長崎を訪れて~その1~

先日1泊で長崎を訪ねてきました。5月に27年ぶりの旧友と再会して今度長崎に行ってみたいと話していたらとんとん拍子の進展となりました。博多から長崎へは特急で行きますが、15年前に子供たちを連れてハウステンボスへ行って以来生まれて2度目の長崎訪問です。通常は新幹線や飛行機利用がほとんどで特急に乗るのも15年ぶりです。とても新幹線のありがたみを感じる瞬間です。長崎新幹線の開業の矢先には徳山から長崎まで多分2時間強で着くのではないかと思います。そんなことを考えながら特急に乗って2時間で夕刻の長崎に到着です。今回の日程も時間があまりなかったのですが、いつも鎖に繋がれた地元を離れて自分を見つめ直すリフレッシュするためのふらっと一人旅です。

今回の訪問は友人のライフワークである在宅医療を少しだけ垣間見せていただく目的もありました。これからの日本は超高齢化社会になるため在宅医療を増やそうと国はやっきになっています。しかし地域の個々が勝手に在宅医療をやっても非効率的で結局は個々が疲弊します。その解決策を日本で真っ先に先端をきって実施しているのが友人たちの長崎の開業医グループなのです。でも友人からはそんな在宅医療をやるなんて話はそれこそ20年前に親父さんが亡くなって医院を継承した時は全然考えていなかったそうです。しかし勤務医が開業してぶつかるギャップがあります。その一つが在宅医療なのです。勤務医は自分の病院に入院させればよいし、自宅で悪くなれば救急車で病院に患者さんを来院させればいいだけのことです。ところが開業するとそれが患者さん宅に訪問する医療が始まるわけです。いきなり依頼されて伺う往診やもともと持病があり通院困難な患者さんを定期的に伺う訪問診療があるわけです。どちらにせよ医師が出向いていく医療なわけです。いつも患者さんに説明してもなかなか理解してもらえないのですが、医師はスーパーマンではありません。往診したってレントゲンなどの医療器具がなければ医師のできることって本当の初期対応のみなのです。典型的な例をあげてみますと、よく海外旅行に行くとき太平洋のど真ん中の上空の機内を考えてみましょう。機内アナウンスで「急病人が出ました。誰か医師はいらっしゃいませんか?」と機内アナウンスされることがあります。私の場合運よくそのような場面に出くわしたことはありませんが、もしそのような場合自分ができることって患者さんの話を聞いて血圧を測定して聴診器で診察するくらいでしょう。また非常救急処置にある点滴で血管確保をするくらいがせいぜいです。もし心肺停止状態ならひたすらAEDを使いながら心マッサージしかできないのです。つまり医師なんて知識はたくさんあってもその場に最新の医療器具がなければ実力の半分どころか10分の1すら発揮できないかもしれません。そんなこんなの在宅医療が実際はこれからの超高齢化社会では問題になってきているわけです。今回は長崎旅情のブログを書くつもりだったのにいつのまにかさらさら日記風の時代を斬る話題になってしまいました。習慣は怖いものです。続きは次回にしましょう。写真は長崎一望です。長崎市

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急がば回る亀は兎に勝てるか?

急がば回れという諺があります。先日の事、暗い夜道を歩行者信号が点滅し始めたので急いで渡ろうとしました。そこまではよくある話。通常は通らない道でしたが、たまたま点滅信号についつい惹かれてしまったのでしょう。ダッシュして渡り切ったのは無事成功だったのですが、その後がいけない。慣れない夜道のため歩道の法面が見えてなかったのでダッシュのまま法面に突っ込んでヘッドスライディングとあいなったわけです。しかしまだそれなりの運動神経と反射機能は保たれています。うまくアスファルトの上に滑り込みました。両手や膝などが血だらけです。数年ぶりの大怪我となってしまいました。これがあと20年もして転倒すると大腿骨頸部骨折で寝たきり、認知症に進んでいくのかもしれません。転ばぬ先の杖とはよく言ったものです。人間はつい欲が出て目の前に人参がぶら下がると我を忘れて飛びつきます。その点からいえば知恵と感情を持たない生き物と同じレベルです。後で冷静に考えればちょっと急いだばかりに失敗して結局は無駄な時間を倍以上使ってしまったなんてことがよく起こります。それでも結果よければ全てよしとなりますが、最悪の場合取り返しのつかないことに発展することもあります。

そこで今回の石橋を叩いて渡るというよりもゆっくりとしか歩けないけれどもコツコツ型の亀か一気に駆け抜けてしまうけれども後先を考えずに暴走してしまう兎かということで昔からよく比較されてきました。またアリとキリギリスという喩えですが、外国ではキリギリスがどうも本当はセミだったらしいのです。いずれにせよ真面目に働くものが報われるということが事の結末ですが、外国ではいろいろと解釈があるようです。夏の間、歌を歌っていたセミがアリに「食べ物をください」というとアリは「夏の間ずっと歌っていたなら冬の間ずっと踊っていなさい」と言われたらしいのです。日本の場合アリがキリギリスに「さあどうぞ、召し上がれ。そして歌声を聴かせてください」でめでたしめでたしです。騎士道と武士道、そして宗教の違いでしょうか?自業自得で終わるか人類皆兄弟で終わるかでは国によっては天地の差でしょ。仕事でも勉強でも人間生きていく上では真面目にコツコツが理想です。その意味では個人的な意見として、亀やアリが競争社会で勝ってほしいわけです。しかし現実は全く異なり、赤信号で渡った者勝ちの世の中です。いずれどこかで綻びがくるはずと正直者は自分に納得させるけれども本当に最後は亀とアリと正直者が笑うことができるのだろうか?という結果主義の世でもあるわけです。

