年末の大掃除の苦手な自分の来年への想い

今年も残すところ3日です。毎年この時期になると普通は年末の大掃除ですが、あまり掃除が好きでない私はついついほったらかしです。学生時代の1人暮らしのときは掃除が苦手で新聞や雑誌そしてコーヒーの空き缶などで足の踏み場もない状況によく陥っていました。たまに母親が上京してくれると掃除や洗濯などをしてくれたので非常にありがたく思っていました。自分として外面は気にするのですが外見は全く気にしない性分です。それがそのまま今に続いています。ただ医師というのは職業柄でしょうか?今までたくさんの医師の机を見てきましたが、誰一人として机がきれいに整理整頓されている人はいませんでした。これは偏見かもしれませんが、私の知る限りにおいては真実です。大体、勤務医の頃は仮に机の上をきれいにしておいても2-3日で薬のパンフレットの山です。その中のボールペンやメモ帳などだけぬきとって残りはゴミ箱へ直行というコースがほとんどでした。そのような環境で生きてきたわけですから今も同じ状況です。昔から片付け上手は何をしてもそつがないと言われていましたし、片付け上手になる手引き本が最近のベストセラーにもなっていました。そんな親を見てきたからでしょうか?子供も片付け上手ではありません。私と似たりよったりで机の上はもしかしたら自分よりも片付いていないかもしれません。そんな状況ですから、毎年この時期になると片付け上手な?かみさんから文句が出ます。その声を聞くと「あー、師走も終わりに近づいた」と実感するわけです。

父親が片付け不器用ですと子供にも遺伝するのでしょうか?子供たちの机の上やその他の場所もやはり遺伝学的に散らかし放題。本当ならその遺伝子を変換したいところですがそれもままなりません。だったら親がでしゃばって子供たちの机の上を片付けたいのはやまやまなのですが、それは教育上悪くつけあがるかもしれません。それともう一つの理由こちらが本心かもしれませんが、片付けずにそのままそっとしておきたいなと思うところもあります。積まれた本が少しずれて今にも崩れそうだけれども崩れない微妙にバランスがとれた状態なのですが、そのバランスを自らの手で直そうとすると余計に崩れてしまいそうで、崩れるとなんとなく子供たちを送り出して見守っている自分たちの方が一気に気持ちが崩れそうになるわけです。だから埃をうっすらかぶっていてもそのままの状態で待っているのです。主が元気に帰ってきて自分でその机の山を崩して整理整頓してくれるまで机の上で本たちはじっと耐えているのかもしれません。そんな気持ちがこの1年ずっと続いていますし、来年も続くかもしれません。いろいろな結果が出揃うまでは黙って見守るしかないのです。来年のことを心配しても鬼が笑いそうですが、自分の事で悩むよりも子供の事で悩む方がよっぽどしんどいなと思う1年でした。「若いうちは親の心子知らず」と言いますが、「歳とれば子供の心親知らず」なのかもしれません。そんなことばっかり考える1年でもありました。しかしこのしんどさを経験することにより少しでも親として成長させてもらったのかもしれません。

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衆議院選挙が終わって

いろいろと批判もあった今回の衆議院選挙。今回は自民党の予想通り与党の圧勝という形で終わりました。ある程度予想されていたこととはいえ、ルールにのっとって大義名分を掲げて700億円を使ったわけですから、全然法律違反でも何でもない。むしろ用意周到に準備した作戦勝ちといったところでしょうか。今回の結果は仕方ないにしてもやはりもう一つの自民党に対抗する対立軸がやはりできない。これが最大の敗因だと思います。ではどうしたらよいか?ゆっくりとあと20年かけて子供が成長するのを気長に待つように野党再編に期待をするしかないのでしょう。その前に今度こそ次回の衆議院選挙の前に身を切る改革である衆議院議員の定数削減は実行されることと思います。さすがに限りなく違憲に近い状態をこのまま4年間放置してはいけないと思います。

今回の与党の争点はアベノミクスの継続か?そして消費税10%アップの延期に賛成か反対かでした。しかしこの争点は消費税アップに関してはどこも皆反対で争点には成り得ませんでした。またそれなりの株価上昇と円安(過大な円安はよくありませんが)と大企業の輸出関連がそれなりに好調(細かく言えば海外移転などで思ったほど伸びてない)なのでこれにレッドカードを突きつけた方は少なかったのが、今回の大勝の理由だと思います。それなりの及第点を取りながら敵失(野党の準備不足の不意打ち解散と野党それぞれが勝手なことを言うのを見透かしたように選挙協力でまとまりきれなかった)での過半数ならまだマシで2/3以上の数の力で何でもひっくり返せる状況になったのはちょっとあまりにも野党が情けないです。もうちょっと緊張感ある国会にしてほしかったのにと思っています。しかしそれが現在の日本の民意と言うことでしょう。

