入寮

長男が高校生になりました。今までは電車通学していたのですが、今回から男子寮に入ることになりました。なにせ通学時間がドアtoドアでおよそ1時間半近くかかります。1年365日で長期休暇などを除いても毎日往復3時間で200日は通学します。すると年間600時間の通学ロスタイムが発生する計算になります。あくまでも計算上のことですが、ここからもし1時間睡眠時間が増えて2時間勉強時間でもいいし趣味でもいいしクラブ活動でもいいから自分のための時間をひねり出せれば6年間で一体どれくらい有効活用できるかという問題について以前から家族で話し合ってきたのですが、なかなか実現できなかったわけです。600時間 x 6年 = 3600時間。勿論、このような「もしも・・・・たら」と机上の空論を掲げても何にもならないのですが、やっていないからこそ余計に空想が膨らんでしまうのが人間の性というものでしょうか。以前から入寮のチャンスは何回もあったのですが、本人が嫌だと言ったり、学校の先生が中学生のうちは自宅通学が良いと言われたりでなかなかよいタイミングが訪れませんでした。やっとこの春に晴れて中学卒業とあいなりましたので、ここぞチャンスとばかりに言い出すタイミングをこの半年ずっと推し測っていました。すると長男から寮に入りたいと2月頃言い出しました。そこで学校に問い合わせると入寮可能人数ギリギリで即答できないと言われてこの春休みまでモヤモヤ状態が続いていたわけです。こちらとしては学校に「入寮は遠方から優先せよ」と言いたかったのですが、あまり主張が強すぎると私が最も忌み嫌っているモンスターに自分自身が思われたくないのでここはほどほどに黙っていました。仮にダメでもいずれ1年後には欠員が出るでしょうし、そこまでは親も子供も600時間の修行時間が増えたと思えばいいと思っていましたところ、運よくギリギリで遠方優先していただいたのか?めでたく入寮できることになったのです。やはり果報は寝て待てでしょうか?この場合は少し意味が異なりますが、結果オーライです。

なぜ入寮させたかったのか?といえば物理的な理由は時間の節約ですが、もっと大きな意味があり、それは子供の生活習慣の自立です。昨年ニュージーランドに半年留学に行きそれまでは洗濯や食事の準備など何もできなかった長男でしたが、自立を促される環境下に置かれれば自然にできるようになります。しかし帰国して実家にいると何もしません。そういえば30年前に何もできなかった自分がいきなり上京して大学生活を送り始めたら曲がりなりにも自炊生活までできるようになったのと同じだなあと感慨深くなりました。人間追い込まれれば何でもできる典型例と言っていいでしょう。それともう一つ、青春時代に同じ釜の飯を食って勉強したり遊んだりして24時間共に過ごすなんて大人になってから振り返ってみたら素晴らしい経験だと思います。自分も今でも可能ならば寮生活をしてみたいです。大学生時代に寮生活はできなかったけれどもクラブ活動を通じて年2回は合宿生活を6年間体験しましたが、今ではとてもよき思い出となっています。今回の掲載写真は小学校の想い出のつまった桜並木道ですが、今も昔も変わらず子供たちを見守り続けています。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

カテゴリー: 日常のこと | コメントする

大部屋の良さ

最近は核家族世帯が増えてきて旅行をしても4人部屋でもスペースが十分余ります。なかなか2世帯7人で一部屋というのはありません。どうしても二部屋に分かれるか大人数でも可能な特別室を用意している旅館やホテルは限定されます。中高の修学旅行は今でも大部屋なのでしょうか?もしかしたら東京などへの修学旅行だったら4人部屋で夜は枕投げをしているのでしょうか?そもそも枕投げという言葉自体が死語になっているのかもしれません。私の中学時代の京都と奈良の修学旅行では一クラス40人で男女別で確か20人くらいの大部屋だったように記憶しています。もしかしたら10人だったかもしれません。いずれにせよ、枕投げをするには十分の人数と広さでした。今思い出しても楽しかった記憶が蘇ってきます。子供部屋もしかり。家庭でも子供の数が減っていくうちに個室の勉強部屋の確保も可能な時代になりました。我が家は一部屋に3人まとめて長女が高校卒業まで高校・中学・小学生の3世代勉強部屋にしていました。最近は子供部屋に閉じこもって勉強すること自体ナンセンスで小学生はリビングで母親と一緒に勉強しましょうといわれる時代です。そして中学生や高校生になるとスマホやiPodを持って勉強部屋で隠れてラインやパズドラをやっているかもしれません。そのような時代ですから尚更人目につきやすい大部屋でお互いの目に触れさせながらの子育ての方がよいのではないかと思います。

