大学の県人会

先月末に大学の県人会が徳山でありました。毎年山口県の地区別に持ち回りで開催されていて今回は徳山地区の担当となり遠石会館で開催されました。山口県に同窓生は20人程度でしょうか。やはり大学時代に上京するのですから人数も限られますし、卒業後に皆が山口県に戻るとは限りません。むしろ帰らずに東京に残る医師も多いのではないかと思われます。そして県人会では必ず大学から同窓会長や学長や理事長などの要人が順番でいらっしゃいます。今回は理事長と同窓会長がいらっしゃいました。県人会を開くにあたってはホテルや宴会場の確保が必要になります。その確保は先輩の先生がされましたが、徳山周辺を見渡しても萩や山口や下関と異なりこれぞ周南というものがないなあと改めて思いました。フグでも温泉でも城下町でもないここぞコンビナートの町周南といったところでしょうか。やはり何か目玉があればもっとこの地も盛り上がるのではないかなと思った次第です。翌日には観光案内で史跡巡りなどを希望されて午後の新幹線で帰京されることが多いそうです。周南で史跡??どこだろう?と考えるとありました!大津島の回天基地跡です。これは負の遺産ですが後世まで伝えていかねばならない遺産に間違いありません。ただし船に乗って行くため天候にも左右されそうです。当日まではなかなか決定できそうにもありません。私の仕事は史跡巡りではなく県人会当日に山口宇部空港までのお迎えに上がる仕事を引き受けました。要人を車で送迎するのはとても緊張します。もしも事故ったら??と思うとハンドルも握れません。そのためタクシーをチャーターすることにしました。これなら車中でお話もできます。自家用車で経費削減と言いたいところですが、お金が少々かかっても石橋を叩いてタクシーで渡ることにしました。

さて当日の県人会ですが、緊張しながらお迎えに上がる理事長は自分よりも二回りも先輩です。車内で話すことは当時自分が学生だった30年前の大学の思い出や新宿の街並みのことくらいしか共通点はありません。私は当時大学のクラブ活動でバレーボールをしていたのですが、理事長もバレー部のOBで納会などにはよく顔を出されていました。しかしその当時ですら横に座して話し込んだことなどありません。本番の遠石会館での懇親会はまだまだ先ですが、正味2時間のタクシーの中では思い出話に花が咲きました。勿論、遠石会館での懇親会も盛り上がりその後に夜の徳山に2次会、3次会と繰り出して夜も更けていきました。昔の学生は一気飲みをよくしましたし、先輩から「もう一杯飲め」と言われたら断れませんでした。昨今では一気飲みをして急性アル中で学生が死亡したりして悪き習慣ですが、当時の学生時代を知る者としては懐かしくもあり良き思い出です。特に我が大学は医科の単科大学で総合大学と異なり学生数が少ない分、繋がりは非常に強かったと思います。また新宿のキャンパスで教養課程から専門課程まで全て受けましたので、授業や実習後やクラブ活動の後はすぐに新宿歌舞伎町に繰り出して飲み会に突入して青春を謳歌しました。そういう意味では古き良き時代だったと確信しています。

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裁判員裁判と検察審査会制度で何が変わったのか?

裁判員裁判制度が施行されてから6年が経過しました。最初は皆、恐る恐る自分は当たらなければいいなあと思っていたことでしょう。まあ宝くじに当たるようなものです。しかし最近の司法の判断で裁判員裁判の結果がよく覆されます。特に死刑判決もあり得るような凶悪犯罪の裁判員裁判では誰も関わりたくないはずですが、それでも運よく?当たってしまって参加することもあります。そして仕事の時間をやり繰りして自分の良心と向き合いながら判決を出すわけです。それも裁判官などのプロではなくあくまでも市民感覚でその結果を求められるわけです。また守秘義務もありかなりのプレッシャーもあります。ところがその出した結果が上級審で簡単に覆されます。過去の判例に照らすとそぐわないという理由で。だったら最初から検察官だけでやればいいじゃないかというのが当然の市民感覚です。経緯から考えれば当然なのですが、司法の場ではそれが当然とは言えないようです。その他にもはて?という制度に検察審査会制度があります。検察の不起訴を不服として再度審査要求をしますが、それもほとんど原審通りで却下されることが多いです。プロが不起訴としたのだから再度裁判をやっても一緒でしょ!という上から目線が伝わってきます。三権分立と同様に司法という権力構造に少しでも市民感覚的なチェック機構がはたらき始めたのですからそれは過去からみれば一定の進歩なのでしょう。しかし実際は議決してもひっくり返されるならやってもムダという諦め感が漂いはしないでしょうか。それではこのような改革はなんのためだったのか?ということになります。もっと市民感覚を反映しようということからスタートしたはずです。これでは司法の自己保持的満足に過ぎないと思いますが、皆さんはどう思われますか?

