医者は算数脳か国語脳か

以前も似通った話をしたことはあるのですが、自分自身が理系で数学を得意として逆に英語や国語という文系は苦手でした。よって数学的な論理的な組み立て方は得意でした。その数学は一般的には思考の学問と言われています。先日東大医学部を出て現在精神科のクリニックを開業しながら受験数学に精通されている和田先生のコラムを読みました。そこには「受験数学は暗記である」とはっきり書いてあります。その内容は私も以前から数学に関して同じように感じていたけれども口に出すまでには至らなかった思いと一致した瞬間でした。数学の試験問題を解くには最低のルール即ち数学の言葉では定理や公理があります。簡単に言えば1+1=2であるというのは生きていく上での常識でこのルールの上で計算問題が作られて小学生にドリルの宿題が出されるのです。ですから受験数学もいろいろな定理を暗記してそれを組み合わせた例題を解いてそのパターンをある程度暗記してから色々な入試問題にチャレンジしていくのです。

一方で医学に目を向けるとその過程はまさに数学的思考そのもので論理を進めて診断に至るのです。色々な体の仕組みや生理的現象を丸暗記してその数値や現象をフローチャートの流れの如く進めていく先に確定診断という解答があります。そしてそのロジックに沿って薬を投与し、または手術をしてより良い正解を出していきます。医学部受験は一見全く将来役に立つとは思えない数学が必須でその成績が医学部の合否を決めると言っても過言ではありません。以前は医師に大切なものは数学的知識よりも国語的知識で即ち文系の方が重要であると考えていました。それは相手からその情報を探り出す技術は数学的思考よりも国語的思考要素の方が強いと考えていたからです。数学的思考要素として必要な事はコンピューターや電卓のある現在では四則計算のみで十分とも考えていました。

この一見相反する医者は算数脳か国語脳かという迷題に関して、まず医師という仕事の根幹には暗記数学と論理的に物事を進める論理数学が絶対的に必要であることは間違いなくこれが算数脳たる所以だと思われます。それと同時にコミュニケーションや相手を納得させる論理的な国語脳が必要なのです。また医学は日本語だけでは通用しませんので英語も必須科目です。よって医学部受験には英数国が必須ではないかと最近は考えています。更に物理や化学や生物も医学部受験では必須ですが、これは基礎的な医学知識を習得する上で必要です。ですから結局は医学部の受験は英数理を一次試験で実施して二次試験で小論文や面接で国語能力や人間性を見ることに整合性がかなっています。

つまり最初の医者は算数脳か国語脳かという命題に対しての解答は理科と数学的な知識と論理を根底にして国語的なコミュニケーションが医者には必要という結論になります。しかし本当に自分は医者として算数脳と国語脳を兼ね備えているかと聞かれたら自信を持ってYESとは答えられません。まだまだ不十分です。「人生死ぬまで勉強」とはよく言ったものです。

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新たな才能を発掘するには

才能とは天から与えられた贈り物でそれをいかに磨くかは各個人の努力です。しかし遺伝子という最初からの格差はいかんせん埋めようがありません。ですからどこの世界でもその道を究めた人物はその道の才能があってそれをうまく引き出すことが出来た人物と言えるでしょう。一方でいくら才能があったとしてもその才能を発揮する機会に恵まれない場合や生きている間にその隠れた才能さえ発見できない人も多くいます。現代社会には非常に多くの職種があり多くの場面があります。各個人の才能を発見して磨くシステムがあれば社会の中で各個人のチャンスが更に増えて社会貢献も増えるはずです。

ではその才能を発見して育てていくシステムとはどういったものなのでしょうか。多分それは幼少期から成人するまでのほんの20年弱ではないかと思います。その間に必要な教育を受けて基礎となる土台を築かなければその上に何を乗せても大成しません。日本ではその最初の土台構築には義務教育という非常に優れたシステムが存在しますので読み書きができない人はまずいません。しかしその土台作りの後の二段目を伸ばす教育は、日本ではそれこそ画一的そのもので、思春期以降に伸ばせるものも伸ばせない環境に置かれているのではないかと以前から思っていました。6・3・3の12年教育を戦後日本はずっと維持してこれからも変わらず続いていきますが、この画一的教育方法が逆に多種多様に富む各個人の才能を伸ばす弊害になっています。今の教育システムでは高校入試や大学入試という狭き登竜門の切符を得るという目的のために学校と塾と家庭が護送船団として一体となって、特に後半の中高の6年間が費やされます。やりたい目標が名家腕そのために希望する大学に入学するのであればそれで良いのですが、人生をたかだか20年も生きていない人間で自分のやりたいことが決まっている若者なんてまずいません。あなた自身の高校時代を振り返ってみて当時「あなたは18歳の時に自分の将来で何をしたいか」決めていましたかと質問されればおそらく「NO」という方が多いのではないでしょうか。