3世代住宅といっても階によって世代が異なる場合も少なくないでしょう。うちもその口です。だから旅行に行くときはなるべく大部屋を事前に予約して行くようにしています。今回も年に1回行けるか行けないかの3世代1泊旅行に行ってきました。昨年行った油谷の楊貴館が海を間近に見ることができて尚且つ7人が一部屋に入れるのが魅力でした。それと昨年は残念なことに夕日が見ることができなかったのでリベンジもこもっています。そして今回は弟家族も4人で参加です。私は弟と二人兄弟ですので両親からすれば子供家族と孫まで引き連れて1泊となれば冗談でも「冥途の土産に十分でしょ?」と言いたくなります。人間の命なんて宇宙の暦から考えればちっぽけなものです。生命、肉体なんて物理学からいえば元素記号の集まりでそれが物体を作り出しています。そして感情もない物質になるか、タンパク質を伴った生命になります。そしてその一部が感情を持った生命体として生きています。しかし命は限りがあります。限りがあるからこそ、その炎が燃え尽きるまでにどうしてもやりたいこと、若しくはやらねばならないこともあります。この大部屋旅行はそのどうしても個人的に今しかできないことでやらなければいけないことなのです。もしかしたら1年後には自分の父親は86歳で物理的に存在してないかもしれない、そんな思いがあるので一昨年も昨年もこれが最後と思いながら繰り返し大部屋旅行を楽しんでいます。来年はどうなるやらと思いながら。

今回もお気に入りの昨年と同じ大部屋を予約して今その夕日を眺めている瞬間です。限りある命、そして何事もなかったかのように翌朝には日がまた昇っていきます。

楊貴館

カテゴリー: 日常のこと | コメントする

バックトゥザフューチャーは2015年へのタイムスリップ

1985年か1986年でした。当時の新宿のミラノ座でBack to the Futureを観ました。ちょうど大学4年の時でした。そのミラノ座も名残惜しくも昨年閉館してしまいました。時の流れには勝てません。その当時は個人用のワープロがNECから発売され、大きさは小型テレビくらいの大きさはありましたが、それ以前のタイプライターと比較すればかなり使い勝手のよいものでした。そのワープロは普及しつつありましたが、個人的にはまだまだ手書きの時代でした。その時にいきなり30年後の未来にマイケル.J.フォックスがデロリアンを駆使して出かける物語です。その未来の世界では1985年当時では信じれない光景が待っていました。特に宙に浮くスケボーが印象的でした。さすがに当時30年後の自分なんてわかりませんでしたから夢の世界といっていいかもしれません。そして30年後・・・・