世の中には理不尽なことがいっぱいあります。それをいちいちあげればきりがありませんが、普通の人間ならどんなに残酷な被告人であり司法という立場に関与したとしても相手に死刑を求刑するということは並大抵のことではできません。よく無差別殺人などで死刑を求刑された場合に一方で必ず死刑制度反対という意見も聞かれます。これは死をもって償うという行為が絶対的な神への領域を侵すのではないかという懸念もありますし、唯一生き物で知恵と感情をもつ人類という種が自ら自分たちに対して破壊行為をしてよいのかという疑問にも繋がります。ただし個別的には死刑制度反対といいながらも集団的には国益をかけて自らの生命を守るために自衛という戦争をしかけるのも人間です。個としては小さくて小心者の人間も集団という傘下の蓑を羽織るといつの間にか勘違いして暴走化することもよくあります。「赤信号、皆で渡れば怖くない」と表現すればわかりやすいでしょう。海外を見渡せばたくさんこのような理不尽な出来事があります。その氷山の一角にこの司法問題も位置しているように思えます。何千何百万と殺戮をする戦争とは異なりますが、人が人を裁いて死に導くことに変わりはありません。個人的には死刑制度は存続すべきと思いますが、考えれば考えるほど正答にはたどり着けないような気がしてなりません。

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久しぶりの東京出張

久しぶりに週末に上京してきました。今回は常宿が取れませんでしたので神田駅近くのホテルに泊まりました。ホテルは必ず大浴場のあるホテルを探します。東京といえどもそのようなホテルはあまり多くありません。高級ホテルでは皆無に等しく、むしろビジネスマンが重宝する安くて湯ったりというフレーズのビジネスホテルが10件程度ネット検索をすると出てきます。しかしビジネス向けのため早めの予約をしないと私と同様に地方からの出張客ですぐにこの手のホテルは満室になってしまうのです。ですからいつも出張が決まる4か月以上前からホテルと格安航空チケットをネットで早々に購入しておくのが常となっています。今回のホテルはサウナ付きと朝食付きで8500円で24時間大浴場利用可能でしたので言うことはありません。JRで神田駅に降り立ちましたが、神田界隈なんて生まれて初めて歩く街並みです。東京で山手線や中央線に乗れば車窓から神田駅を眺めます。しかし下車をしたことはありませんでした。夕方に到着して早々にホテルにチェックインして晩飯はどうしようかと行く前から悩んでいました。全くの地の利がないからです。一杯飲み屋にふらっと入るか、ラーメンなどで簡単に済ませてホテルで一人酒かなどなど悩むことは尽きません。ネットで神田のレストランを調べるといろいろな店が出てきます。結局何軒か目星をつけてあとはその場の雰囲気で決定となります。そこまで準備万端にしていたのですが、今回はたまたま東京の仕事関係の方と飲む機会に恵まれまして一人寂しく秋の夜長を過ごさなくてすみましたのである意味ほっとしました。

今回もホテルにチェックインすると一目散にオアゾにある丸善に直行です。何十万冊とある本の山の中を巡ると今日も何かしらお宝本に出会えるのではとの期待が高まります。また東京駅周辺に日本一高いビルが建設されると先日新聞に掲載されていました。「このあたりにそびえ立つのかなあ」と夕闇で暗くなりつつある東京駅の傍らで空を見上げます。そしていつも思います。東京は自然の豊かさと地震の多さを除けば文化や芸術など全てにおいて田舎より秀でています。しかし土地も物価も田舎とは比較できないほど高いのも事実です。昔東京に一度でも住んだことのある人間ですので、大都会の良きも悪きも知っています。羨ましさはいまだにあるもののまた住みたいとは思いません。年に数回おのぼりさんとして上京し摩天楼を見上げる方が性に合っているような気がします。今宵は地元の人にお店へ連れて行ってもらいました。いつもと違って侘しく一人酒ではありませんでしたのでついついアルコールも多めに入ってしまいほろ酔い気分でとても楽しいひとときでしたが、翌日の仕事には少々二日酔いで臨む羽目になってしまいました。地元ではいつも見えない糸で繋がれているような錯覚をしている人間がたまに都会に出て一人で羽を伸ばすのはリフレッシュとして最適な時間と空間を提供してくれるのがこの大都市東京です。これからもうまく出張を利用しながら息抜きをしながら明日からの仕事に生かしていきたいものです。

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忘れることの大切さ

人間の記憶は脳の忘却との闘いであるとブログに書いたことがあります。脳の記憶の引き出しにいかに整理整頓してタッグシールをつけて必要な時に引き出せるか即ちアウトプットができるかが重要であることはいろいろなハウツー本などにも書かれています。そしてその忘却の波に対抗する手段としてエビングハウスの忘却曲線なるものも存在しこのことも以前書きました。しかし「人間は忘れる生き物である」という名言も過去の先人が言った言葉だと理解していますが、今回は忘れることの大切さについて少々書いてみたいと思います。

