久しぶりの人間ドック

先日7年ぶりに人間ドックに行ってきました。患者さんに人間ドックを勧める立場から言えば「するにこしたことはないし、するなら年1回は受けた方がいい」と説明する自分には耳が痛いものです。内部事情の暴露ではないのですが、医者って意外に健診は受けないことが多いのです。なぜか?忙しくて時間がない、面倒くさいなど多々の理由があると思いますが、医者って人には偉そうに専門用語を使うわりにめんめのことは(これは山口弁かなあ?自分のことをテメーのことってよく使いますよね、その使い方の親戚のようなものです)意外に無頓着なのです。勿論、ドックで早期癌がみつかって、患者さんに誇らしげに「やってよかったでしょ!」という場面ばかりではありません。末期で手遅れもたくさんみてきていますので、その場面を想像すると「知らない方がよかった」と思うことも多いのです。余命あと半年と宣告されれば抗がん剤の使用さえも躊躇して延命治療はしてほしくないという気持ちも幾分は持ち合わせています。これからの超高齢化社会の突入で延命治療については議論が大いにあることと思いますが、その話題はまた次回に。

さあ、本題のドックですが、以前も利用させていただいた本城クリニックで今回も受けました。なぜそこかといいますとPET(ポジトロン・エミッション・トモグラフィー;陽電子放射断層撮影)があるからです。PETを絶大なる神とは思っていませんが、お手軽に癌を発見できることには異論はないと思います。なにせ人の癌探しは専門でも自分の癌探しは素人と一緒です。神妙な気持ちで行ってきました。同時に上から下までのMRIやCTも受けて胃カメラも一緒です。やはりそこまで調べて見つかればラッキーと思いますが、見つからなければ「運が悪かった」と開き直るしかありません。今回も半年前からお盆休みの1日を利用して予約しました。

自分は専門でいえば循環器、ひらたく言えば心臓屋です。メタボをみつけて心臓や脳の病気予防するのが主な仕事です。心臓はあまり悪性腫瘍が多くないので今回の人間ドックも極論すればメタボ探しなんかどうでもよく癌探しが主体ですので、自分としては素人の患者さんがドックを受けて癌を探すのと同じ気持ちです。ただ違うことは「もし癌がみつかったらどうしよう。早期なら店を1-2週間閉めて徳山中央病院に入院かな?」とか「もし末期癌だったら手術はせずに医者をやめて残りの人生をおもいっきり太く短くに生きよう!」とかいろいろなことをドックの前から冷静に考えられることです。しかしその冷静な分析もドックの結果発表までのことで実際に結果がでたら素人同様にヘナヘナとなってしまうと思います。あたかも30年前に入試の合格発表で桜が散ったときの感覚と同じですが、あのときは共通一次が悪く桜が散ることはある程度予想できていたので、今回で言えば「もしかしたら癌があるかも。やっぱりあったか」という感じでしょうか。

今回の結果は速報で◎でした。正式結果はまだですが、いらぬモヤモヤ感が異常なしという結果を聞いてから霧が晴れるように夏の青い空にもどりました。まだまだ暑い夏です。

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自分のお宝は友達

誰にでも自分にとってのお宝がありますが、それが目に見えるもの、見えないものといろいろあります。今回は物質的なものではなく目に見えないお宝でかけがえのない友人について考えてみたいと思います。

昨年の中学校の同窓会で再会した友人。まず幼稚園、小学校、中学校と11年間ずっと一緒だったが、一度も同じクラスになったことがなくて生まれて初めて同窓会で喋ることができた同級生。小中学校と仲良くしていたが、高校が別々になりそれ以来30年間音信不通で再会した同級生。小中高校まで一緒でそれから音信不通になった同級生。一度は交流が途絶えたものの地元に住んでいてたまに市内でばったり会って「よー」と声をかけるようになった同級生。同窓会の企画を通じて仲良くなった同級生。同窓会で一緒に幹事をした中には、高校まで一緒でしたが、同窓会まで話したこともなかった同級生もいました。いろいろなきっかけでたくさんの友人が増えました。

でも面白いものですね。そんな同級生でも同じ接点をもった過去を共有しているとその接点から延長線が伸びてゆきます。そしてその時間軸は過去と未来の両方に向かって。しかし逆回転はしません。脳裏の中の記憶のみです。そして共有しているからこそ同窓会の日に一緒に当時の過去を覗くと当時は別々で話したこともない同級生がその同じ一瞬を覚えていて話題が合致したとき。「そうあの瞬間です!」過去の事実が現在まで蘇ってその話をしたことのない同級生とも一気に点から線を越えて面へと変わるのです。未来への延長線はもしかすると自ら消しゴムで消したり、自然に薄れてしまったり突然途切れるかもしれません。喩えれば線から点線になり更に点と点の間隔が開いてそして消えるような感じでしょうか。そのような跡形もなくなった線は目には見えないかもしれないけれど、将来何かのきっかけがあれば一気にその消えた時代から未来のその日まで直線で繋がってしまうのです。点と点を繋げば直線になります。別に直線でなくとも人と人とが接するという接点という点が2ヶ所あるだけでよいのです。途中は山あり、谷ありの曲がりくねった曲線でもかまいません。人生なんて直線で突っ走るよりもむしろでこぼこ道で紆余曲折している方が普通ですよね。自分が持っている多くの過去の接点がこの同窓会を通してもう一つの接点となり直線や曲線として結ぶことができました。これってお金や時間に換えることができないとても貴重なお宝です。またこれからも自分の未来に向かうどこかの接点で会うことができたら皆さん、私の人生の晴れ舞台に登場してくださいね!

