のパソコンからでもフェイスブックのようなラインができるのは当たり前と言えば当たり前のことで、聞けば聞くほど心配になってきます。子供を信用していることには違いありませんが、なにせ巧妙な罠です。大人でも騙されてしまう可能性が大ですので子供なら尚更でしょう。同じような思いの親が会場に多くいました。講演を聞いて社会にネットというとてつもなく大きな現代病が蔓延していることを再認識させられました。ほんとにちょー迷惑な話です。

以前テレビの討論番組でスマホは18歳までは法律で禁止すればいいという評論家の意見がありました。それも極論ですが、私も賛成です。一方、業者からすれば禁止したってパソコンがあれば一緒でしょという意見も聞こえてきそうですが、それでも孫さんや三木谷さんなどこれからの日本を引っぱっていくIT関係のリーダーの方々のご英断を期待したいと思います。いつも思っていることですが、世の中に便利なものは人の役に立つことも多いのですが、それを悪用する人々が存在します。特に法律には触れないスレスレのグレーゾーンに彼らはいます。つまりそのグレーな存在がある限り、この世の中は欧米式の性悪説から入っていかなければなりません。武士道である性善説はもう日本には存在しないということでしょうか?それも悲しい限りです。

かつて3.11の時の大災害ではスマホのあの悪名高きイジメの温床となるラインで生存者確認ができたというあったかいお話もたくさん聞いています。ですからラインが一方的に悪いとは思いませんが、一方でまちがいなくラインイジメで自殺に追い込まれた子供もいるのも事実です。ケータイも使い方によってはもろ刃の剣とよく言われますが全くその通りだと思います。だからこそ個人的にはシーラカンス型ガラケーがいいと信じています。日本人が外国人から羨まれるほどの武士道の美徳を3.11に世界中に発信しました。それは悲しい歴史的事実ですが、その模範的行動は我々日本人の誇りでもあるわけです。しかしその誇りを埃でまみれないようにするために、ガラスマのアプリで子供たちが不幸の転機をたどらないようにするために、その正しい使用について国民が皆で今一度考えていく岐路にたたされているのではないでしょうか。私はこれからも行けるところまでシーラカンス型ガラケーで突き進んでいきたいと思っています。NTTドコモさん、シーラカンス型ガラケーをなくさないでくださいネ!

最後にニュージーランドの羊毛を刈っているフォトを掲載しておきます。

ニュージーランドの羊毛刈り

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久しぶりに5人揃って、長女に言いたかったこと

昨年末の大晦日のたったの3時間ですが家族5人が皆揃いました。長女の予備校が新年からの受験ラストスパートを迎えるにあたり午後の数時間だけ昼食を食べたりできるリラックスタイムを設けてくれたのです。勿論今までにも三者面談などに行っていますが、子供を連れて行くわけにもいきませんでした。しかし今回は激励の意味も込めて皆で行ったわけです。自分では浪人生活は体験していませんのであまりわかりませんが、少なくとも家族の中では一番充実した1年を送っているはずです。

以前にも書きましたが、何事でも目標に向かって一心不乱でがんばる姿はとても素晴らしいことだと思っています。たとえそれが成功せずともと言いたいところですが、さすがに受験ですから失敗すれば再度浪人して目標を目指すかそれとも目標を修正して妥協の人生を歩むかです。どちらも正しい選択肢ですが、受験生本人にとってみれば後者は敗北で現時点ではあり得ない選択です。しかし何十年と過ぎて私たちのようにこれから死ぬまでに正月の来るであろう数が後ろから数える方が早いと思うようになったときに初めて、たとえ後者を選択してもその残りの人生が半世紀もあれば前者の選択よりも更に素晴らしい人生に変えることができるかもしれないと後になって思えるようになるのです。ただ皆その時は絶望の淵に立たされてそんなことは思えないし、その後もその悪夢を引きずって生きていく人も多いわけです。しかしそこで「なにくそ、負けられるか」と思えば人生もまた開けてくるのではないかなあ。だからこそ一生懸命やってその結果が報われるに越したことはないけれど、仮に報われなくて後者であってもそれも選択肢なのだということを彼女に話しました。それはそれなりに家計にも余裕があるから言えることで贅沢な我がままと批判されるかもしれません。しかし前者が本当に成功者かどうかは残りの人生が短くなった私でさえもわかりません。周囲から見れば成功者と思われていようとも、自分の中では常にいや何かが違うと思いながら生きてきました。何が違うのかはわかりませんし、今までの自分の頑張った人生を否定するのでもありません。むしろ前者を選択して頑張ってそれなりの結果を出した自分を褒めたいくらいです。しかし何かが違うとこの歳になって思うわけです。なんとなく50年も生きているとわかってくることもあります。それは決められたレールに乗って走ってきたこと、そして分岐点でもあらかじめ予測してどちらがベターかを判断してきたこと、今までの人生が自分の予想通りに段取りよく安定走行して来たこと、それが逆に自分の中で過去の分岐点で反対に行った方が困難かもしれないけど今とは別の人生があったのではないかと思うわけです。それが結果として正解かどうかは別として。だからこそ長女には前者が成功で後者が敗北ではなく、どちらを選択してもそれは神様が与えてくれたチャンスだと言いました。この歳になってもずっと夢は持ち続けたいし、仮にもう一度人生をやり直せるなら小学高学年の中学受験までリセットして今と全く違った人生を生きてみたいなと思うのです。

