佐賀に我が子を預けるにあたって ~その2~

2月の第1日曜日、前日から1泊で佐賀までドライブがてらに3人で入学説明会に行ってきました。電車で行く手もあったのですが、今後6年間何回も往復しなければいけない道のりです。まずは夜間でも駆けつけることができるように道順の確認です。カーナビを駆使して山陽道から九州道の高速を走ることおよそ3時間で佐賀市内に入りました。やはり高速は便利です。市内のホテルで1泊して翌朝からの入学説明会に臨みます。佐賀は私にとって無縁の土地柄でしたが、これからは二男にとっては第二の故郷になるのですから人生なんて何が起こるかわからない面白いものです。

翌朝、およそ15分で市内から少し離れた小高い丘にある学校に到着しました。周囲には同じようにこれから6年間一緒に過ごすことになるのであろう未来の友人が続々と学校の入学説明会に到着しています。とりわけ寮生になる予定の県外ナンバーの車から降りてくるお子さんを目の当たりにするといよいよ二男の第二ステージの始まりを予感させます。本当にその気分に浸れるのは入学式なのでしょうが、世のお父さんは普通の4月の第一月曜に入学式に出席することなんて天と地がひっくり返ってもあり得ないシチュエーションです。一足先にこの入学説明会で父親としての子供の新たな第二ステージの幕開けを見届けたかったのが今回の入学説明会に出席する目的だったのかもしれません。入学式とは異なり厳かな雰囲気はありませんが、これから始まる青春時代をお世話になるこの学校での人との出会いにどの子の目もキラキラと輝かせています。

最初に校長先生からの挨拶、そして教務主任の先生からいろいろと説明、注意事項が続きます。我が子を含めて皆真剣な面持ちで食い入って聞いています。それから制服の採寸や教科書販売に移ります。そうすると今まで相当な緊張状態から解放されたのか子供たちや親の顔が少しずつ和んできます。私もやっとと言っていいのでしょうか、過去の3年間の呪縛から解放された一瞬でした。3週間前に合格通知を速達でいただいた時から第二ステージは始まってはいたのですが、なにせピンとこなくてまだ半信半疑の状態だったことには間違いありません。目の前に実物大のモノを見なければなかなか実感なんて湧いてくるわけがありません。その実感をひしひしと受け取るためにわざわざ佐賀にまで足を運ばなければならなかったのです。その後本日のメインイベントの寮の見学です。これから6年間一緒に同じ釜の飯を食う無二の友人になる可能性を秘めた同志も多くいます。私や上の子供たちはこのような経験をしていません。長男は高校から寮に入って同じ経験をしていますがこのように中学生からの初々しい経験はないのです。私に至ってはこの50年間全く経験がありません。今思えばもしかすると自分が50歳になって人生を振り返ってみて唯一できなかったことで子供に経験させてやりたかったこと、それを最後の最後に末っ子に押し付けたのかもしれません。帰る間際の学校の高台から見た佐賀市内の素晴らしい光景がこれからも度々このブログにも登場することを願いながら佐賀を後に家路につきました。

佐賀市

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佐賀に我が子を預けるにあたって~その1~

我が末っ子も無事に姉兄と同じように中学受験を終えました。上二人は広島の中学校に行きましが、末っ子は佐賀に決まりました。この春から寮生活が始まります。なぜ寮?という疑問があるかもしれませんが、私が上の二人を育てながら得た結論から昔と比較して現在の子供同士の関わりが希薄になった時代、皆が勝手にスマホやゲーム機でピコピコする時代、歩くときや食べる時ですら右手に箸をもち左手にはスマホの時代、それらは絶対におかしな時代だと確信しています。早かれ遅かれそんなおかしな時代に中学生になっていく子供たち。だったら少しでもそんな個人的に非難する邪悪の世界に染まる前に健全な人対人関係を作らせるにはどうすればいいか?と考えたら寮の中で同じ志をもった人間の中でもまれることが自分の子供の人間形成に最適ではないかという思いに至ったのです。寮は同じ思春期の子供たちが集まって生活をする場です。先生の目をくすねてゲーム機やスマホを持ち込んで怒られる子供もいるはずです。それはそれで集団生活の中でのルールを破ると大変なことになると身をもって体験することは将来プラスになるはずです。実際にいろいろな寮のある学校の説明会に参加してその寮監さんのお話をうかがうとおっしゃることはどこも一緒です。思春期の子供がたくさんいるわけですから、ぶつかりあいなどもあるし小さなイジメも存在します。イジメがない世界などはあり得ず、その芽をいかに早く見つけて摘み取れるかが重要なのです。それは地元の中学だろうが社会人になろうが一緒です。ただその中で揉まれて少しでも人間的に成長してくれれば13歳から旅立ちをさせても決して早くはないのではないかと思ったわけです。長女は6年間電車通学、長男は高校から学生寮に入寮しました。末っ子はさらに3年早まっただけです。