今年がその30年後です。当時の20歳が50歳になっています。世の中も全て30年の時が経過しています。宙に浮くリニア新幹線はこれから30年以内に実用化できそうですが、やっぱり宙に浮くスケボーはまだ開発されていません。今になって思えば未来のスケボーはリニアが前身であったのかもしれません。そしてこの30年間にPC関連機器の進歩は目覚ましいものがあり、当時の映画の内容を凌駕しているかもしれません。特にiPodやスマホは当時では予想すらできないほど小型化しています。とうとう春には腕時計型画面がアップルから発売されます。もしかしたら当時この映画を作るときにスピルバーグ監督はアップル創始者のスティーブ・ジョブズと将来を語り合っていたのかも?と疑うほど世の中は凄まじいスピードで進化していっています。また映画ではデロリアンに乗って50年代の過去にも行きます。それは今を生きている我々が1985年の過去に戻るようなものです。それは過去の記憶に遡ってあれこれ考えるようなものです。当時のバブルはすごかった。そして輝く日本の未来を全然疑うことすらもしなかったし、30年後には超高齢化社会になるなんて頭ではわかっていても実感が全く湧いてこなかった。それでもあの頃の日本は30年後の未来は明るいものだと信じていた。30年の時を経て現在、当時の考えは正しかったのでしょうか?現在50歳を過ぎたマイケル.J.フォックスはパーキンソン病という大病を30歳から闘っています。医学の進歩により昔だったらそのまま寝たきりになって社会復帰すらできない難病も今では普通の人と同じように生活することも可能です。私たちと同じように30年の時を経てマイケル.J.フォックスはどのように変わったのでしょうか? 彼が銀幕のスクリーンに再び戻ってくることを願わずにはいられません。

30年後の今年も早3か月が過ぎようとしています。今年も1月からテロ事件など暗いニュースが世界中を駆け巡りました。現実の世界では映画のようにはなかなかうまく事は運びませんが、もしデロリアンに乗って1985年に戻ることができてその当時の21歳の自分に会うことができたら何と話しかけるでしょうか?多分昔の自分に今の自分はこう言うと思います。「今のままでいいから真っ直ぐに進めばいいよ」と。

カテゴリー: 日常のこと, 趣味のこと | コメントする

東大入試問題の現代国語を読む

東大入試問題と聞いて身を引く方も多いと思います。かつて受験生の時は「なんでこんなやっかいな訳のわからない文章を東大に行くやつらは理解できるのだろう?」と同級生のトップ達を羨んでいました。私の小学校から高校までの友人で東大に現役で行って就職は松竹に入って(当時東大を出て松竹って結構変わってんなあと思いましたが)その後は北野たけしオフィスで今も働いています。現在は映画評論家なるものをして業界では有名人ですが、そんな彼も昔から読書は好きでした。一方私は典型的な活字嫌いでしたのでそこが東大に行けなかったか理由かもしれません??今では知的な楽しみとしていろいろな本を読みますが、よくあるビジネス攻略本や週刊誌の特集は表面的な仕事の手段として利用できますが、人生の羅針盤にするには物足りません。一方で新刊本の方が自分にとって人生への示唆をより与えてくれるような気がします。とは言っても週刊誌より値が張るため元を取るために必死に考えじっくりと読み込むことの違いからくるのかもしれません。

最近今回の主題の本を3冊続けて読みました。なぜこれらの本を選んだのかですが、過去の受験で国語が苦手だったことと最近の中学受験国語問題(とはいってもレベルは高校や大学入試レベルの文章で、設問を中学生レベルに合わせているような感じです)を読んで自分がタイムスリップして小学生に戻ったらもう一度チャレンジしてみたいと思っていたら本屋さんで目にとまったわけです。その本の前書きにも「知的好奇心を満たしたい人」とか「現代を生き抜くために教養を身につけて、新しい時代を生きるための指針を求めたい人」には是非と書かれていて、自分へのタイムスリップリベンジとやるなら東大の受験国語のレベルを是非に垣間見たくなって飛びついたわけです。