とかくビジネスでは要領の良い人間が先陣をきれば大勝ちするし、急いで近道をした者が得をすることは多いでしょう。学ぶことに王道なしとよく言われますが、これは努力したものが皆ではないが報われるという意味では平等だと思います。ただしその努力もしなければダイヤモンドの原石もただの石ころで終わってしまいます。最近では遺伝子解析が進んで遺伝子の良し悪しが努力を凌駕する可能性も指摘されていますが、努力なくして結果はでないのは事実です。私はアリと亀と正直者がやっぱり好きです。

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選挙制度改革で思うこと

最近選挙制度改革が叫ばれています。選挙権を18歳以上に改正することと選挙区の区割りによる1票の価値の平等化と国会議員数の削減などがあります。参議院は衆議院のカーボン紙と揶揄されて久しいですが、参議院の役割分担の明確化なども大切です。現政権は集団的自衛権ばかりに興味をもっているようですが、そのあたりの身を切る改革も実行してもらわなければ国民も納得せずについてこないのではないでしょうか?

まずこの国会で決まった選挙権の18歳以上への引き下げについて。これはほぼ与野党が一致して成立しました。海外でも18歳が大勢ということで異論ありません。しかし選挙権を新たにもつ人々、ちょうど我々の子供の世代ですが大丈夫かなという不安はあります。しかし不安だからダメというのでは子供は包丁を持たすと手を切るから持たさないで育てるといった意味と同じになるでしょう。だからこそ持たせることによってこれからの将来を担う若者に自覚を促す方が得策のように思います。しかし反論としてちゃんとした投票行動ができるのか?という意見も根強くありますが、「あなたが18歳のときはどうでしたか」と言って胸に手を当てて自分の昔を思い出してみればそんなに今の若者が劣っているなんて決してないと思います。そう思う人がいるとすればその人はよほど自信過剰家ではないでしょうか。どんどん若者に自覚をさせて日本の将来を託していけばいいのです。その他の1票の価値や議員定数削減についてはやってほしいのはやまやまですが、簡単に「はいそうですか」とはいかないと思います。少子高齢・地方の過疎化・大都市の若者集中というこれからの日本の抱える人口問題を解決しなければ一時的に数で凌いでも結局イタチごっこになりかねませんし、定数削減も国会議員の自己保身と地方と大都市の権力の奪い合いが関与するために難しい。また現在参議院の数において与野党の逆転に伴うねじれ国会で決まる事も決まらず、本当に参議院がいるのか?という議論も再燃しました。教育問題・原発問題など国家のこれからの未来の100年を決めるようなことは4年間身分保障された参議院が主体でことを決めて衆議院で追認するのがいいかなと思います。一方、喫緊の課題の外交・防衛や予算などは衆議院のみで決めて時代の流れに迅速に対応するのではいけないのでしょうか。それを衆議院予算委員会で全く関係のない議員への企業献金や補助金問題などを取り上げて与野党で上げ足をとりあっても時間の無駄だと思います。衆議院と参議院で役割分担した方がより迅速化されるはずです。しかし伝家の宝刀の衆議院の3分の2で再議決をすれば憲法改正以外は全て決まってしまいますが。

その他の問題では社会保障の中で医療費増加についても話題にしなければなりません。限られた医療資源で現在3割自己負担ですが、逆に言うと7割は互助会制度を利用しているわけですから厳しい査定や指摘が出てきます。ちゃんとした医療を実施しているにもかかわらず、ただ下げろと言われても困ってしまいます。病気を持つ高齢者が増えればどうしても避けて通れない難問です。

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大阪都構想否決

5月末に大阪都構想が住民投票で否決されました。そして橋下市長は年末までの任期を全うして政治家からの引退を発表されました。誠に残念な限りです。ここまではよくあることですが、今回は住民投票を真剣に考えて参加された大阪市民の方々の視線で考えてみたいと思います。本当に真剣に大阪都になるのが良いか悪いかを考えた末の結果があの僅差の接戦であったことがそれをよく物語っています。一方で自分の住んでいる街の将来を大きく左右する一大事であるのにもかかわらず棄権する有権者もかなりいたという驚きもあります。政治や選挙で物事を決めるときは最大の民意である多数決で1票でも負けたら負けは負けです。だからこそ歯切れの良い主張で民意を吸い上げてきた橋下市長は「勝つための戦を仕掛けて負けたのだから退くのは当たり前」と言われました。もっとものことだと思います。次回の選挙は国会議員であれ地方選挙であれ2万パーセント出馬はないでしょう。一方で多数決の場合、特に今回のように接戦の僅差の場合ですが、半分の市民の想いは無効となります。これも成熟した民主主義国家の「はい」か「いいえ」の二者択一での決定ですのでもったいないけど致し方ありません。今回の住民投票では「普段の橋下市長は好きだけどこの選択は受け入れられないのでNOに投票した」とか「行政の無駄をなくしたいからYESに投票した」など本人の市長への好き嫌いを超えて大阪市のために考え抜いた結果ですので否決に対しては尊重しなければなりません。しかし否決組はちゃんとした対案が出ていないので現状維持を選択したということになります。でもちょっと待って!現状維持が将来の大阪の借金を増やすからこの住民投票に持ち込んだのではなかったのでは?とするとただ振り出しに戻っただけでこれからも赤字体質は抜け切れないのではと思います。また総合区などの案が浮上していますが、それならそれで半分の民意が吸収できなかったわけですから改革を任期終了までは続けてがんばってほしいと思います。

