「もったいないお化け」覚えていますか?

以前「もったいないお化け」という言葉が流行しました。1982年にテレビであの日本昔話のナレーターが担当したCMと言えば「ああ、あれね」という方も多いはず。現在、日本のあらゆる場面でこの「もったいない」という場面に出くわします。現在の日本ではよほどのことがないかぎり飢死はあり得ません。そして食べ物があふれてありとあらゆる場面で食べ残されて残飯で捨てられていきます。世界中ではまだ飢餓で多くの生命が危ぶまれている国はたくさんあるのに。そしてテレビでも大食い・早食い競争などの企画がもてはやされ視聴率もとっています。グルメの旅などは文化として肯定しますが、大食い・早食いなどは食べ物をもっと大切に扱ってほしいなと思うのは私だけでしょうか?早朝の街中の路上に置かれた生ごみをカラスや猫があさって散らかしています。最近はかなり分別ゴミにうるさくなり分けられるようになりましたが、それ以上にもったいない食べ残し。特に都会の繁華街の朝のこの光景にはもったいないお化けが登場して「食べ物を粗末にするな!」と叫んでいます。薬もしかり。高齢者のタンス預金ならぬタンス預薬は日本中で合算すると何百億円にもなるとのこと。認知症で老老介護の超高齢者社会に地方の限界集落を考えればこれからはタンス預薬がもっと増えて数千億円に達するかもしれません。だから厚労省はこれから増え続けるもったいないお化けに打倒するために良きにせよ悪しきにせよ改革を断行しています。しかし失敗した時の責任を誰もとらないのがお役所の典型でそこにもお化けが出るべきだと個人的に思いますが皆さんいかがでしょうか?

次にエネルギー問題に移ります。原発事故以来節電に対する国民の意識は変わってきました。それまでは原発であろうが石油を燃やして火力発電であろうが電気を空気や水の如くこの日本国は垂れ流していました。それは街の明かりやネオンそして時代の流れとはいえ24時間営業で各家庭では深夜族など挙げればきりがありません。しかし中国をみれば空気は我がもので汚しても「他国には関係ねー」と言わんばかりです。砂漠の国々では水はとても貴重です。少なくともきれいな水に恵まれた日本のようにふんだんに使うことなど許されません。水が使いっぱなしで流し放題を見るとやっぱり少しこの国はずれた方向に進んでいないかと心配になります。きれいな空気もどんどん森林が伐採されて汚れていき二酸化炭素が増えて地球が温暖化に進んで記録的な台風やゲリラ豪雨が増えました。もし気候変動で水不足に日本が直面したら国民皆が昔の太平洋戦争の頃のように耐え忍んでいけるのだろうかと心配です。

いろいろな場面でもったいないお化けが登場してきますが、お化けはあなたのすぐ後ろにいて囁いているのではないでしょうか?「日本は豊かになったけれども、本当にあなたはこれからもこの豊かさを維持していけるのですか?世界中では維持できずに苦労している人々はたくさんいるでしょ。それを忘れてはいけませんよ!」と訴えかけているように思えてなりません。

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風邪が治ると風邪を治すは全く違う

「風邪をひいたから薬ください」とか「風邪が治る薬をください」とよく言われます。日本語の使い方としては間違っていません。しかしよくよく紐解いてみると、医師は「風邪の症状を緩和する薬がほしいのですね」と言いながら処方箋を書いて、患者さんは「この薬を飲めば風邪が治る!」と思っているわけです。結果的には通常は4-5日で自然治癒することが多いため大きな食い違いは起こりません。しかし上げ足をとれば、風邪を治す薬なんてこの世に存在しないという事実を医師は誰でも知っていますが、それを今風に懇切丁寧に説明すれば「白血球などの免疫抵抗がウィルスを駆逐するためにウィルス性の風邪は自然治癒するのであって、咳止めや熱さましなどはその場の辛い症状を緩和する目的にすぎないのであって、そのような抵抗力を増進する薬はないのです」と説明しなければなりませんが、なかなか忙しい医師は説明不足になり「風邪薬を処方しておきましょう」という返答になってしまいます。同様に扁桃腺が腫れたとよく言いますが、扁桃腺はのどの奥に左右対称にあります。ですから厳密に言えばどちらか一方に痛みがあり左右対称に痛いわけではないのです。左右両方が痛い場合はむしろ「のど全体が痛い」と言った方がわかりやすいかもしれません。このように扁桃腺などの炎症で高熱が出る場合は細菌感染(俗にいうバイ菌感染であってウィルス感染ではない)が多く抗菌剤または抗生物質が効きます。これは細菌を殺す薬のため根治療法といっていいでしょう。先ほどの風邪薬は症状を緩和させることが目的ですから対症療法と医師は呼んでいます。この根治療法と対症療法は治療する点では同じなのですが、全く意味合いが異なります。ですからただの風邪なのに患者さんが「抗生物質をください」とよく言われますが、医師は「はい、それでは抗生剤を処方しましょうね」とは言わないのです。患者さんの症状や全身状態を診て確率論的にウィルス性の可能性が高ければ対症療法の風邪薬を処方して、細菌の可能性が高ければ抗菌剤を処方するのです。唯一インフルエンザウィルスの場合はウィルスを殺すのではなく増殖させずに沈静化させるタミフルの効果は証明されていますので、毎年冬に流行すれば処方します。また帯状疱疹ウィルスに効果のある薬もありますが、ウィルスに効果のある薬はまだまだ限定的です。

