ハワイ島ヒロを訪問して

ヒロ滞在も残す所あと1日になりました。現地では大晦日ですが、日本ではすでに2020オリンピックイヤーがスタートしています。なんとなく19時間の時間差で2020のスタートに乗り遅れた感じがありますが、現地で2019最後の日を迎えながら今回のハワイ島ヒロ訪問を振り返ってみたいと思います。今回の訪問目的はあくまでも母と叔母の再会が主目的でしたのでその結果を早急に出すのは困難ですが、現時点では再会が劇薬としていい化学反応が起きたとは言えません。短期的には失敗だったかもしれませんが、長期的にはジワジワと今回の訪問がボディブローのように効いてくることに期待したいと思います。叔母の状況も母と同じでヒロでこれからも母一人娘一人で生きていかなければなりません。その意味では離れ離れになった80歳代の姉妹はこれが最後の再会であることには間違いありません。気が変わってまた行きたいと言ってくれれば今回の訪問の成果が出たことになるのですが、現時点ではそれは期待薄でしょう。明日の朝一番で帰国の途に着きますが、子供として家族として今できることはやったつもりです。明日からの日本での母の生活が変わらないかもしれませんが、淡々と生きていってほしいと思います。

次に自分はどうすればいいか?という以前からずっと抱いていた自分への質問も解決したわけではありません。ただこの1年はハワイに連れてくるというその一心だけでその先は全く見えずにハワイに着いてから考えようと思っていました。しかし残り滞在1日の大晦日になってもまだ明確な目標というか何をどうすればよいかという妙案は浮かんできません。ただ「今できることは今しかできない」ということだけはこの1年で学びました。それは父親の死、母親の変わりよう、子供たちの巣立ちの準備など自分にとって多くの事が考えさせられました。ひたすら時間のみが彗星の如く過ぎていくだけです。昨日ホテルまで長男と長女の3人で3kmの道を日差しの強い中で歩きました。以前同じように3人で歩いた場面がたくさんリフレインされました。それは彼らがまだ小学生や幼稚園の頃の歩いた場面なのですが、同時に私が小学生の頃に亡き父と歩いたことも重なりました。この瞬間が30年後に子供たちの中でリフレインされるかどうかはわかりませんが、私がそうだったように彼らも未来に時を超えて同じ道を思い出すのではないかと思います。

これから自分が変わらなければいけないこと、それはいずれ自分にも孤独になる時がやって来ますが、その時に耐えられるだけの自分を今から形成していかなければならないことです。それが何なのかは全くわかりませんが、それをみつけるべく明日からの日常生活に戻っていかなければなりません。現在ハワイ時間で丁度2020の新年になりホテルの窓の外では新年を祝う打ち上げ花火が盛大に夜空を彩っています。それを観ていると過去のいろいろな場面が消えていく花火と重なり脳裏をかすめていきます。打ち上がって大輪を咲かせるまでは苦労の連続ですが、散り際はやけに寂しく今の自分もそろそろその境地に入ってきたのかもしれません。明日の朝一番で日本にしっかりと帰りたいと思います。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