これからの日本というよりまず目先の来年の日本をどうしなければないかという喫緊の課題が山積しています。社会保障、景気、大震災復興、原発、拉致、在日米軍基地問題などいつも決まっています。結局のところこれらの政治問題は相手があることで解決へのスピード感なんて亀の歩く速さよりも遅く進んでいないように思います。まあ、日露・日中韓・日朝関係など相手の我がままをじっと聞き続ければ何年経過しても解決できないのではないかという気もしないではありません。今までの日本の外交は相手の言いなりで日本の素晴らしい伝統的文化「まあ、まあ」の世界や主張しなくても相手がそれなりにわかってくれる「阿吽の呼吸」外交でした。そろそろ日本も大人的外交するために日本的外交を卒業しなければいけないと思っているのは私だけでしょうか?外務省や財務省など国家公務員1種のエリートの方々は東大や京大など遥かに我々よりも能力的(脳力的)に賢いのですからもっと日本のために頭をフル回転させてほしいものです。そして何よりも大切なこと、それは国民一人一人がこの日本という国を愛して、どうすればブータンのように、物欲を否定するのではありませんが、精神的な幸せを感じる国にすることができるかということを真面目に考えてその気持ちを今後の選挙に反映させていくことだと思っています。

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不満と後悔は違う

この世の中には不満と後悔が渦巻いています。歳をとってから言い出すことは後悔の方が多いようです。不満はどちらかといえば若かった頃の方が比較的多かったのではないでしょうか。どちらも割合ですので0対100ということではありません。若い時の不満でも年代によって異なります。大雑把にいって未成年の不満。これにはまだ両親の監督下にあって服従しなければいけない不満や義務教育でやらなければいけないことに対する不満。この不満は誰もが避けては通れない不満でしょう。中高校生くらいになると自我の芽生えで社会に対する不満が出てきます。しかしこのあたりは反抗期も含めて個人差が大きくて不満自体がない人もいるかもしれません。個人的にはあまり反抗期がなかった分、今が反抗期かもしれません。そのため現在の子供の反抗期を実体験しても過去の自分と照らし合わせることができず子供の気持ちを理解するのに苦労しています。まあこれも一つのいい経験だと思っています。今では死語になった大学紛争という不満が昭和40年代に社会に渦巻いていましたが今は跡形もありません。そのためか?社会に出てから若者は不満を抱き始めます。社会人の不満は一人前の大人が上司や会社への不満や自らの置かれた環境や家庭への不満でしょうか。人生で一番不満が多く不満の花盛りといったところでしょう。

しかしここで注意!そろそろ後悔の足音が聞こえてきませんでしたか?そうなのです。冷静に人生を分析してみるとどうもこのあたりから、個人的には大嫌いな後悔が頭をもたげてきました。後悔、それを自己分析していくと、不満は自分のやり方次第では前向きに進める可能性を秘めたものですが、後悔は後ろを向いて「あの時にああすればよかったのに」というような過去の出来事で決して二度と戻ることができない領域に存在します。後悔というのはいつまでたっても後悔です。タイムマシンでもない限り死ぬまで続きます。だからどこかで諦めるとか妥協するという自己完結をしなければなりませんが、それでも傷痕は一生残るわけです。そして現在の私の年齢に到達して人生の3分の2を過ぎる頃からは不満も多少ありますが、後悔が大部分を占めてくるわけです。今頃になって「後悔先に立たず」という諺が身に沁みます。もちろん同年代でも「こいつ、何考えてんの?」と不満ばっかりの人もいますが、不満それ自体を持つことは悪いことではなくて、いかに対処するかが鍵だと思います。内容には触れません。思うようにならない不満はその時は非常に腹が立つことなのですが、自分で舵を切って航路を変えればいいのです。しかしそれをしない人々が世の中にたくさん存在して不満が渦巻き将来に後悔に変わっていくのですが。

不満と後悔は表裏一体だと最近思っています。自分自身は後悔しないように不満を解消していますが、避けようのない不満もあります。しかしそれでも後悔しないように努力していきます。不満をもつこと、それはまだその人間の伸び代が残っている証拠かもしれません。そしてその不満が後悔に変わった時、それは永遠に後悔として残るのです。だからこそ残り3分の1を後悔に変えないように精進していきたいと思っています。

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今年も残りあともう少し

朝の冷え込みがきつくなってきまして、周囲を見渡すと木々は紅葉も落葉して枝だけになっています。朝ふとんから抜け出すのが億劫になるのが真冬の季節の始まりといっていいかもしれません。そして残り1か月をきろうかとする今日この頃、巷では忘年会が盛んになります。昔は忘年会をひとつのイベントとして楽しんでいましたが、この7-8年はあまり参加していません。飲んで笑って年を忘れるという行為も決して悪くはないと思っていますが、自分の考え方が変わったのでしょうか?今は毎日を平凡に過ごして毎日を同じペースで過ごす方が自分に合っていると思うようになりました。飲んで騒いで翌日は少し二日酔いという生活は勤務医の頃はよくありましたが、自分が経営者側にまわると明日の事を考えたら「早く寝よっと」と言う考えが優先されてしまいます。勿論それは歳をとったせいなのかもしれません。いずれにせよ、現在の優先順位では忘年会は自分の中ではずっと後方にしかないのです。毎日同じペースで同じことをしてその繰り返しの日々。以前の自分ならもう退屈で退屈でしょうがなかったと思います。しかし今はその同じ空間の中に身を置く方が楽なわけです。ではなぜそのような気持ちに変化したのだろうか?と考えると多分、個人で考えて楽しんだりする作業の方が外部の他者に対してすり合わせていくよりも楽なのかもしれません。頭の中だけで自分の楽しみをみつけて最小限度に外に対して行動をするというそんな行為が今の自分に最適のようです。また夢に日付を記したマイ手帳を眺め始めてから自分の中でもう一人の自分と対話できるようになったのも事実です。