その他によく勘違いされやすい会話で「風邪をひいたから点滴をしてください」とか「風邪をひいたから注射をしてください」という依頼があります。これも対症療法にしかすぎず、「しっかりと食べて水分をとってゆっくりと寝たら治ります。時間が唯一の薬です」といつも私はそのように説明をして点滴はほとんどしません。しかしときに理解が困難な患者さんもいらっしゃいます。その点で私の見解と患者さんの見解が食い違う場合は「風邪症状は肺炎など悪化しない限りは、時間がたてばほとんど自然治癒しますので、心配いりませんので安静が一番!」と再度説明して終わりにします。その説明に納得していただいた患者さんは次に風邪をひかれたときも当院に来られます。

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無知とタダほど恐ろしいものはない

「無知ほど恐ろしいものはない」という言葉がよく聞かれます。意味は異なりますが、「タダほど高いものはない」というフレーズとよくセットで考えてしまいます。どちらの言葉も結局は「それじゃあいかん。もっとしっかりと物事を見極めなきゃダメだよ」という教訓的なフレーズだと解釈しています。まず無知について。たとえば憲法9条の改正についての無知のまま国民投票に持ち込まれて過半数が賛成すると、衆参両院で多数決にかけられて3分の2以上の賛成を得られたら日本は戦争ができる国になると反対政党は言い続けています。しかし賛成政党は憲法改正したからといって=戦争することはないと反論します。また消費税でも国民福祉のために使うとしていますが、実際に入ってきたお金に名札はつかないので曖昧になってしまいます。マイナンバー制度もしかり。国民皆平等精神にのっとって税の徴収や役場での福祉医療制度の簡素化をしますとうたっています。なるほどそう言われたら「そりゃ、素晴らしい!」と思うこともあれば、いずれ改正されて戦争ができる国になる足がかりにされると警戒する人もいます。どちらが正しいかなんて結局のところわからないのが真実でしょう。しかし表と裏があるように国民は自分たちの国を守るためにそれこそ清き1票を投じる必要があるのです。それを無知であることを認めたまま投票を棄権したりすることこそが問題なのです。現代の世の中はとかく無責任なことが多いことは承知の上ですが、それでもこれからの将来の日本の方向性を決めることなのでもっとしっかり関心をもって無知から脱却しなければなりません。日本国民が無知なのではなく、国民が考えなくなることが無知へとつながり暴走して将来の世代につけをまわしてしまうのです。

もうひとつのタダですが、これは無知よりもお金が絡むことなのでもっと実感できるのではないでしょうか。資本主義経済のこの世の中においてタダで得することなんてまずないでしょう。しかし人間はあさましい欲をいくつか持ち合わせているためにどうしても安きに流れてしまいます。それが悪いというわけではありません。度を越した欲を出すと必ずしっぺ返しが来るということです。貨幣経済ですから、株やギャンブルなど合法的に儲けることも決して悪くはないのですが、個人的には汗水流して儲けるお金が尊いものだと今でも信じていますしこれからも信じ続けたいと思っています。よくダイレクトメールで儲け話の勧誘が届きますが、まったくと言っていいほど興味すら湧きません。また日経平均株価が上がった、下がったとニュースで騒いでいますが、持ち株の無い者にとってはただの数字の羅列です。いずれまたはじけては膨らむものくらいにしか思えません。30年以上前のことですが、郵便定期貯金を50万円預けたら10年後に100万円になって返ってきた時代を経験しています。それも突き詰めれば株で増やすのと同じようなものですが、なんとなくマネーゲームには加担したくないのが本音です。必ず世の中は浮き沈みがあり上がり続けることはありませんから。そして下がり続けることもないでしょう。

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器の小さい人間

以前、雑誌を読んでいたら裴英洙先生が器の小さい医者、大きい医者というコラムを書かれていました。最初は素通りしましたが、読んでみると非常に含蓄ある内容でした。自分の頭の中にインプットして整理してアウトプットするのにかなり時間がかかりました。それは器=理念×戦略×人間性に因数分解できるとのことです。また文章中には別の名言も引用されています。リクルートで多くの名雑誌を生み出し「創刊男」と呼ばれている、くらたまなぶ氏の「右手にロマン、左手にそろばん、心にジョーダン」という名言です。

