ブログ始めて2年が経ちました!

今回のブログが第104回目です。ブログを開始してから2年が経過しました。昨年の52回目到達時も「自分なりに週1ペースでよくがんばったなあ」というのが実感でした。またその時は来年も継続できるだろうかと少し不安もありました。性格的にきっちりとこなすタイプですのでやると決めたら必ずやらなければ気がすまないタイプです。だから昔から自己分析してやらざるを得ない仕事は意地でもやり遂げるようにしていました。一方、やりたくないことには徹底して無視してきたのも事実です。それはやりたくないことでも目を向けてしまうとのめりこんでしまい、自分で自分の首をしめてしまうことがよくわかっていたからです。

このブログも最初に勧められたときは絶対にやりたくないことでした。なぜなら小学生の頃から国語、読書、作文などの文系科目が大嫌いだったからです。逆に数学などの計算や筋道をたてていく学問は好きでした。だから理系人間になったのですが。特に現代国語の問題で「この作者は何を言いたいのですか?」なる質問に対しては自分の感想を書くわけですから国語の共通一次試験で半分くらいしか取れなかったのも事実です。大学入試の2次試験の面接では担当教官から「君は大学に入学したらたくさんの本を読んで視野を広げなさい」と言われたのを今でも記憶していますが、その当時はその言われたことが何を意味しているのか全く理解できずに読書などもせずに大学を卒業してしまいました。それから医師になって医学書や専門的な英語の論文などは読みましたが、人生の幅を広げるような読書はやはり皆無でした。

40歳の頃これからの人生がぼやけて見えなくなってきたときに「人生とは?」や「あなたは変われる!」などという本をかたっぱしから読みました。さすがにこのようなボヤッとしたテーマを人に相談しても答えなどないのはわかっていましたから、いくら読書が嫌いな自分でも本に頼らざるをえなかったのが始まりでした。また同時期に「ドラゴン桜」というドラマが一世風靡してたまたまテレビで見てその物事の考え方に感動して、その単行本を全巻一気に大人買いをしました。そのとき小学生から大学生までの人生の大半を引きずってきた国語の問題で「作者はどう考えているのですか?」という質問に対しての答を自分なりに出すことができました。普通なら20年も生きていたら見つけられるであろう答を私は倍の40年かかったことになります。

そのような経過の中でブログを書いてみないかと誘われたのです。自分の日本語の使い方や文法などはまちがっていることも多いと思います。しかし「作者は何を伝えたかったのですか?」という質問をいつも自分につきつけながら自らの思うことそして周りの人に考えてほしいことをブログで書いていけばいいと思いながらやってみたら意外とネタ切れもせずにうまく続いています。ありふれたことの中にも物事の本質は必ずあります。それを見落とさないようにしてまだまだ週1回ペースで書き続けたいと思っています。

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Rainy season

日本では梅雨と聞くと蒸し暑くて湿気でネチャネチャしてうっとうしい季節という印象が強いのではないでしょうか。外国では雨の季節のことをRainy seasonつまりカタカナに直せば「レイニーシーズン」といいます。勿論、雨季と乾季がある国で雨の季節のことを指しています。しかし「レイニーシーズン」と表現を変えたら何となく爽やかな感じがしませんか?「つゆ」という日本独特の蒸し暑い季節を小さい頃から体験してきて、その暑苦しさという感情=梅雨と脳にインプットされているからにほかなりません。それを「レイニーシーズン」なる外来語に翻訳してしまうと脳みそが混乱して爽やかな季節になってしまいます。あくまでも個人的な意見ですが。

日本の梅雨は湿度が高く蒸し暑くて不快極まりないのですが、そもそも海外での雨季は一般的に日中に雨がスコールのようにザーッと降ってあとはお日様が出てくる日も多いのです。まずもって日照時間が日本ほど少なくはないようです。むしろPM2.5で騒いでいる中国や霧が多いイギリスなどの方がよっぽど日照時間は少ないのではないでしょうか。また欧州諸国は日本と違って高温多湿ではありませんし、日本人が昔から正月に好んで出かけるハワイにも一度行ったことがありますが、日本のようにジメッとした感覚があまりありませんでした。日本の梅雨と同じようなジメッとした気候は太平洋の赤道の周辺でしょうか。タイやパラオに行った時は同じようにジメッとした感覚がありましたが、そこでは雨季にはスコールのような雨の後にはカラッと晴れるのです。しかし高温多湿には変わりありませんし、また行った時期にもよりますので一概に良し悪しは言えません。ちょうど行った時の気候がよくて自分の体調に合っていれば「あそこはよかったから、また行きたい」と思いますよね。しかし合っていなければ「二度と行きたくない」って思うのが普通ではないでしょうか。

