平成最後の受験

昨年の長男の大学受験は広島でセンター試験を受けてその後は学校や塾で体調管理と試験対策をこなしながら3月初旬の1か月半を東京や関西や九州に受験旅行で何度も新幹線の往復でした。長女の時は九州から新幹線や飛行機を駆使しての往復でした。受験校は本人が決めなければ親が決めることはできませんが、ホテルや移動は親がアレンジするものだと思っています。やはりまだ社会でもまれてないせいか、新幹線と在来線の乗換えやホテルから受験校への移動手段にしても「もし雪が降ったら?」とか「在来線が止まったら地下鉄に切り替えなければ」とかなかなか知恵が働きませんし、ましてや試験直前の者にそんないらぬ心配を考えさせるだけ無駄というものです。ですから長女の時も昨年の長男のときも私が仮想の受験生に変身して自分が試験会場までのシミュレーションをしてネットで移動手段からホテルまで予約しました。これが世間からみれば過保護と言われればそうかなあと思いますが、それくらいまでなら許されるのではないかと思います。なぜなら最近の親は一緒に子供と受験会場まで行くことも多いのだそうです。それには過保護かもしれないと思っていた私としては目が点になりました。

自分の高校時代は皆、新幹線とホテルだけは親にとってもらいましたが、一人で受験に行きました。逆に長女の時に女子にも関わらず親が一緒について行かないと言うと逆に怪訝な顔をされることもありました。ただしこの1か月から2か月の長丁場で何度も上京するのはやはり肉体や精神的にも疲れます。自宅から受験会場に行ける受験生の方が体調やスケジュール管理など全てにおいて有利ではないかと以前から思っていました。ですから昨年長男が浪人すると決まった時には上京して予備校の寮に入れるのもありかと思ったのです。長女が寮に入った時は新幹線に乗って1時間で行ける小倉でさえも月に1回も会いに行くことはありませんでした。それなら新幹線で4時間の東京でもそんなに変わりないのではないかという結論に昨年には達していたのです。広島でさえも寮に入れば親は安心なんてことはないということは長男の高校時代の行動で痛いほど経験させられました。精神的な距離が遠いという意味で東京や大阪が遠いとか、寮の近くに繁華街があるから浪人した子供に誘惑があるのではとよく聞きますが、その場合博多でも広島でも状況は一緒ではないかと思うに至ったのです。またスマホ全盛のこの世の中では田舎でもたくさんの誘惑が画面にはいっぱいです。言われればその通りと思うのですが、経験しないと実感できないでしょう。その点では早いうちからいろいろとやらかしてたくさんの心配を経験させてもらった長男にはある意味感謝しなければなりません。その経験を踏まえて次男は中学からおもいっきり寮に入れる決心がついたわけです。

今年の長男の受験は自宅から受験会場に行けるためホテルや移動の心配がいらないのでその点は昨年と異なり安心ですが、それと桜が咲くのか散るのかは全く別次元の問題であることに変わりはありません。

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社会的問題にまで発展した医学部不正入試

昨夏から社会問題化した医学部不正入試事件ですが、いよいよ医学部入試がスタートしました。そこで受験生の皆さんにとり今年の入試は絶対に男女差別や年齢差別はないと思いますので悔いのないように全力で頑張ってほしいと思います。今回の不正入試に関しては明らかに差別であり、ルール違反ですのでお咎めがあっても仕方ありません。しかし受験生や大学内の学生が悪いわけではありません。勿論、ルール違反して入学した学生に問題はありますが、全て本人の責任というわけでもなく複雑です。不正は決してよくないのですが、医療現場を知る者としては医師という職業は時間外労働など昔から労使協定など蚊帳の外で過労死など当たり前です。女性が結婚、出産したら倍の仕事を残った男性がカバーするのも当たり前でそれに対して国は人を助けるという大義名分を盾にずっと働き方改革に目を背けてきました。今でこそ現総理が働き方改革を訴えていますが、医師の時間外労働は全く無視されています。そして病院の救急外来にはコンビニ受診が後を絶ちませんし、救急車をタクシー代わりにする輩もいて本当に必要な急病人が手遅れになることもしばしばあります。そのような無責任な政治や国民の行動が背景にあるということも事実です。ですから最初は不正入試で始まりましたが、次第に論点がずれていろいろな問題が浮上してきました。個人的には今までタブーとされてきたパンドラの箱を開けたことは良かったのではないかと思います。なぜならそれによって社会に考え直すチャンスそして社会構造を変えるチャンスを与えることができるかもしれないからです。