もし自分が13歳に戻ることが可能なら入寮して6年間の中学高校生活を謳歌したいと思います。そのようなタイムスリップがかなえば多分その当時の寮監さんは当時の体育の先生が思い浮かばずにはいられません。竹刀をもって何かあれば皆並んで正座をさせられて往復ビンタでしょう。でもその当時はそれでよかったし今でもその当時のことを否定する気もありません。かの文科省大臣が過去に体罰を与えたことを昨年謝罪していました。現在を生きるものとして現在のルールの中で過去を反省しただけで、過去にタイムスリップすればやはり体罰は正当化されていたはずです。昔と比べて社会が希薄化して考え方が多様化したと言えば聞こえがよいのですが、悪く言えば身勝手な自己都合を押し通す軽薄な世の中になってしまったとも言えます。その一端は小学から中学の15歳までの義務教育の変遷が影響していると思います。昔から寮のある伝統校を何校も見て回りましたが、どこも少子化で進学実績を掲げなければ立ち行かなくなり、東京大学合格者数や国立大学医学部合格者数を気にしています。しかし一歩校内に足を踏み入れてみると昔自分たちが地元中学で学んだ頃のあのかすかな懐かしい匂いを至る所で感じ取ることができるのです。次回はその最初の行事である入学説明会のことについてお話したいと思います。

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継承者も「男はつらいよ」

安倍晋三総理や小泉進次郎衆議院議員は世襲議員です。厳密に言えば祖父の時代から世襲されてきているので継承2代目ではありません。医者の家系でも私の友人で5代目という人物もいます。それだけ継承されてくるとおいそれとその家系をつぶすことは周囲のプレッシャーが強すぎてできないのでしょう。その典型例が皇室です。一方、1代で会社を築いて財を成す成功者は書店に行くとビジネス本などを見渡すとたくさんいます。政治家で言えば現在では橋下徹さんで過去を見れば田中角栄さんでしょう。では継承2代目で成功している人は?といえばあまり頭に浮かびません。私が経済や社会に疎いのも一つの理由かもしれませんが、それをさっぴいても思い浮かびにくいのではないでしょうか。この世の中は一代で華々しく散る人々が最も多く2代目がその財産を食いつぶしてしまうこともよくみかけます。そして3代目までいくとある程度軌道に乗るのかもしれません。そこで以前ブログで書いた徳川秀忠の登場です。私は今でも秀忠が好きなのですが、今回は継承2代目が何をしなければいけないのか?何をしてはいけないのか?についてこの正月に寝転がりながら考えてみました。

まず失敗する典型例、それは親の七光りを利用しようとする輩、または親の財産、これは知的な情報や人的財産からお金に至るまでの全ての自分の力で得たものではないのにさも自分が勝ち得たものと大きな勘違いをして食いつぶしてしまう輩です。これは過去を遡っても現世でも多く見かけます。2代目が1代目を更に上回って大きくした事例も多くあると思いますが、これはあくまでも1代目の知的、物的財産を全て引き継ぎうまく活用して大きくしたにすぎません。もし2代目が1代目だったら本当に成功していたかという前にその業界に進んでいたのか?という根本的な疑問も湧いてきます。多分2代目の成功というのはいかに1から3代目にバトンを受け渡すことが長けているかにかかっているのではないかと思うのです。その後3代目もしかり爺さん、父さんの背中を見ながら育ってきたため自分の生き方は生まれた時からかなり限定されています。その意味ではその血筋をひくDNAをもったサラブレッドという言い方をすれば聞こえはいいのですが、その道で成功できなければお家断絶をしたA級戦犯にされるのです。とても厳しい状況で生きていることは確かでしょう。その意味では親が普通の人で小さいけれども幸せな家庭で育った人生というのも決して悪くはない人生だと思います。

2016年、一億総活躍社会をうたっています。それは非常によいスローガンです。機会均等の平等社会と政策では掲げていますが、まずこの世に生まれたときからチャンスの平等は制限されています。チャンスを与えてもらう平等の権利について橋下徹さんが語れば「その通り!」と頷くことができますが、継代の現総理が声を大にして言われても「あまり説得力がないのでは?」と思うのは私だけでしょうか?少しひねくれた言い方になったかもしれませんが継承者も「男はつらいよ」という表現がぴったりかもしれません。

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前を向こうと決心すると明るくなれる

人生は山あり谷あり。朝起きて朝日を見るとやるぞ!という気持ちになり、夕焼けを見て今日もよくがんばったと感慨にふける。しかし夜寝床についてふといらぬことを考え始めると不安が迫ってくる。これって人生で死ぬまで繰り返されます。また後ろ向きに物事を考えると悪いことばかり頭をよぎって一層暗くなってドツボにはまってしまいます。では前向きに事を考えるとどうなるでしょうか?グルグルとラビリンス巡りをしているうちに考えること自体に疲れてきて「もう、どうにでもなれ!」と考えるとふっと今まで呪縛されてきた悩みが一気に解決はしませんが、「なるようになるさ」と思うだけで全然展望なんて開けませんが、心がほっと一休みできることってありませんか?多分、あれこれ悩むと本当に解決しなければいけない焦点がぼやけてその周辺をグルグル回って悩みが増幅しているのではないかと思うのです。そしてもう一度焦点のみに光を当ててみても決して解決できずに最も難解な問題が待ち受けているのですけれども、結局はすぐには解決できるほど簡単なものではないため「前を向いてやるしかないじゃん」と開き直ると急に明るく元気になることもあります。しかしそのようにプラスに考えることができない人も世の中には多いのではないかと思います。自分はどちらかといえばマイナス思考です。しかしどこかの時点でプラス思考になろうとその理由づけをして考え続けて、どこかで折り合いをつけて楽観主義者に変身していきたいのです。同じ生きるならどっちがお得?と考えると明らかにプラス思考の方がお得なのは自明の理ですよね。