このように自分の旅先での感覚と現地に長年住んでいる人々の感覚にはかなり乖離があります。日本は春夏秋冬の四季があって素晴らしいと思っていますが、四季がない国々の人々にはいくら説明しても理解不能です。実体験は非常に重要です。またあの暑苦しい梅雨を乗り切った後の暑くて死にそうな夏も梅雨という嫌な時期を乗り越えたから一段と嬉しさがこみあげてくるのでしょう。しかしこの夏のうだるような暑さも1週間も続くとうんざりしてきますよね。その頃には「早く秋が来てほしい」と思い始めます。一方、梅雨も雨が降らなければ作物も育たないので無くてはならないものですし、夏の水不足にも影響します。また今年の夏も電気不足にもならないように節水、節電を心がけようと思っています。日本に生まれて四季の折々を自然と体感してきた我々は梅雨が嫌な季節だと思うところもありますが、少し観点をかえて考えてみるととても大切なものなのだと今回のブログを書いていて改めて思いました。しかし今年の一足早い梅雨の到来によって早い梅雨明けを祈っているのは私だけでしょうか?今回は雨に輝く当院のやまほうしの花です。

Blog20130610

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消火器の体験実習

当院では年2回火災報知器点検を行っています。勿論、法律にのっとった点検ですので専門業者の方が来られて、火災報知機や煙感知器の点検などを行っています。消火器も使用しなくてもある程度期間が過ぎれば消火剤の劣化に伴い交換が必要になってきます。期限切れの消火剤で、いざ火事になっても初期消火がうまくいかなければもともこもありません。しかしそれ以上に問題があったのです。消火器の使用経験は無いにこしたことはないのですが、いざというときのための使用方法の熟知は是非必要です。今までに個人的には一度も体験実習をする機会がなかったのです。

天ぷらをあげるときに火が燃え移って火事になりそのときに消火器を使用して消し止めたり、病院などが屋外での体験実習で実際にスタッフが消火器を使用してあたり一面が真っ白い粉だらけになっている光景をテレビで映し出されることがよくありますよね。あの光景を見ると簡単そうに見えるのですが、いざ本当に目の前に炎が上がっていたら慌てて的確に消火器を使用できるかどうかは自信がありません。以前から何かの機会があればと思っていたのですが、今回期限切れで消火器の交換が必要になりましたので、期限切れの消火器を使用して昼休みにスタッフも参加しての実習となりました。あるスタッフが言っていましたが、以前病院で同様の実習があったが、その時は消火剤の粉が周囲の床に飛び散ってこびりついてあとの掃除が大変だったとのこと。それは大変、実習も大切ですが、あとの掃除がもっと大変だったら二の足を踏んでしまいます。そのことを専門業者の方に聞いてみたら、消火器の先端にビニールの回収袋をつけてやれば問題ないとのことで今回の体験実習とあいなったわけです。

5月下旬の昼下がりで当日は曇り空でしたが雨は降りませんでした。まずは専門業者の方から簡単に消火器の説明を受けてそれから実習が始まりました。消火器の使用方法はいたって内容は簡単です。安全ピンを引き抜いてホースを炎の手前にめがけてレバーを握って噴射するのみです。16秒間消火剤が出ますが長く感じられたのは言うまでもありません。生まれて初めて消火器の実技体験もあっという間に終了。個人的には「こんなもんなんだねー」といたってシンプルな感想ですが、それが大切なのでしょう。

前回ブログで触れたAEDにしても一般的な素人がいざという緊急事態に使用する場面ですので、「これどうやってするの?」なんて思ったらダメですよね。「やってみたら単純で簡単だった!」というのが最低条件でしょう。しかし本当にその場面に遭遇したら、火事でも心肺停止でもやっぱり内心めちゃくちゃに焦りまくるにちがいありません。今回の消火器使用の実体験も個人的には非常によかったと思います。ただ手が滑ってビニール袋がずれてしまって、あの消火剤の粉を周囲にまき散らしてしまったらと考えると後の始末が大変なのは納得がいきました。消火剤の噴射の勢いで回収袋が破れて周囲に少量の粉をまき散らしましたが、実習がつつがなくうまくいったことにほっとしています。

消化器

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学校健診

連休が終わり梅雨に入るころまでに学校健診が始まります。学校健診は学校医の仕事の一つですが、学校医は一つの学校に内科、眼科、耳鼻科、歯科医師がそれぞれ1名ずついます。内科は主に我々内科か小児科医がその地区ごとに振り分けられて当たります。自分の場合2校受け持っていますが、その時期になると昼休みの合間をぬって午前中の診療が終わるやいなや昼食をかきこめればラッキーで、少しでも午前診療が延長してしまえば必死で診療を終わらせて昼食もとらずに急いで学校に赴きます。それから約1時間、聴診器のあてっぱなしになるのです。毎年のことで何年もすると慣れてきてうまくこなせるようになりますが、最初のうちは一気に1-2学年の生徒100-200人診察すると聴診器が耳に食い込んで痛くなります。我々は自分の持ち分の学校だけで終わりなのですが、耳鼻科や眼科健診の担当医師は医師数が少ないうえにお互いに助け合いながら全ての学校の健診をしなければならないためたくさんの学校に赴かなければならないので大変です。ですから医師の皆さんはこの時期はとても時間に追われて大変なのです。更に職場健診や市から委託された癌検診や特定健診、乳児健診、歯科検診もこの時期に立て込んできますのでダブル、トリプルパンチなのです。梅雨が明けるころには一段落ついてくるのですが、この時期はいろいろと忙しいのです。