毎年9月には高校生の学校対抗クイズ王、そして年末には頭脳王なる番組があります。特に頭脳王は高校生クイズの優勝者が東大や京大に入学して新たに記憶力と計算力と独創的な発想力を駆使して日本一を競うものです。もはやその知識力は一般人からすると神憑り的に見えます。しかしその凄さを見るにつけて何となく自分もこんなになれれば人生変わっていたのにと毎年思ってしまうのです。その時インタビューで優勝者に司会者が「どうしてそんな難解なことを覚えているのですか?」と質問されると決まって「人が会話していたのを何気なく聞いていたら覚えていた」と答えます。実に脳の記憶をつかさどる海馬が異常に発達しているのでしょう。しかし逆に嫌なことや悲しいことも決して一度海馬に記憶されると忘れることができないのではないかと勝手に推測してしまいます。もしそのような悲しい出来事が記憶から離れないとしたらこれもまた悲劇です。勿論、本当に悲しい記憶なんて絶対に脳裏から消え去ることはあり得ません。しかし些細な仲間内の喧嘩やイザコザなどのつまらないことはすぐにでも消去して永遠に海馬から大脳に伝達されて記憶の引き出しに収納しなくてもいいはずです。しかし世の中にはその些細なことをクヨクヨといつまでも引きずる人がなんと多いことか!自分もそうだからそういっているのですが。「こんなつまらないこと。今反省したら即消去して絶対に思い出せないように記憶自体を消してやる!」と意気込めば意気込むほどまた翌日もいみったらしく記憶の片隅から蘇ってきて「本当に、もう!」と思ってしまうことって皆さんありませんか?しかし長い目で見るとそのような些細な忘れ去りたい記憶は近未来にはほとんどと言っていいほど引き出しには収納されてないはずです。これが今回の忘れることの大切さの真意です。そこで再び話は最初に戻りますが、一瞬で記憶のタッグ付き引き出しに収納してしまう天才君たちはもしかしたら忘却したいのにできないのでは?と言う我々とは反対のバトルを頭の中で繰り広げているのではないか?もしそうだとしたら天才君も逆に大変だなあといらぬ関心をもったわけです。

忘れることの大切さは一定量の記憶を脳に負担をかけないためにどうでもいいと脳が判断したことは嫌でもいつの間にか忘れて脳の記憶のバランスをとっているわけで、それに反して必死で年老いた脳を駆使して記憶しようとすることは更に大変なことなのでしょう。

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マイナンバー法が施行されて

今月からマイナンバー法が施行されました。ニュースなどで盛んに取り上げられていますが、まだ実生活に影響がないためにピンときません。いずれジワジワと良い影響と悪い影響を実感していくことでしょう。今回そのマイナンバー法の功罪について勉強会がありました。そもそもマイナーバーの目的は国民一人一人と企業に12桁の背番号をつけるということです。つまり国からすれば名前なんてどうでもよく番号をつければ医療も社会福祉も税金も全てとりっぱぐれなく平等かつ公平にできるという発想です。民主主義の平等社会ではこの発想はとても大切で重要です。大義名分に異論はありませんが、総論賛成でも各論を見渡すとたくさんの不備が存在して不平等なこともありますので各論反対となり、いつもの与党対野党の対決になるのです。その不備について今回の勉強会で知ったことをいくつかお話します。

まず財務省や国税庁は脱税抑止力強化目的と言いますがこれは事実でしょう。正直者がバカを見る世の中ではいけません。消費税については先日財務省が提案したマイナンバーを利用した還付税方式は消費者、弱者、国民の全ての痛み分けの様相でしたが、軽減税負担という公明党の公約とは意に反するため却下。なかなか全ての利害関係をまとめるのは困難です。また医療福祉などのデータ利用については国民の健康の一元管理で国の医療費財政負担を軽減しようとする厚労省の念願で、目的からすればいいに決まっています。またいつの間にか忘れ去られた総務省から出された住基法も誰も責任を取らずにうやむやになってしまいました。マイナンバー法は全てお役所から見て都合の良いことばかりですがしっかりと活用されれば国民にとってもいいことは多くあります。一方でこれほど素晴らしいものなのに批判が多く出るのはマイナンバーを悪用された時の対策不備です。必ず世の中には悪人がいます。その極悪人が情報を盗んだら、盗まれたやつも悪いので罰するのです。だったら年金機構がまずお手本になって罰せられなければなりません。しかし現状ではそこもうやむやです。つまり国民のためを思って厳しいルールを作ったのにその法律が逆に悪いことされた場合には盗まれた被害者も悪いから罰する法律なのです。だったら法律を作った人たちも不備があってうまくいかなかった場合はその作成者の責任も厳しく問われるのが筋と思うのですが皆さんはどう思われますか?その部分はいつも闇の中に葬られて時間と共に忘れ去られてしまいます。いつぞやベネッセの情報流出も明らかに盗んだやつが悪いのにもかかわらず、社会的には盗まれたやつも悪いとなったのはまだ皆さんも記憶に新しいでしょう。マイナンバー法はその個人版といっていいのかと思います。

いつの世も盗まれることはあります。その時に盗まれたやつも悪いという場合は年金問題のようにずさんな管理の場合は論外としても、同時に盗まれた被害者を守る法律も必要ではないかと思うのです。表から見ればいいようでも裏から見れば滅茶苦茶ということを多く見てきた国民はすぐに「はい、そうですか」とは言えないものです。

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