話を元に戻しますが、不正入試は悪い、それで終了です。ではなぜそのような事になったのかといえば医師を育てるには学校で6年、それから研修で6年かかります。結局最低でも12年かかるのですが、それでもベテラン医師には太刀打ちできません。そして国からの財政支出がかなりあります。特に国立ではほとんどが税金で賄われます。以前に国立医学部を卒業して医師免許を取得してテレビ局に入社した者がいましたが流石にやめてほしいと思います。また50歳の方が医学部入試で不合格になり裁判を起こしましたが、裁判所はある程度の年齢制限はやむを得ないことを是としました。流石に今回の男女差別で裁判を起こせば勝つでしょうが、それでも考えてほしいのです。今の日本の医療現場の現状を知ってほしいのです。決して女性に医師になるなと言っているのではなくて、もし本当にこれから高齢化を迎えて日本の医療を支えていくとすれば倍の人数がいてもおかしくありません。しかし政府は医師の人数を制限して日本医師会も同調しています。しかし本当に国民目線で医療を考えるなら医療政策は全て国が主導しているわけですから結局は医師免許を持つ者全てを国家公務員にして国家統制しなければならなくなります。そうすれば挙句は社会主義国家のように崩壊するのではないかという危惧もあります。日本の官僚も国家公務員で不祥事もしょっちゅうですが、志を高く持つことが一番の難問でしょう。医師免許をもてば国家公務員、それも一案かなと今回の不祥事についてない頭で考えています。

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命と継承どっちが大事

今だからこんな話ができますが、昨年の527日の日曜の朝の6時頃でした。晴天の気持ち良い朝で今日も1日何をしようかとコーヒーをのみながらくつろいでいました。そこに1本の電話が自宅にかかってきます。「こんな朝早くから何事?」と思いながら出ます。相手は父が入院している病院の看護師からです。「急変して心臓が止まりましたので心肺蘇生を施しています」という内容でした。その後はよく覚えていませんが、電話を切って家内や子供を起こして一言「心臓が止まったのですぐに病院へ」と大声で叫んでいたように記憶しています。弟にも連絡するのですが、手が震えてスマホの番号がうまく押せませんでした。心の中で「落ち着け」と何度も呪文のように繰り返しますがなかなかうまく電話をかけられません。それから病院へと駆けつけ一命はとりとめるも人工呼吸器や点滴やモニターなどがいっぱいでICUにいます。そこまでは流れに身を任せて病院スタッフの言う通りに従うだけですのである意味何も考えなくてもどうにかなるのです。しかしその後に頭の中に「診療所の継承はどうなるの?」という不安が過ります。もしこのまま亡くなればお役所手続上では閉院手続きをしてそれから開院手続きをしなければなくなります。勿論以前から準備していましたのでまだ冷静に事を運べましたが、それでもこの非常事態では頭の中はかなり混乱しています。遡求手続についてもある程度は理解していましたのでどうにかなるとはわかっていましたが、それでも頭の中はぐるぐると巡り巡っています。人一人の命がかかっているのに一方では死んだら困るので死ぬまでに書類手続きを済ませなければなりません。ですから人の生き死によりもお役所手続の方が妙に頭の中でリアルにうごめいているのです。多分この感覚は以前、祖母が亡くなった時にDrからご臨終ですと宣告されるまでは手をさすっていたのに宣告されたら急にどこの葬儀社に電話するのかとか市役所に死亡届を提出しに行かなければならないとかそんな雑念が頭の中で悲しい回路とは別の回路で周り始めた時の感覚と似ています。「ああ、あの時の感覚に似ている」と感じたのです。

どこの国でも一緒なのかもしれませんが、ことお役所手続に関しては万国共通でその手続きが終了しない限り、ルールはルールで例外は認められません。なんか変な話ですが、本当に故人を慕う気持になれたのは葬儀社がしっかりと死化粧をしてきれいな顔を御棺から覗いたときに初めてホッとしたことを覚えています。今回も同じようにその日は1日のうち大半は継承手続きのための連絡で医師会の事務長さんや税理士さんなど多方面の方に電話しまくっていました。「頼むから、継承手続きが終了する一両日中までは生きてくれ。それが終了すればどうでもいいから」などと冷静な状態では考えられないような回路に電流が流れていました。お役所手続は重要ですが、もう少し融通の利くような対処をしてほしいと思います。特に日本のお役所は本当に融通が利かないと思うのは私だけではないでしょう。ピンチの時に助けるのが本来のお役所仕事だと思いますが、甘い考えでしょうか?

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長い長い年末年始

本日は皆様にご報告をしなければなりません。半年余りの闘病生活の末、平成31110日に私の父が亡くなりました。以前から状態は悪かったのですが、超低空安定飛行でどうにか飛行を続けていましたが、先月末の天皇参賀の上京から帰ってきた翌日の早朝に電話で父が危篤状態になったのが1225日でした。奇しくもその日は父の90歳の誕生日でした。それまでも超低空飛行で危なっかしい時期もありましたが、やはり昭和一桁生まれは強いという一言に尽きます。ほぼ意識の遠のいた父もせめて自分の誕生日までは頑張りたかったのかもしれません。