再びハワイ島へ ~マウナケア~

前回はマウナケアの予約まで話しましたが、今回はその歴史についてです。3年前にマウナケアに登頂して夕日を観ましたが、星空観測は半月の明るさのため満天の星空には程遠い状況でしたのでリベンジしたいと考えていました。今回は新月から3日目ですのでかなり期待できそうで昨春には予約しました。しかし夏に問題が発生します。ハワイの先住民族は昔からマウナケアを信仰の対象としてきました。日本人が富士山を精霊化するのと同じ考えです。しかしマウナケアは世界屈指の天文台の好立地で10を超える天文台が頂上付近に所狭しと建っています。過去に建てられたものは致し方ないにせよ彼らはそれをよく思っていなかったのですが、行政が無理やり許可して建てたのです。今回新しく30mの大観測ドームの建設計画が持ち上がり、地元先住民とトラブルに発展してマウナケア山頂に行く道路が抗議のデモで封鎖されました。それが7月15日です。例えるなら富士山に大きな天文台を建設する許可を静岡県知事が出したので地元環境保護グループがそれを阻止するために富士山の3合目付近の道路を封鎖して観光客が昇れないようにしたようなものと言えば理解できると思います。そこで地元の警察とデモ隊がぶつかりますが、同じ静岡県民がいがみ合うようなものです。それで悲しい現実としてマウナケアの登頂が不可能となり予約も自動的にキャンセルになりました。その後から何度となくネットでマウナケアデモと入力して検索しますが、新しい情報は更新されません。12月中旬になっても一向に風向きは変わらず諦めかけていましたが、年末年始はデモも一休みするではないかと微かな期待をしていました。しかしそれも望み薄でのヒロ入りです。しかし私たちが到着した日の朝にデモが中止となり急遽マウナケアへの登頂が可能となったのです。これも現地の従妹が電話をかけまくって調べてくれたおかげです。早速翌日に滑り込むようにマウナケアツアーに参加できることになりました。

翌日午後にツアー会社がホテルまでピックアップに来て封鎖されていた登山道に向かいます。そこには昨日まで24時間デモを継続するため寝泊まりしていたテントが何十とあって先住民らしき人が多くいました。それを横目に車で山頂まで登っていきます。なんとなく後ろめたいような気持ちになります。今回の問題が双方で納得いくように解決できればと願うばかりです。マウナケア山頂は雲のはるか上ですので、下界が雨でも夕日は関係ありません。前回と同様に見事な夕日を観ることができました。しかし今回の目的は満天の星空観測で、月は三日月まではいきませんがその光り輝く分だけ星は消え去っています。ツアーコンダクターは「今日は7割の星が見える」とのことでした。耀く月と反対方向のオリオン座から天の川はきれいに満天の如く見えました。それを観ることができただけでも今回のツアー大成功です。澄んだ空気の高地から見る満天の星を次回は新月の日に完璧な満点の状態で観たいものです。そのような機会が将来やって来るかどうかはわかりませんが、三度目の正直にかけたいと思います。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

再びハワイ島へ ~ヒロに到着~

さて前回は出発前のドタバタ遍でしたが、今回は羽田空港からハワイのヒロに到着するまでの経緯です。事前に高齢者を連れている旨を航空会社に連絡済でいろいろな場所で優遇措置が受けられて移動はかなり助かりました。しかしホノルル空港で入国審査を受ける際には一悶着ありました。空港が広くて高齢者が歩くにはかなりの労力がいるため事前に車イスをお願いしたのは良いのですが、入国審査で家族と別行動となり入国審査後にお互いにどこにいるか分からずに広い空港を右往左往しました。かなり余裕をもった計画を立てていましたので大事には至りませんでしたが、海外でのメールのやり取りは日本国内のようにうまく設定できずにあたふたしました。それでもなんとか自宅を出発してからおよそ20時間かけて目的地のヒロ国際空港に到着です。国際空港と言ってもホノルルとは違ってのどかな空港です。ヒロはハワイ州でホノルルに次いで第二の都市ですが、昔から日系移民が多く住んでいて昭和の日本を感じることができるアメリカの町です。空港を出たら叔母と従妹が待っていました。母は20年ぶりの再会です。母の顔が幾分ほころんだように見えます。我々家族皆が叔母の家に泊まるのは物理的に困難ですので母のみ叔母の家に泊めてもらって我々は近くのホテルに宿泊です。ヒロハワイアンホテルという昔からある老舗ですが、今回の目的はリゾート滞在ではありませんのでこれで十分です。その夜はショッピングモールのフードコーナーでピザなどアメリカナイズした食事をしたら疲れ切っていましたのですぐに寝てしまいました。まずは旅の初日は今回の最大の目的であった姉妹の再会を果たせましたので出足は上々です。