昔は友達ってとても大切に思っていたけれども、成人して仕事をもち結婚して子供ができて、いろいろな人生を歩んでいくうちにいつの間にか切れてしまう友達。年賀状だけの関係になってしまった親友。過去と未来の両方が見え隠れし始めた人生50年を過ぎるあたりからまたこの素晴らしいお宝を紐解いて眺めて話していろいろなことを振り返って明日からの未来へと繋げていきたいと思い始めています。

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いつもと違った今年の夏祭りと花火

今年も地元での夏祭りがやってきました。毎年、この日を楽しみにしています。サンフェスタ新南陽(夏祭りの名前です)では、子供が小さかった頃は必ず3人を連れて夜店巡りをしていました。そしてまだお日様の高いうちから新南陽駅前通りの焼き鳥屋さんに連れて行きます。昔から一人でそこにはよく訪れているのですが、いつの間にか子供たちも連れて行くようになりました。昔ながらのカウンターで子供たちはジュースを飲みながら焼き鳥を頬張ります。ただ残念なことに今年は長男がホームステイで長女も受験生の夏の陣で夏期講習などのバタバタの夏休みのため末っ子と二人で夏祭り参加です。また昨年までは必ず皆で一緒に祭りのハイライトである花火を見ていました。以前は永源山公園のふもとまで行ってほぼ真下から真上に上がる花火を鑑賞していました。長女はよく広島の友人を泊りがけで招待していました。都会の子からみればこの田舎の夏祭りがローカル色豊かでとても気に入るのでしょう。喜んで帰っていきます。

自分が歳をとれば周囲も同じように歳をとるなんて当たり前の話ですが、家族揃ってという長い人生のうちの一瞬の歴史が幕を閉じようとしています。今まで当然と思っていたこと、傍にいて当たり前と思っていた相手がだんだんと成長して離れていく。これはある意味とても喜ばしいことなのですが、一方で一抹の寂しさをも伴います。あたかも毎年観ていた夏祭りの打ち上げ花火の大輪が夜空から静かに消えていくようにも見えます。夏は個人的には大好きな季節です。夏祭りのようないろいろなイベントがあって、またスキューバダイビングに行って子供たちと一緒に潜って、同じものを観て、一緒に笑って感動を分かち合う。日常で当たり前のことが当たり前に自分の前を通り過ぎていきます。この地を離れていた頃、8月の第一土曜日になると懐かしいサンフェスタを思い出していました。当然ながらそのためだけで帰郷することもできません。「失って初めてその素晴らしさや大切さを知る」とよく言われます。その通りなのですが、人は皆自分がその場に立って初めてその本当の意味を噛みしめます。

「今ここを歩いている人もそれぞれの人生があって、山もあれば谷もあるのだろうな」とか「この子供たちがあと10年もすれば大人になり一度はこの地を離れてもこの夏祭りを懐かしむのかな」なんていろいろなことについて生ビールを飲みながら通りの流れる人々をボーッと眺め考えます。そしてついつい飲み過ぎてしまいます。ほろ酔い加減で店を後にして夜の永源山の3000発の花火も自宅のベランダから今年は末っ子と鑑賞です。

まだまだ暑い日が続きます。夏の高校野球も始まり、お盆で田舎に帰省される方も多いと思いますが、今年の夏を満喫してください。来年も夏はやってきますが、今年の夏は今年限りです。私も個人的にですが、昨年大々的に中学校の同窓会を開催して旧友の輪が広がりましたので、今年のお盆も20人程度のプチ同窓会を開催する予定です。まだ1日1日を大切に生きようとまでは言えませんが、1年1年を大切にと思う年齢にはなってきました。

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水中散歩

毎年梅雨明けから10月中旬までの間、スキューバダイビングをします。ダイビングライセンスを取得してから早20年になりますが、なかなか仕事が忙しくて当初はほとんど行けませんでした。やっとこの4-5年で仕事も落ち着いてきましたのでこの近辺の海に出かけるようになりました。

「なぜダイビング?」とよく質問されます。その時の答えは「自身がプールや水風呂に入った時に顔まで含めて全身をつけたときどのような感じがしましたか?」と尋ねます。一瞬答えにつまるかもしれません。その時には「周囲の音が遮断されて静寂の中で自分が吐く息の音ともいうべきボコッボコッという音が聞こえませんか?」と続けます。そうなのです。他の動物には持つことのできない言語を身に着けた人間という生物が水の中ではそのコミュニケーションを奪われてしまい他の生物と同じ状況になってしまうのです。つまり人工的な会話や音は通用せず、原始的な音のみが存在する世界なのです。生物は長い年月を経て海から陸にあがってきました。生命誕生という昔にもどれば、多分水の中も音のない世界だったかもしれません。まるで胎児が羊水という水の中で一人泳いでいる状態とでもいいましょうか。