では前を向くにはどうすればよいか?それは何事にも逃げないことでしょうか?広島カープの郷土出身の故津田選手の有名な言葉で「弱気が最大の敵」という私が好きなフレーズがありますが、その格言が全てを言い表していると思います。見えない敵ほど恐ろしいものはない。しかしよくよく目を見張って見ると目の前の見える敵はたいしたことはなく自分が勝手に見えない敵の虚像を作りだして自滅してしまうパターンが多いのです。受験でも受験という雰囲気やプレッシャーに飲み込まれて負けてしまうパターンです。本当はもっと実力があるのにと言われるけれどもブルペンエースでマウンドに立つと打たれて交代させられてしまうピッチャーなどあげればきりがありません。そして「もし・・・・たら、れば」と彼等は言います。しかし「たられば」を言った時点ですでに敗戦投手になっているのです。本当に勝ち残っていく人間は「たられば」を言わないと思うのです。しかしその勝者も最初から勝者であったとは決して思いません。多くの失敗を重ねて自分と向き合って必死で考えて強者に変身していったはずです。じゃないと世の中で「ひたむきな努力」という言葉は死語になってしまいます。

「上を向いて歩こう」という有名な故坂本九さんの曲のように、上や前を向いて歩くことは決して簡単なことではないのですが、変身して自分が変われるチャンスは誰にでもあるのです。蛹から蝶への変身願望をいつも持ち続けていたいものです。

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不安の度合いは本人の精神状態に左右される

皆さんも悩み事は多かれ少なかれあると思います。無い方はいないでしょう。悩むときはちょっとした些細な事でもくよくよします。夜寝付く前に枕元であれやこれやと考えていくと頭の中で堂々巡りがおこり初めに何を悩んでいたのかわからなくなることってよくありますよね。そして朝起きた時には昨夜はどうしてそんな些細なことを深刻に悩んでいたのだろう?と疑問に感じることもよくあります。逆もしかり。夜はこれで大丈夫と悩みを解決したつもりで明日からがんばるぞと思って寝たのに翌朝に新たに悩みをみつけてどうしよう?と更に深みにはまることもあります。なぜそのようなことが起こるのでしょうか?多分見えない仮想の敵を相手にしているからではないでしょうか?当たって砕け散ってもいいやと思いっきりぶつかってみると意外に簡単に切り抜けられことも多く過去にあったのではないでしょうか。つまり本当の敵は自分の不安の中に潜んでいるのです。その不安が自分の中で増幅してお化けのように不安が大きくなって前が急に見通せなくなり更に不安が増していきます。反対に絶好調の時は少々不安があってもそんなもの気合で乗り切れるなんて簡単に考えられるでしょ。結局は自分の前に立ちはだかる困難は自分の中で処理しきれる精神状態の時とそうでない時によって変わってくるのだと思います。また絶対的な不可能な問題のときは本人が最初からあきらめているのでその不安の対象になりえないのです。例えば自分がもしアメリカ大統領になったらとかノーベル物理学賞を受賞したらとか国際宇宙ステーションに滞在したらなどということは絶対的に不可能に近い未来であり悩む対象になりません。東大を受験して落ちたらと不安になるのは少なくとも努力してギリギリ合格できるかもしれないと期待感もそれなりにあるから不安が現実となるのです。もし何も勉強しないで東大受験してもし不合格になったらと悩まないはずです。絶対的な自信をもって臨んだのに不合格になったらそれはどん底に突き落とされて当分の間は這い上がれないこともあります。しかし人間とは強い生き物で絶望の淵にいてもいずれ復活してきます。ただし絶対に諦めないという気持を持ち合わせていることが絶対条件ですが。かの有名な発明王エジソンも「諦めなければ失敗はない」と言っています。1000回失敗しても1001回目に成功すればそれでよしです。999回目で不安になるかもしれませんが、不安とは1000回目に対する不安であり自分の精神状態さえしっかりしていれば乗り切れるのだと最近少しだけ思うようになってきました。

人間はとかく弱い生き物で目の前の事に不安になりちょっとしたことでもくじけそうになるのが常です。絶対的に強い人間なんていないはずだと思っています。それを人前で見せるか見せないかだけの違いではないでしょうか。不安があるということは可能性がゼロではなく博打でサイの目が偶数か奇数かという半々の確率のとき最大になるのであって、それは成功する可能性も期待できる時なのです。と夜と朝に自分に言い聞かせながらいろいろな不安と闘いながら日々奮闘しているのです。

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