では学校医はその他にどのような仕事があるのかといいますと、学校保健委員会が年に数回程度あります。養護教諭の司会のもと各学年担当の教諭と校長、そしてPTAを中心とした父兄が集まって年間の保健指導内容の確認や活動報告が行われます。その後医師が意見を述べ、その他各種質問に答えます。そのような活動が毎年行われています。また本業である教職員の健診結果のチェックなどもあるわけです。また4-5年に一度ですが、父兄と教職員を対象に特別講座があります。話題は世の中の流れに合わせてその時節にあった内容を1時間程度講義するのです。私の場合5年前にAED(自動体外式除細動器)の使用方法と心マッサージの練習をしました。AEDは一般市民誰しもが突然目の前で人が倒れたら行わなければなりません。火事になったら初期消火が大事で消火器の使い方もいざというときに練習しておかなければ慌ててしまいうまく使用できないのと同じです。心マッサージと人工呼吸法とAEDの3点セットで約1時間の講義でした。このような実習体験は何回も繰り返し継続して行わなければ人間いざという時にすぐに行動に結びつきません。「継続は力なり」という諺がありますが、まさにその通りで次の機会にも同様にAED講習を計画しています。皆さんも市民を対象に消防や医療機関や自治体が主催した体験実習会が市の広報などで目にされることがよくあると思いますが、一度は体験されることをお勧めします。「百聞は一見にしかず」ですよね。聞くと見るとでは大きく違いますし、見るよりも実際に行うことは更に何倍もの効果があります。しかしいざという緊急事態があなたの目の前で起こらないことを医療従事者としては祈るばかりです。

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死生観

病気や事故で生死をさまよって生還して来られた方が、「お花畑を歩いていると川があってそこを渡ろうとすると自分の亡くなった両親や祖父母が現れてこっちに来るな!って言われて目が覚めたら現世だった」なるお話を耳にすることがよくあります。それが真実か否かは実際に体験していませんのでコメントはできません。昨年医学部教授を退官された私の恩師がちょうど3年前に大病をされ生死をさまようものの見事に生還され現在はお元気なのですが、講演で自分は三途の川の手前まで行ったが、それより先の切符はもらえなかったと真面目に話されるのを聞いて、お花畑と川はまんざら嘘でもないように思っています。昨年エジプト展を観にいったとき古来3000年以上の昔から人類は死後のことはとても重要で、ある意味現世以上に幸せな死後を迎えるためにいろいろな儀式や祭りや装飾品を使用していました。ピラミッドはその最たるものでしょう。

「人は言葉を駆使してコミュニケーションをする生物である」とかの高名な方がおっしゃっていましたが、人と人が接するとそこに摩擦が生じます。それが争いに発展していきます。感情と知性をもった人類はいつの世でも争いごとを好み、そして過ちを犯します。その罪滅ぼしをしなければいけない死後には前世で悪いことをしても神様、仏様、キリスト様が救ってくださると信じます。そこにいろいろな宗教が存在して、人々は心の安らぎを得ようとします。だからいつの世でも人類は死生観と対人間関係が永遠のテーマになっています。かの有名な東大の国語の入試問題でも難解な言葉を使用してもその根源にはそのような単純でありながらも永遠に答えを探してもみつからないテーマがよく問題として扱われていると本で読んだことがあります。

今の世を生きている自分がいます。前世があるとすれば自分の前世はなんだったのかが気になるところですが、前世も後世も今という現世があるから成立しているのであって、結局のところ現世をいかに大切に生きていくかが問われるのだと思います。しっかりとした悔いのない人生を歩めば自ずと道は開け、仮に道が閉ざされても迂回路をみつけることができるのではないかと思います。

盆正と彼岸を入れて年に4回小高い山の頂上にあるお墓に自分の母親と参ります。時間があれば子供たちも連れて行きます。参るたびにあと何年したら・・・・と考える歳になってきました。この1月には49歳になりました。昔は人生50年、何をしているかなんて想像もできませんでしたが、現在の自分は人生80年の残り30年をどう生きていこうかとおぼろげながら見えてきています。それだけ歳をとった証拠でしょう。お墓参りをするといつもそのような現世の「残りの人生」と後世の「あの世」を考えてしまいます。現世での今の一瞬が一番大切なのはわかっていますが、ふとそのようなことを考えてしまいます。自分には煩悩も欲目もまだまだありますが、「自分の死生観」についてはまだはっきりしたものは見えてきません。

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