ではその画一的な護送船団方式教育から抜け出して新たな才能を見出そうとすると現在の教育システムでは一般社会が多分それを許してくれません。まず「入試で結果を出しなさい」と天の声が聞こえてきます。しかし数年後の大学卒業の頃には年齢も重ねて就活もあり、もう一度自分の才能を発掘し直してみようという気は起こりません。アメリカでは何度も転職を繰り返すことで個人のキャリアに磨きをかける事ができますが、日本での転職は必ずしも良いとは限りません。それでも最近の日本はマシにはなってきましたが、もっと自由に動いても文句を言われない風通しの良い社会になる事を期待します。もう一点は幼少期から本人の隠れた才能を見出してそれを伸ばす事ができる教育システムが既存の6・3・3のシステムの前に6を追加して6・6・3・3システムにすべきですが画一的では意味ありません。これからの少子化社会では小学入学前の6年間にいかに子供の多種多様性を求めて発掘できるかがこれからの日本の未来を決めるのです。

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新型コロナワクチン接種 ~その2~

前回からの続きですが、医療関係者の新型コロナワクチン接種はそれぞれの自治体にある基幹病院で開始されています。来週には我々一般医療関係者も接種が始まります。やっとこの2か月のゴタゴタを経て日本の新型コロナワクチン接種大作戦が動き出します。それでは1月下旬から2月下旬までの1か月間を振り返ってみましょう。今回の件で私は医師会の理事で新型コロナ対策チームの一員に組み込まれていましたので行政と医師会の調整係で大変でした。それでも後に「あの当時はよくやったものだ」と自画自賛できればそれで良いのですが、今回対策チームで一番大変だったのは多くの対象者をいかに密にならずにスムーズに集団接種させるかと言う事でした。第二に接種する側の医師と看護師を集めなければなりませんが、医師はどうにか医師会員にお願いして確保ができましたが、看護師が絶対的に不足しています。行政と医師会側双方で公募をかけたり自院の看護師に声をかけたりして補完をしますが、それでも人数不足です。国に登録された看護師の数だけをみれば十分いるようにみえますが、いざ実際に稼働している看護師はコロナとも現在進行形で戦っているわけですから「はい。そうですか」とワクチン接種ができるわけではありあません。では退職したOBやOGに召集をかければいいではないかという意見もありますが、現役復帰してすぐにワクチン接種が可能かと言えばそれもなかなか困難です。結果的に人集めは行政側の仕事ですので我々にはあまり負担がかかりませんが、実際に接種する場合に人員不足となると結局は出務者にそれぞれ大きく負担がのしかかってくるのは目に見えています。そのため医師会内でもアンケートをとったり理事会で決めるためにその事前対策を小委員会で何度も行政側と話し合ったりで結構タイトな1か月でした。個人的には「ワクチン接種も最後にはどうにかなるだろう」と高をくくっていましたのであまり負担には感じられませんでした。

そして協議を開始してから2か月後の現在に至ります。新型コロナワクチン接種を行政と医師会の双方で協力して遂行するという史上初の大作戦はワクチンの外国からの入荷がはっきりせずに医療関係者や65歳以上の高齢者の接種の開始がかなり遅れそうです。また集団接種だけでは全ての人に接種するにはかなりの時間がかかりますので、個人接種も併用して今後は進めていかなければなりません。しかし今回のファイザー社のワクチンはマイナス75度という超低温保存が必要ですので、基幹病院の冷凍庫から各診療所へのワクチン配送システムも検討する必要があります。そして予約してもドタキャンされたら税金で購入したワクチンが無駄になります。また1バイアルを開けると一度に5-6人に接種しなければなりませんので効率よく接種するためには市民の協力も不可欠です。いろいろなハードルを考えれば歩行可能な人はなるべく集団接種会場を予約してワクチン接種するのが一番効率良いと考えています。これから年末までに国民の接種希望者全てにワクチン接種ができれば今年の冬はマスク着用で忘年会の予約が可能になるかもしれません。

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新型コロナワクチン接種 ~その1~

1月下旬に河野ワクチン担当大臣が川崎市の体育館を使用して新型コロナワクチン接種のシミュレーションをしました。日本の人口1億2000万人が全てワクチン接種することはあり得ませんが、7割の人が接種すると仮定すれば約8000万人が各自2回接種することになりますので1億6000万回のワクチンが必要になります。それを国は自治体にほぼ丸投げするものですから、各自治体はたまったものではありません。そして自治体はワクチン接種対策チームを新たに発足して今後の対策を検討していますが、絵にかいた餅にならないように願うばかりです。なぜなら自治体にはワクチン接種の全工程の予約や会場確保など多くの仕事がありますが、接種実施は医師と看護師に限られるのです。それでなくとも病院では新型コロナの入院治療が現在進行中で、個人診療所も発熱外来をしています。ワクチン接種以外にも新型コロナ対策には貢献しています。更に半年で全国民のワクチンを確保するから接種しろと上から目線で国は指示してきます。医療側も全国民になるべく早く接種したい気持ちに変わりはありませんが、それでも結果ありきで指示されてもどこにそれだけのマンパワーが残っているのか疑問です。