ホテルにチェックインしたときには夕暮れで周囲を見渡すことはできましたが、常夏の国ハワイの碧い海は見えません。翌朝に起きてホテルの窓を開けて南国の爽やかな風を感じて目の前にはあの真っ青な太平洋が眼下に広がっています。ハワイ島には西側のリゾート地で有名なコナと現地の人が多く暮らす東側にヒロがあります。ヒロは海洋性の湿った空気の通り道で年中曇って雨が降ります。しかし日本と違ってスコールのように1日のうちで降ったり晴れたり目まぐるしく変化します。そしてそのヒロに降らせた湿った空気が天文台で有名な4000m級のマウナケアを昇って乾いた空気となって西側のコナリゾートに下ります。だからコナは年中晴れています。前回はコナでリゾートを満喫しましたが、今回はハワイ島の地元の雰囲気に存分に浸れそうです。疲れきった我々が寝ている間に雨が降ったようで朝には雨もあがり虹がかかっていました。なんとなく今回のヒロでの滞在に期待が持てそうな予感がしてきます。

ヒロ滞在は2日目ですが、事実上の初日はマウナケア山頂での夕日と星空観測の予定になっています。これは当初からの予定に組み込まれていましたが、先住民族のハワイアンの天文台建設計画反対問題でアクセスロードが封鎖されてキャンセルとなっていました。しかし我々の到着日に封鎖が解除され可能となりました。詳しくは次回に説明します。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

再びハワイ島へ ~出発までの経緯~

父が亡くなって年末に1周忌が終わりました。母の体調もすぐれませんが、体というより心の不調が主体でこの1年間を過ごしてきました。このままではいけないと思い春に母に尋ねました。「このまま父の後を追うように死んでいいのか?」何も返答はなく、ただただ窓の外をボーッと眺めています。父が生きているうちは80代には見えないような元気者でしたが、この2年で年相応以上に老化しました。やはり人間は尽くす人がいれば元気に生きることができますが、その伴侶がいなくなるとダメになってしまうのでしょうか。これこそ燃え尽き症候群の典型といっていいでしょう。心療内科や施設に入所していろいろとリハビリを繰り返しましたが一向に改善の傾向はみられません。時間が薬とよく言いますが、まだ亡くなってから1年も経っていないので致し方ないのかもしれません。

話は変わりますが、母にはハワイ島のヒロに妹がいます。私から見れば叔母にあたりますが、複雑な事情でこの20年会っていません。それまでも何回かは会いましたが数えるほどです。この数年は特に父の体調の悪化からそれどころではありませんでした。そしてこの抜け殻状態で人生の大ピンチを乗り切るには無理やりにでも母をハワイに連れて行くことしかないのでは?という気持が徐々に強くなり、家族や弟にも相談して皆も賛成してくれました。しかし当の本人が首を縦に振りません。何がそこまでして母をハワイに行かせないのか?心の奥底に潜むものが何なのかはわかりません。でもそれしか前へ進むべき道がないいうことで皆の一致した意見です。それで本人の承諾なしに正月のハワイ行の飛行機を予約しました。勿論、母には内緒です。父の初盆が終わってからハワイ行きの話を母に切り出します。予想通り母は行かないとの一点張りです。当初の想定内でまずは母のパスポートを作りに行かなければなりません。そこでまだマイナンバーカードを作ってない多くの高齢者の一人である母にこう切り出します。「最近は年寄りの本人確認も顔写真付きの身分証明書がいるが、マイナンバーは騙されると怖いからパスポートを作っておけば身分確認にいつもあたふたしなくて済むから作ろう」と言います。母もそれを鵜呑みにしたのか、こちらの魂胆を見抜いていたのかは知りませんが、その話には乗ってきました。まずは第一段階が終了です。8月下旬に市役所に母の10年間のパスポートを作りました。その時「このパスポートが切れるまで生きているのだろうか?」とふと頭の中をかすめましたが、今は悩まないことにします。