もし誰かに「あなたは器が大きいと思いますか?」と質問します。すると「いえいえ、私は小さいです」とほとんどの人がそう答えると思います。「私は器が大きい」と答える人がいればその人は間違いなく「器の小さい人」に違いありません。つまり器の大きさという尺度は自分が決めるのではなく他人の物差しで決まるものです。ここまでは誰も異論を挟まないでしょう。ではその器の因数分解をみるとそのコラムには理念=ロマン、戦略=そろばん、人間性=ジョーダンと対比されていますが、自分の心の中にまさに腑に落ちたという感じです。自分の中には理念、理想をいつも秘めていますが、なかなかその夢に到達はできません。結局は行動や事態を計算予測して現実的な目標を達成するように努力します。ここまではサラリーマンでも経営者でも子供でも大人でも誰しも同じ行動をとるのではないでしょうか。それでは決定的に大きく事を左右する点は理念や戦略よりもむしろ人間性ではないかと結論づけました。その結論を頭の中で整理して理論的に間違ってないかを検証してアウトプットするために時間がかかったわけです。現時点では多分正しいのではないかと思うのですが、読まれている皆さんからすれば「違うよ。前の二者だよ」と言われるかもしれません。ですから現時点での自分の中での結果と言ったわけです。これから時間が経過していろいろな経験をしていくうちに結論が変わるかもしれませんが、それはそれでよいのです。

人間性と理念は非常に重要です。しかしそれだけでは霞のようなもので生きてはいけません。その周囲には現実的な戦略、そろばん勘定もしなければなりません。そして戦略、そろばん勘定をしてもそれを凌駕するだけの人間性や理念があれば器が大きいと周囲から思われるのでしょう。医師も教師も弁護士も政治家も皆「先生」と呼ばれます。皆がイエスキリストやマザーテレサのような聖職者ではありませんが、少しでも世の中のために相手に真心を与えようとするから敢えて「師」とか「先生」と呼ぶのでしょう。しかし最近の現状をみたら「あんた、本当に先生って呼ばれる資格あるの?」という人も多いように感じますがどうでしょうか?自らも襟を正して「先生」と呼ばれて恥ずかしくないようにロマンとそろばんと人間性を全てしっかりと身につけていきたいと思います。その過程を通して自分ではなく他人が「あの人は器が大きい」と自分を評価してもらえればこの上ないことですよね。でも自分はまだまだ本当に器が小さいと思うことがよくあります。

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久しぶりの防府天満宮と初めての毛利庭園

先週の大学の県人会は盛会に終了しました。翌日の観光案内には私は所用で行けませんでしたので、私の先輩の先生が大島の回天基地跡に同窓会長の先生をお連れしました。私は史跡巡りではなく山口宇部空港から会場までの送迎をしましたが、時間が少々ありましたので防府天満宮と毛利庭園に理事長先生をお連れしました。理事長といえば大学の本当にトップなのですが、バレー部のOBでもありとても気さくな先生です。道中いろいろと楽しいお話をさせていただきました。

当日は秋晴れの気持ちの良い日和でしたので会場までの途中に少々時間がありましたので防府天満宮と毛利庭園と大平山山頂から瀬戸内海を望むという3コースをご用意して選んでいただきました。山口県に住んでいる私ですら毛利庭園や大平山山頂に上がったことはありません。大学のトップで学生の医師国家試験の100%合格を祈願したいとの強いご希望で防府天満宮にお連れしました。学問の神様では太宰府天満宮が有名です。防府も菅原道真公で有名なのですが、やはりかないません。理事長もやはり防府天満宮のことはご存じありませんでしたので境内の天満宮の歴史を読まれて初めてここも太宰府に劣らず立派な天満宮であることを理解していただきました。私も個人的には受験生をもつ親で正月にはお参りしようと思っていましたので早々に第1回目の祈願をさせていただいてお守りを購入しました。自分が受験生のときは若いせいか神頼みという言葉をあまり知りませんでしたので、自分の実力勝負で挑みました。今でも実力勝負は決して変わるものではありませんが、歳をとったせいでしょうか?神頼みという言葉が頭の中をよく駆け巡ります。次に向かったのは毛利庭園です。あと2週間くらい遅ければ紅葉がきれいだったにちがいありません。まだモミジのとがった指は赤と緑がまだらに色づいています。日中は陽気な気候でしたが、午後4時をまわっての訪問でしたのであたりの空気もひんやりとして少し肌寒く感じます。そのピンと張りつめた冷たい空気の中での緑は更に引き締まった色合いを醸し出しています。東京から来られた先生に良き思い出となっていただければ幸いとおもてなしをさせていただきました。大平山からの瀬戸内海は時間的に余裕がなく望めませんでしたが、個人的にはいつか近い将来行ってみたいと思っています。

今回の防府の立ち寄り先は地元からすればいつも見慣れた光景でそんなに行く機会などありません。翌日の回天基地跡もしかり、昔30年以上前に行ったきりです。やはりいつも見慣れているものはどんなに素晴らしいものでも色褪せて見過ごされているのだと改めて思いました。私が御上りさんで東京の摩天楼を行く度に見上げて、飛行機や新幹線から富士山が望めたら何か御利益があって良いことがあるかもしれないなんてゲンを担ぐのと同じことでしょう。いつも見慣れた景色、いつも見慣れた対人関係など本当はもっと素晴らしいことがあるはずなのにそれをいとも簡単に見過ごしてしまうそのようなことが多い普通の日常生活にはこのようなちょっとしたイベントが必要なのかもしれません。

防府天満宮毛利庭園

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