最近、海猿の影響で海上保安庁の人気が上がっています。人命救助で一見かっこよく海に潜っていますが、海の中はとても危険なことがいっぱいなのです。ダイビングをするときは必ず仲間と一緒に潜らなければなりません。一人では万一危険な状況に遭遇してもどうすることもできないけれど、ダイバー仲間がいれば助け合えるからです。しかし基本的にはダイビング中は音もなく周囲に仲間はいても結局はただただ一人の世界です。ケータイも通じませんし、ポケベルの呼び出しもありません。最近になって気づいたのですが、自分が医師という職業柄、いつも無線という見えない糸の首輪でつながれていた反動がダイビングをして一瞬でもその鎖から逃れたかったのがダイビングを始めたきっかけかもしれません。たかだか1時間程度の潜水ですが、ダイビングをしている間は地上でなにが起こっていても全く気づきません。例えば「水中で地震が起こったら?」と考えることもありますが、目の前の岩が揺れているのを簡単に感じることができるのでしょうか?

よく行く須佐の海ではミノカサゴによく出会います。大きさが手頃で近寄っても逃げずに水中カメラ初心者には絶好の被写体です。ただ触ってはだめですよ。あの刺々しい背びれはとっても痛いそうです。勿論、私も触ったことはありません。あとよく写真に出てくるのがニモの映画で有名になったクマノミです。このクマノミはサンゴの中を出たり入ったりと忙しく動き回りじっとしていないのでなかなかうまく撮れません。しかし最近は高性能の小型一眼レフの水中カメラが登場して初心者である私でも写真の出来栄えは別としてそれなりに撮影は簡単にできるようになりました。もっと腕前を上げてすばらしい被写体を撮影して、これからもこの貴重な水中への逃避行を続けたいと思っています。

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言葉が面白い~じぇじぇじぇのあまちゃんから~

最近PCでネット検索をすると必ず「あまちゃん」の話題が出ています。じぇじぇじぇです。なぜじぇじぇじぇかと言いますと今朝見た連ドラに出たキーワードがほんの数時間で1000件ものコメントが入りその言葉に隠されている意味をツィッターで、昔でいう友達の輪のように広がっていくというソーシャルメディアの凄さに感心したからです。私はまだスマートフォンも持たずに昔ながらのケータイ片手にPCでネットを使う程度のユーザーでフェイスブックやツィッターもしていませんので、今回の社会現象を私自身がビックリしていること自体が若者から見ればじぇじぇじぇなのかもしれませんが。

今、国民的人気で日本の朝を変えたとも言われている連ドラ「あまちゃん」ですが、私もご多分に漏れず初回を見たときから「クドカン」のファンになりました。「あま」も漢字で書けば「海女・天野・アマチュア・甘ったれ・尼」などたくさん存在します。またバブルの頃が青春時代だった我々40-50歳のオジサンにとっては、1980年代とは日本がとっても元気だった時代をいろいろなメロディーやその時代の波にのった人が登場するとついつい笑って思い出してしまいます。また宮藤作品の凄さはその言語の使い方の多様性にあります。簡単にいえば同じ響きでも意味が異なる言語をうまく操ること、つまり落語やコメディアンによるコントにもよくでてくるダジャレの感覚と言った方がわかりやすいかもしれませんが、その言葉の使い方が非常に面白い。そこまでならよくあるパターンですが、更に視聴者の世代を考慮して古い世代にも新しい世代にも適応できる懐メロ言語を駆使して視聴者に次の瞬間どう展開するのかという想像をかきたてます。そしてその日の録画を再度見て「あの時の言葉はここに伏線があったのか」などと自身もついほくそ笑んでしまいます。その不特定多数の会話が今回のツィッターであったわけです。言葉を視聴者に問いかけて考えさせて更に個人個人で発展させていくという手法、それを視聴者が皆で面白ゲーム感覚のように乗っていく点がこの「あまちゃん」という作品が皆に支持されている理由だと思います。また以前にこのブログでも方言で山口弁について書きましたが、今回の「じぇじぇじぇ」がまさにその岩手県久慈地方の驚きの方言でその言葉の響きの心地よさが更に作品を引き立てます。「じぇじぇじぇ」は今年の流行語大賞を受賞するのでは?と早くもうわさが飛び交っています。

毎朝「あまちゃん」で元気をもらって「さあ1日がんばるぞ!」と明るい気分で1日のスタートがきれています。隠された言葉の意味を探そうとして1日に2回見ることも多々あります。録画して何回もみてその言葉の面白さや伏線を楽しむ「あまらー」が増えているとネットに出ていましたが、私もご多分に漏れずその「あまらー」です。ニュース番組くらいしかテレビを見ない自分がこんなにドラマにハマってしまうこと自体あまりないのですが、今回は皆が面白いというのにはやはり理由があったのですね。後半の展開では3.11も作品に入れるという噂もあるドラマ自体の談義はまた次の機会に。

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