その後「行くだの行かない」などと応酬を繰り返しながら12月を迎えます。ハワイにも連絡を取りANAには85歳の高齢者で歩行はできるけれども困難なこともあると事前に連絡を入れて万全の態勢で臨みます。当の本人は行くとは言いませんが、「ハワイなら夏服がいるね」などと言う日もあれば「こんな苦しい状態では飛行機に乗れない」などと同じ会話の繰り返しが仕事御用納めの当日まで続きます。最後のダメ押しで「ここまでしてハワイに行かなければ死ぬまで呪われるぞ」と脅していざハワイへ出発となりました。

カテゴリー: 未分類 | コメントする

令和元年総括と一周忌

今年もあと1日となりました。このブログを読まれる頃は新年になっているかもしれませんが、昨年末からの父の病状が悪化して今年の初めに亡くなりましたので、もうとっくに喪が明けていい時期なのですが、まだ喪に服していますので2年連続で年賀を出していません。これから先2年続けて年賀を出さないなんて多分自分があの世に旅立つときしかないような気がします。今後は葉書での年賀は減少して、メールやスマホでの年始のご挨拶が増えていくかもしれません。今年の1月10日に父が亡くなりましたので、1周忌は本当なら年明けにしたかったのですが、年始早々で曜日の関係やお寺や我々親族の都合もあり先週の慌ただしい年末に早々と終わらせました。父が倒れてからバタバタと診療所の継承新規開設をして、看病しながら半年を経て亡くなったら亡くなったで戸籍変更などの手続きの嵐でお役所詣が続き、それが終わったと思ったら遺産相続手続きが始まり気付いたら1年半が経過して今回の1周忌を迎えていました。葬式までは勢いの如く時が流れて49日までは気も落ち着かずにバタバタしてやっと納骨の時に少し故人を想い振り返ることができましたが、本当にやっと全てが終わったと心底思うのは遺産相続税を銀行から振込みその後に1周忌を終えて新年の年賀を書く頃になるのでしょう。そういう意味で今回の1周忌は過去の決別と未来志向に変わる時期がやっと来たのかなと感慨にふけっています。また先日のブログでも書きましたが、新規の個別指導が終了するまでは仕事もなかなかギクシャクしていました。また2年程度先にやって来る遺産相続税務調査もあります。2年先の事なんて鬼ではなくお役所も笑いそうですが、それでも痒くもない目の上のたん瘤を触れられそうで今から溜息が出ます。しかし一応この1周忌を機に新たな歩みをやっと踏み出すことができそうです。

今年を振り返ると後にも先にも親の事で振り回された1年でした。巷では令和となり新しい時代になりましたが、私からみれば令和2年が令和元年の1年遅れで事が進んでいきそうです。その他に今年は何があったかを思い出そうとしますがなかなか思い出すことが困難です。世の中はラグビーやTokyo2020で盛り上がっていますが、私の中ではやっと余裕をもって周りを見渡せるようになりました。バタバタしている間にいつの間にか長男が我が母校の後輩となり医学への道の一歩を踏み出して嬉しくも一方では大変な道を選択して身も引き締まる思いです。時代が異なるので昔とは比較できませんが、親の子供への介入が少子化のためか明らかに強くなっています。亡くなった父は私が大学時代に上京したことは一度もありませんでした。一方で私は学会出張を絡めて今年だけで3回も子供の大学関係で上京しています。それが良いかどうかは別にして、自分の最後の一瞬に「自分は良い生き方をした」と思えるように生きて行こうと決めた結果が今の自分の行動に反映しています。2020年は更にその思いを遂げることができるように頑張っていきたいと思っています。年明けのブログは令和2年ですが、私にとっては元年の始まりです。

カテゴリー: 未分類 | コメントする