今後の市政運営についてはたぐいまれな政治家である橋下さんを失うことは大阪市にとっては大きな痛手となるかもしれませんが、彼の今までの取ってきた行動をみれば負けるときは潔く身を引くという信条の持ち主のためそれはそれで尊重しなければならないでしょう。大阪の行政もそうですが、もっと地方行政は少子高齢化で財政負担はひっ迫していることにまちがいありません。なぜお役所というところは縦割り行政が得意で横断的に物事を見られないのでしょうか?これについては全ての職員の個々をさしているのではなく個々が公的な集団と化した場合は個の意見は封印されて長いものにまかれなければうまくいかないのかもしれません。それは民間でも同様で組織に属した経験のある方なら多少ともわかるはずです。でも赤字を続けるわけにはいかない。これも真実である。いずれにせよそのような重要な自分たちの未来を選択した大阪市民はより一層その住民投票結果に対して責任をもたなければならなくなったわけです。我々の地方も大阪に見習って成熟した民主主義へ成長していかなければなりません。

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恩師は今?

同窓会をすると必ず恩師を呼びます。恩師も是非教え子に会いたい気持ちはあり会に呼ばれれば喜んで来てくださいます。ちょうど自分たちが恩師と同じくらいの年齢を重ねたときに恩師は更に先を行かれています。亡くなられた恩師もかなりいらっしゃいます。しかし自分の教え子が立派になったのを見届けることも教師という仕事の素晴らしい一面でもあります。3年前に中学の同窓会をしたときには中3のときに7クラスあったので恩師は7人。しかし2人は亡くなられていました。残りの5人の先生にはお会いしてビデオレターを作成して当日の会で流しました。小学や高校時代の恩師を含めると一人の人間が成人していくまでにたくさんの恩師に出会います。どの恩師もそれぞれ個性豊かでしたが、恩師と同じ歳になって初めてあの当時恩師がされた仕草やビンタなどの行動も含めて「あれ、おかしいんじゃね?」ということも多々思い浮かんできます。以前中学の同級生と恩師とで飲んだときに「先生、放課後に校庭を走らせて、ちんたらと走ってしばかれて鼻血を出したあの光景覚えていますか?」と聞いたら即座に昨日の事のように「よく覚えてるよ」と言われた時にはびっくり。「一瞬の記憶のフォトショット」は誰しも共通のようです。

今までの恩師で是非一度お会いしたい先生が一人いらっしゃいますが、その恩師の現在がわかりません。どんな先生だったかといいますと、小学3年の時に大学卒業されて最初の赴任が富田東小の我々のクラスを担当されたN先生です。先生は当時の青春テレビドラマを地に行くような先生でした。今よりおおらかな時代でしたし、教師1年目だという理由もあったのでしょう。夜の小学校にクラス皆で泊って肝試しをしたり、日曜にハイキングや山登りに行ったり、放課後には率先して校庭で生徒と遊んだりして下校時間を過ぎることも度々でした。多分当時の校長先生は寛大だったのでそのような型破りな先生の姿を温かく見守ってくださっていたのだと今でも信じています。しかし職員室という狭い大人の世界ではいろいろと軋轢があったことは当時の子供でも予想はできます。結局、2年間の赴任で田舎の分校に転任されていきました。時は流れても先生のその後の噂は聞かれませんでした。大人社会の常識につぶされたかどうかも定かではありません。ネットで氏名や職業を入力して先生のその後を検索してみました。すると所在がわかりました。やっぱりネットは凄い!最後は下関で校長先生をして退職されたようです。

現在は学校にモンスターが蔓延って教師自身もKYが多いと言われる時代ですが、そういう時代だからこそ自分でもそんな恩師にもう一度会ってみたいと思うのでしょう。一瞬ですが連絡してみようかと頭をよぎりましたが、オレオレ詐欺と勘違いされそうです。やっぱり過去の永遠に残しておきたい大切な記憶のフォトは、そのまま玉手箱を開かない方がいいのかもしれません。電話すると受話器から白い煙が出てきて私の髪が真っ白に変わるかもしれません。スパイ大作戦ならカッコイイのですが。連絡しなかったこと、それは自分が少し大人になったからかもしれません。

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