それから長い長い年末年始が始まります。最初は数日で年末くらいには結果が出るだろうと思っていましたが、1日、2日と経過して大晦日までにはと思いながら年越しです。せめて元旦だけは避けてほしいと思っていましたが、早13日に突入です。最初の頃は脈拍が1分間に80から90回打っていましたが、過去の経験から危篤状態に陥るとおよそ48時間で脈拍が落ち始めて血圧も上が80mmHgを切り始めて脈拍が60台になるといきなり心臓が止まってしまいます。過去に多くの患者さんを見取りましたし、自分の祖母が亡くなった時も同じパターンでしたが、今回は危篤状態宣言から早8日目に突入です。その間交代で泊まり込みもしましたが、皆体力や体調維持の限界にきまして大晦日の夜は父には悪かったのですが、皆それぞれ帰宅して休ませてもらいました。またこのような状況で年末年始が過ぎていきましたので、毎日が長いような短いようなおめでたいやらそうでないやら何となく訳のわからない混乱した1週間でした。私の過去の経験からこれ程長く引っ張られたのは初めてで余程父はまだこの世に未練があったのかもしれません。しかし生きるものは必ず死を迎えるというのも事実でいろいろ考えさせられました。また少し不謹慎ですが、暦の上で友引などの日取りもついつい考えてしまいます。正月明けの仕事の予定や通夜や本葬などの日程も知らず知らずのうちに意識してしまいます。自分の性格なのか日本人はほぼ皆同じなのかはわかりませんが、家族が危篤状態に陥るとついつい次の儀式の日程が気になります。そんな事を気にせずになるようになるさと思える性格が一番幸せなのでしょうがなかなか難しいものです。

そして父が亡くなり通夜や葬儀をして一段落つきましたが、まだなんとなく宙に浮いたような気分です。自分としては仕事をしながら平常でいるつもりなのですが、実際は諸手続きの実務などもありまだ通常モードに戻っていません。本当に落ち着くのは49日が過ぎてからでその頃になるといろいろと過去を振り返って思うことが出てくるのではないかと思います。また丁度長男は現在受験戦争の真只中ですので、それはそれで頭の中では別の場所で電気回路がショートしながら動いています。ただ父の葬儀を見ているとたくさんの方に見送っていただき父の人生90年は良かったのだと思っております。この場をお借りしまして御礼申し上げたいと思います。誠にありがとうございました。

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私の知らない東京

前回はフェルメール鑑賞までお話しましたが、その日はもう一つの目玉靖国神社参拝をしてきました。これも次男が上京したら是非行きたい場所でした。次男は学校では理数系よりも社会が得意です。理数系の得意な私からすれば日本史、世界史など高校時代は全て暗記科目に思えて大嫌いでした。しかし歳を重ねるごとに歴史でも特に日本史の重要性は身に染みて感じています。なぜなら自分の母国の歴史を知らないで黒船たちと戦うことはできないからです。母国語をしっかり読めて話せて書けることは日本人として大切なことは言うまでもありませんが、現在の混沌とした世界情勢の中では、北方領土、竹島そして尖閣諸島問題などまずしっかりとした日本史を義務教育で教えないと結局は中国や韓国やロシアにしてやられます。これからも簡単に解決できない問題ですが、知らないでは済みません。今回の靖国神社も戦後史からみれば非常に重要で複雑な問題が絡んでいることに間違いありません。ですから一国の総理大臣が参拝するかどうかで外交問題にまで発展してしまうのです。私も社会は不得意ですので靖国問題については不勉強で詳細はわかりませんが、大雑把な事はわかります。しかし「その大雑把な事さえ知らない若者がなんと多い事か!」とい事実を嘆きたくなることも事実です。次男は元来社会が好きでしたのでそのあたりは理解していたのでしょう。よって本日靖国参拝と相成ったわけです。靖国の大きな門を目の前にすると自然と背筋がピンと伸びてきます。どういう理由にせよ日本の為に命を捧げられた御霊に対しては敬うのは当然です。しかし世界共通の考え方ではありません。ですから史実だけでもしっかりと知らなければならないのです。

翌日には国立西洋美術館でルーベンス鑑賞をしました。これはフランダースの犬で出てきましたので、我々の世代は月曜の夜7時からのカルピス劇場で名前を知っている方は多いのではないかと思います。若い頃にルーブル美術館など行きましたが、ルーベンスの作品は結構観ていましたので今回もその宗教画を見ると若い頃を思い出してしまいます。最近CMでフランダースの犬のパロディをやっていますが、個人的にはパロディは好ましいと思っていません。その後は中野ブロードウエイに行きました。学生時代に阿佐ヶ谷に住んでいましたので近所ですが数回しか下車したことはありませんでした。現在はいろいろなレアものが集まる昭和の世界があるということを次男から聞いて初めて知りました。実際行くと本当に若い頃を思い出す品々が豊富でした。特に仮面ライダーのカード写真を私も当時集めまくっていましたので、もしそれらが現存していれば少々の小金持ちになるくらいの価値があることにはビックリしました。

私の知らない東京が30年の時を経て次世代の子供たちによって再現されてきました。当時もっとこんなことをしていればと思いますが当時はそのように思いません。何十年という人生経験をしてからその当時が再現されるのだと思います。これからも上京することは多々ありますので、私の知らない東京の再発見を楽しみたいと思います。

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