読んでみると難解な言葉もたくさん登場してきますが、人生50年生きてきた経験からでしょうか?何となく著者が言いたいことがおぼろげに見えてきます。若くて経験が浅く浅学な高校生の自分が決められた時間内に合格というただその目的のためにだけ挑戦していたなら全く歯が立たなかったに違いありません。しかし人生の航海をして経験を積んできた者がゆっくりと制限時間にとらわれずに味わうように読んでみると本当に示唆に富んだ内容なのです。これからの自分はどのように生きていくべきか?自分が満足できて更に社会にも貢献できるか?という疑問が自分の頭の中で整理されていきます。結局人間は一人では生きることはできず必ず相手が必要で動物とは異なる知性や感情を持ちそれをいかにコントロールして対処するかというテーマ、未来永劫普遍的な生物にとって避けては通れない生と死のテーマ、常識と思うことが実は非常識でしっかりとした眼力を持たなければならないというテーマなどが多く取り上げられています。自分の先が見え隠れし始めるとその境地がわかってくるからでしょうか?感覚的にそのような難解な文章でもわかるような気がします。とっつきにくい文章かもしれませんが、そこらに転がっているハウツウ本よりは自分自身の内に問いかけている文章のため自身の心の血や肉になります。

カテゴリー: 日常のこと | コメントする

川崎の痛ましい事件から大人は何を学び行動しなければならないか

もう川崎の痛ましい少年の殺人事件から1ヶ月が過ぎようとしています。テレビや新聞では毎日のように事件の動機や背景を報道していましたが、最近はあまり聞かれなくなりました。また河川敷にはいまだに多くの人々が献花をしています。子供を持つ親からすれば被害者のご両親はショックで声も出ないと思います。この事件の背景については十分わかってきましたのでここではコメントしません。それよりも子供を持つ親として更には社会の大人たちがこの教訓をどう将来に生かさなければならないかについて今回は考えてみます。まず自分たちの子供時代と現在の決定的に異なる点はたくさんありますが、その中でも今回は希薄になった社会に目を向けてみます。いつもならネット社会が悪いだのラインが悪いだの私の個人的な意見にもかなり偏りがありますので、デジタル社会には触れないでアナログ社会つまりムラ社会に焦点をあててみましょう。

私が小さかった頃は誰かがイタズラをしたら近所の人から怒られることが多かった。家族以外に大きな意味でムラ社会全体が子供たちを見守っていた。そして学校でも悪いことをすればゲンコツを先生からくらっていた。これも今では体罰として扱われるが、時代の流れには逆らえない。偉そうな教育学者達が体罰は悪いとこぞって言うが、教育現場ではそれが萎縮教育に繋がっていないだろうか?もし体罰が悪いならば現在は昔ほどゲンコツがふるまわれていないのだから今回のような子供たちの残忍な暴力は減るのではないだろうか?しかし現実にはイジメや暴力は昔より増えて悪質化している。なぜだろうか?体罰を肯定するつもりはないが、愛のムチも時には必要ではないか?それともI (私)の無知なのか?最近は夜にコンビニでたむろっている少年がやたらと多い。コンビニが悪いのではなく、たむろっている事に問題がある。昔なら「お前ら、早よー、家に帰れ」と近所のおじさんが言っていたのだが、今では後ろからバットで殴られかねないので、ついつい大人の方が知らぬ顔をして通り過ぎようとする。「どうせ、あの連中に言ったって無駄だから」と勝手に理由をつけて。自分は聖人君主ではないし、金八先生や夕陽丘の総理大臣に憧れはしたけれどもそこまではなりきれないし、このつぶやきは自分への憤りでもある。もし自分の子供が関係すればなりふり構わず乗り込んでいくのだろうが、人様の子供にまでそこまでしようとは思わない。所詮その程度の考えが社会に蔓延しているのではないか?

これらの憤りは現在のデジタル社会や自分を含めた大人社会への不満でもある。「どうにかしなければならない」と痛ましい事件が起こる度に思う。我々が子供の頃よりは遥かに便利な社会になったけれども、子供たちの心はそれに伴い満たされているのだろうか?仮に満たされてないとしたらその部分に社会や我々大人が介入していかなければならないのではないか。「昔は良かった」なんて決して言わない。なぜなら今の大人の後ろ向きな敗北になるから。地域全体で子供たちを見守るムラ社会、これこそがこの根深い社会問題の解決に糸口を見いだせないだろうか。どうすればよいか皆さんも考えてみませんか?

カテゴリー: 日常のこと | コメントする