それでは周南市に目を向けてみましょう。周南市の人口は約14万人で65歳以上が約4.6万人います。仮に4.6万人の7割がワクチン接種希望とします。すると4.6万人x0.7≒3.2万人になります。そして3週間あけて2回接種となると6.4万回になります。6.4万回を約9週間で終了させるためには休みなどを考慮せずに毎日接種したとして計算すると1日に1000回のワクチン接種が必要なのです。1000回ワクチン接種ということは医師か看護師が延べ人数で1000人必要と言い換えることもできます。国の試算では1時間に20人の接種となっています。するとその前後の問診の確認や受付そして接種後の副反応のため15分から30分待機することも考えて大きな体育館などに人を集中させて蜜にならないように事を運ばねばなりません。その前に市町村は接種のクーポン券を送付して市民からの問い合わせや予約の受付もしなければなりません。また今回のファイザー社のワクチンはマイナス75度以下の特殊な冷凍庫で保存しなければならず、接種のために解凍するとそれを数時間以内に使い切らなければ廃棄処分になるのです。全てが初めての試みで対象者は全国民ですので史上空前の大作戦になるのです。ですから国や地方自治体と医療団体そして接種対象者を含めて予測できないトラブルの発生もあり得るわけです。

1月下旬から実際に国からの通達を受けて自治体との合同協議も始まりましたが、テレビ報道の通りいかんせん情報が少なすぎます。実際にワクチンがいつ届くのかも未定でそれでいて4月から高齢者接種開始だけが独り歩きしている状況です。地方自治体も国に振り回されて気の毒ですが、結局最後は末端である医療関係者にしわ寄せがくるのです。「コロナ患者さんの医療を担いながらそしてワクチン接種も急げ」とは厚労省の中間管理職も大変でしょうが、決める側は夜の銀座で豪遊して離党だけですから無責任なものです。

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リーダーシップ

このコロナ禍でリーダーシップという言葉が取りざたされています。リーダーシップなんて小学生の頃から国民誰もが口にする言葉です。広辞苑で調べてみますと「指導者としての地位または職責」「指導者としての能力、資質、統率力」と書かれています。誰が読んでも当たり前の翻訳ですが、実際にこの国を見渡してみると上へ行けば行くほどリーダーシップをとれる人材が不足していることを痛感しているのは私だけでしょうか?勿論、多くの人を束ねるにはリーダーの人望と能力が必要不可欠です。我々下々の世界ではそれでもリーダーが存在して困難な事でも曲がりなりにも進めていくことができますが、それは少人数の集団だからです。一方で市政、県政そして国政という大きな集団を引っ張って行く上では我々が想像しているリーダーシップ像がそのまま当てはまるとは到底思っていませんが、それでもこのコロナ禍という国難を乗り切るには強いリーダーシップを兼ね備えたトップが必要なことに変わりはありません。人が多ければ多いほど右や左や上や下などとしょうもない事も含めてとやかく言う輩が増えます。しかしそれは当然の事でその中でどの意見を取り入れ排除するかを決めるのがリーダーの仕事ですが、更にその意見を有言実行していかなければ意味がありません。有言無行ならテレビのにわかコメンテーターでも総理大臣は務まります。しかしそれでは日本丸が沈没してしまいます。

最近、政治家は地方行政を含めて二世議員の花盛りです。個人的に二世議員が悪いとは思いません。特殊な職業の場合「親の背中を見て育つ」ことはとても重要です。しかし「親の七光り」だけでは人を引っ張る事など到底できません。最初は「親の七光り」だけであってもその後にしっかりと精進して大成する人もいれば逆もしかりです。政治家に限って言えば後者の方が多いように感じているのは私だけでしょうか?それぞれの田舎の身内の事情であったとしても選挙で選ばれたわけですから責任は重大です。現在の総理は二世議員ではありませんでした。たたきあげで派閥を持たない総理がどこまで通用するかということとどれだけリーダーシップを発揮できるのかという期待もありました。勿論、総理大臣という国のトップですから生半可な事では務まりません。しかしそれでも政治は結果責任を伴いますので駄目なものは駄目と批判を受けるのも当然です。その意味で今回の総理の就任時の支持率が数カ月で一転して不支持と拮抗するという事実は政府や国会議員の目線は国民とはずれているということになります。その風を瞬時に察知してコロナ対策をしなければ更に支持率は下がるでしょう。その場を読む力が無ければリーダーとは言えません。また決断する時はズルズルでは駄目で即時決断する能力も必要でその先を読む力も無ければなりません。このようなリーダーシップを持つ人物はその世界を見渡してもなかなかいませんが、それは狭い社会の中でも同様です。ちょっとした会のまとめ役、学校で言えばクラス委員もしかりです。そのような小さな環境から我々も協力しながら将来のリーダーになるべく人材を育てていかなければなりません。

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