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今になって振り返る勉強の楽しさ

今年の正月はゆっくりとしました。ゆっくりと言うと聞こえはいいのですが、結局は何も予定をいれなかったということが正確な答えです。本当なら昨年と同じようにダイビング一人旅も計画していたのですが、諸事情で計画は断念となり空白の1週間を家で過ごしました。このような1週間は学生時代の長期休暇以来ありませんでした。勿論、勤務医をしていた頃は夏休みで1週間もらって海外旅行に出かけたことはありましたが、家に閉じこもっての1週間は未体験です。

以前から子供が使用していた中学受験のテキストを自分でやって実感したいと思っていました。理科の場合、大人でも知らないことばかりでとてもワクワクした体験が得られました。昔、自分が小学生の頃の理科といえば面白いとは到底思えませんでした。しかし半世紀経過してその内容を振り返ってみると世の中の現象そのものを題材にしている理科は世の中を曲りになりにも50年生きてきたからでしょうか、とても面白く感じるのです。やはり周囲を見渡せるような年齢になったからそのような日常のしくみについても理科的な発想でみればまた新鮮に映るものです。また算数はとてつもなく難しいという一言に尽きます。しかし方程式などを使用せずに算数の本質を突くような問題があり我々大人でもしょうしょう勉強してもなかなか歯が立ちません。こんな難しい問題を塾にいって都会の子供たちは夜遅くまで解いているのかと思えば、中学受験では義務教育の小学生が習う範囲の問題だけを解いていても合格を勝ち得るには2万%あり得ないでしょう。このフレーズどこの誰かが言っていましたよね。それでもその難問を解いて有名私立中学に合格する子供たちが存在するわけです。そこで自分もかつては数学が得意だったので(あくまでも過去形です)、例題を解いて問題に挑戦してみました。最初は戸惑うことばかりでしたが、少しずつ要領を得ると何とか解くこともできるようになってきました。そして問題が解けるようになると更にまた面白くなってきます。また長男が中学と高校英語の文法を忘れているということでその復習も兼ねて英文法の本をめくり返しました。英語はNHKのネット学習もしていたので大体は理解できて家庭教師程度のことはできました。

勉強を強制的にやらされて入学試験をパスするだけの手段としての自分のかつての勉強はその面白さなんて全然なく苦痛そのものでした。しかし今になって振り返って自分でやりたいと思ってする勉強は本当に自分のためになることばかりでとても楽しく感じられました。ただ頭がかなり老化していることは間違いなく、昔ならこれくらい暗算でちょちょいのちょいとできる計算が頭の中でこんがらがって電卓を使用しなければできないというのは本当に寂しい限りです。人間は一生勉強しなければならないとよく言われますが、全くその通りでその努力の継続こそが残りの人生を生きていく上で大切な事を見つけることができるのではないかと思っています。今回の空白の1週間で新たに自分のこれからのきっかけを見つけることができた貴重な時間を過ごすことができました。

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川の流れに身を任せ、今年もよろしくお願いします

さてと、今年はどんな年にしようかな?と年の初めにふと考えています。昔は年初の抱負を決めて宿題だから仕方なしに書初めを書きました。他人からやれと言われてやることほど無意味なものはありません。こんなことは自分がやりたいと夢見ることを決めるのだから本当ならワクワクしながら決めるはずです。最近は年末になると喪中葉書が多く届きます。やはり自分たちの世代の両親は皆80歳を超えています。順番と言えばその通りですがその決まった道を歩んでいくのもなかなかつらいものです。年賀状もほとんどが「元気で生きてるよ」というメッセージを込めて印刷された画一的な葉書が目立ちます。そういう自分の年賀状も師走の忙しさにかまけて印刷ものです。PCの普及で世の中は便利になりましたが、画一的なステレオタイプのデジタル人間を増やしてしまいました。

今年やりたいことは?とあらたまって考えますが、今やっていることの継続ですので新たに何かチャレンジしてみようというものは思いつきません。自分の性格は自分が一番の理解者ですので本当にチャレンジしたいことがみつかればすぐにでもとりかかるのでみつからずに現状の継続をしている自分の方が付き合っていくには楽な自分であるとよくわかっています。昔から「継続は力なり」といいますが、私の座右の銘の言葉のひとつです。この格言は中国由来ではなく、住岡夜晃(すみおかやきょう・1893-1949・広島生まれ)という宗教家(浄土真宗の一派)の著作「讃嘆の詩 上巻 若人よ、一道にあれ」の一節に由来して、青年に対して牛のように象のように一道を生き抜き念願を貫くことが真の強さで青年よ、強くなれ!という意味だそうです。由来はどうであれ高校の時に確か河合塾の宣伝文句かなにかに書いてあったので大学受験合格の目標に向かって机の上に自分で書いてずっと貼って頑張ったのは古き良き思い出です。

昨年一番感じたこと、それは自分の苦しみ、つらさは自分で打ち勝っていけばどうにかなるものですが(これは以前から自分でわかっていたつもりでそのように生きてきたつもりです)、自分でない子供のことについての悩みなどは自分でどうにかできることならまだましなのですが、できずにただ見守ることしかできないときの自分の立ち位置がいかに難しいかを実感できる年でした。多分、周囲からすればたいしたことないことなのですが、それは自分が第三者から眺めたときに一番よくわかることで、その時の本人にとってはとてもたいしたことなのです。皆さんも、経験上理解できるはずです。

そこで再び本題です。今年はどんな年にしようか?という自分への投げかけに対してある一節「川の流れに身を任せて」を引用して今年の激流を下って行こうと思います。カヌー競技では一人黙々とオールを漕いで、流れに乗ってスピードを出すときもあれば、コーナーを周るために反転して流れに逆らって漕ぐこともあります。人生も山に降った一滴の雨が最後は大河となり大きな海原へと向かっていくその一コマです。その流れの中で漕ぎ手がどのように感じたかは今年の年末にまたお話しましょう。

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