今年はいろいろと考えることがたくさんありました。考えても自分の力ではどうしようもできないこと、それでもどうにかしようともがき苦しみます。結局は「なるようになるさ」が唯一無比の答えなのですが。人間は煩悩があるから少しでもそこから逃げ出したいとか打ち勝ちたいと思うのでしょう。特に子供のことに関しては親になって初めてわかることが今年はたくさんありました。自分の将来は自分自身が決めることです。そんな当たり前の事は誰でも知っていますが、多分それは知っているつもりなのです。本当にその大きな壁にぶち当たると真理さえ白か黒かわからなくなってしまいます。その時初めて自分が今まではわかっていたつもりだけで、決して心底理解していなかった自分に気づいて慌てふためいてしまいます。そして何も考えてこなかった自分が腹立たしくなるのです。子供からすれば「何言ってんの?」くらいにしか思わなかった有難迷惑な話なのかもしれませんが、親になって初めてわかるこの気持ち、皆さんも経験したことがあるでしょう。とても抽象的な話になりましたが、今年1年振り返ってみたら本当にいろいろ思い巡ることが多く、それも自分の力では手の届かない所にありました。そしてその届かない場所を眺めながら一人もがいていろいろと考えた1年でした。来年もこのラビリンスがまだまだ続きそうですが、前を向いてぶれないで歩んでいくだけです。

真赤なやまほうしが12月になり一気に落葉して新たな春への出発の準備が始まります。

椎木内科循環器科

やまほうし

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仕事は充実感か?楽しみの延長か?

昨年、プロ野球ヤクルトの宮本選手が引退されました。私はヤクルトフアンでも個人的に宮本選手をひいきに思ったこともありません。その引退会見で社会人からヤクルト一筋で入団時に当時の野村監督に「名わき役になれ」と言われ「まさしく自分に与えられた使命だと思ってやってきた」と言われていました。また「野球は好きだが、プロになった瞬間から今まで一度も楽しいと思ってやったことはない」とも発言されていました。言いえて妙です。この記者会見を昨年テレビで見ましたが、宮本選手の人生観を少し垣間見たような一瞬でした。勿論、結果も残されています。2000本安打を達成して尚且つ犠打(送りバントなど)を400本以上打って、更に守備の栄誉ともいうべきゴールデングラブ賞も10回以上受賞されています。もしプロの世界で結果を残さなければ華々しい引退会見すらできませんから。

ビジネス本を読むと「仕事を楽しむことがコツ」とか「遊びの延長が仕事ならば最高の幸せ」などと書かれています。以前、読んだときには「そんなものかなあ・・?」と理解したようでもしっくりきませんでした。またこのさらさら日記の開始にあったての2011.7.31の第2号でも仕事とはという題目で書いています。そのときは「社会に貢献して人間らしく生活をするために必要なお金を得ること」とか「赤の他人を喜ばせてそれを自分の喜びにして人生を多彩にすること」などという当時の自分の解答がありました。しかし時間が経過すれば自ずと考え方も変化していくのは当然です。今の自分に当時の正解?をつきつけられてもやっぱり今の自分は否定しませんが、肯定できない自分も存在しています。そしてこのような疑問をいつも考えているのではなくて、突如頭の中に現れてきて自分に問いかけてくるのです。「本当にそれって正しいの?」ともう一人の自分が囁くのです。

今回の囁きのきっかけがこの宮本選手の一言だったのです。「プロになった瞬間から今まで一度も楽しいと思っことはない」の言葉が自分の中でひっかかっていたものがスルスルと解けていく瞬間でした。「そう、仕事を美化しなくてもいいのだ!やりたいことでも楽しんでやらなくてもいいのだ!楽しさと充実感は異なるのだ!」ということを。前回の解答から3年経過してまだまだ発展途上中の私ですが、自分の本当の正解はまだまだみつかりません。以前にも述べましたが、誰もが納得する正解なんてないのです。その時々の正しいと思ったことが正解なのです。そして10年、20年と過ぎて後ろを振り返ってみるとたくさんの当時の正解があり、結果として今の成長した自分があるのです。社会に貢献するという大義名分の仕事が大切なことにこれからも変わりはありません。しかしそれが「楽しいか楽しくないか」とか「充実しているかどうか」などは仕事を真剣に考えていればそれでよいのだと。最近の自分の中には「仕事一辺倒だと後でいろいろ後悔するよ。仕事以外の他のこともたくさんやって充実した人生を送った方がいいよ!」ともう一人の心の中の自分が現実の自分に囁いているように思えてならないのです。

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