夏でもインフルエンザを疑うか?

ここ数年ゴールデンウィークが終わって、完全にインフルエンザの流行が終了しても38度の発熱で来院されてインフルエンザの検査希望をされる患者さんがときにいらっしゃいます。よくよく聞くと会社からインフルエンザかどうか調べてもらって来いとのこと。その時私はいつも患者さんに逆質問します。「もし会社から言われてインフルエンザの検査をするのならば、次回お盆でも発熱したらインフルエンザの検査をするのですね?」と聞くのです。私の質問を聞くと患者さんは「じゃあ。検査はいいです」とおっしゃいますが、難敵が陰に潜んでいます。その難敵とは会社の上司なのです。もちろん上司も素人ですから医学的知識はもっておられませんので、熱=インフルエンザという思考回路が梅雨の頃まで続いているのです。上司からの命令で「陰性であるとの診断書を出してもらって来い」とまで言われたら間に挟まれた部下の患者さんが困ってしまいます。その際はこちらも折れて「じゃあ、検査しましょうか」となるわけです。さすがにお盆には上司の思考回路も夏モードなのでしょうか?熱=インフルエンザということにはならないようです。もしお盆休みにオーストラリアに旅行されて帰国直後に発熱したら、医療側も「もしかしたら冬の南半球でインフルエンザをもらってきたのかもしれませんね」と説明するかもしれませんし、タイのように南国でもインフルエンザは時期によって流行するので、そんな可能性まで考えればきりがありません。よって最後の決めゼリフは「会社で机が隣の人や一緒にいる同僚や一緒に住む家族がインフルエンザに罹患しているならば検査が必要かもしれません」と説明して一件落着とあいなるわけです。

以前インフルエンザの診断キットや薬がない時代には「安静にして果報は寝て待て」と説明していたのはおよそ15年前で遥か彼方の過去の出来事です。続けざまに「インフルエンザの薬や検査キットがない時代にはあなたはそんなに大騒ぎはしてないでしょう?」とダメ押しで説明しますと患者さんもより納得してもらえます。このように一度便利な世の中になってしまうと人間は不便な過去をすぐに忘れてしまいます。そしてメディアはインフルエンザ脳症や薬の副作用での死亡の可能性があると「インフルエンザ=脳症=死亡=タミフルは恐ろしい」のような伝え方をします。もう少しメディアも事実を正確に伝えるべきだと常々思っています。インフルエンザもこじらせてしまうと高齢者は肺炎で死亡することが多く肺炎は高齢者の死亡原因で癌と共に上位を占めています。だから現在国は肺炎球菌ワクチンの高齢者の接種費用を補助しているわけです。限りある医療資源や薬は日本では国民皆保険制度という互助会方式で成立しているわけです。ですから不要な検査や治療を医師はしたくないのです。そのためには我々医師が国民の皆さんにわかりやすく啓蒙していかなければなりません。最近はテレビでも視聴者のためになる医療や健康に関する放送が増えてきました。以前の昼のワイドショーで「そんな重箱の隅をつつく話題なら放送しない方がいいのに」と思った番組も数えればきりがありません。

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コンビニ受診病

以前からこのような造語が公然と日本中で使用されています。もう広辞苑も認知して掲載しているのでしょうか?医療関係者からするとこの造語を聞くたびに世の中が豊かになり過ぎて感覚麻痺しているのではないかと思うのです。世の中の大病院が3時間待ちの3分診療とマスコミに叩かれて久しくなります。また人口30万人程度の地域には中核病院となる3次救急病院があります。これらの病院は今にも絶命するかもしれない救急患者さんを365日24時間体制で受け入れているわけで世の中にはなくてはならない存在です。また通常の診療所や病院は夜間になると軽症の患者さんでさえ自院では受け入れ体制が整わずに診察が困難なわけです。ですから我々も周南市の休日夜間診療所に出務して、微力ながら軽症な患者さんだけでも診察して地域医療に貢献しています。そのように現存する医療資源や体制で皆が可能な限りがんばってはいますが、コンビニ受診病という大病が社会に蔓延しているわけです。

そのコンビニ受診病とは昼間に仕事などの自己都合で病院受診できずに夜間に開いている救急病院を受診するわけです。健康保険を持ってあたかも昼間と同じような気持ちで受診します。全ての夜間の受診が悪いと言っているのではありません。夜間でも急にお腹が痛くなり生汗をかいて救急病院に家族が連れて来る場合や胸痛で動けなくなり救急車で来院という場合もあります。単純な風邪で昼間に都合がつかなかったからとコンビニに入る感覚で受診するような場合を指します。そのような患者さんを全て引き受けると3次救急病院は疲弊、パンクします。それをどこかのお偉方が医師は24時間営業当たり前のように言われると、さすがに限られた資源である医師は反発してしまいます。私も30歳頃までは島根県立中央病院で救急当直をしていました。勿論3次救急病院です。まずは自分が一人で診察して無理とわかればその専門の医師に来てもらうというシステムで、一晩のうちよく睡眠できても1-2時間で徹夜もザラでした。そして翌日は夕方まで通常の業務をこなしました。当時は医師なんてそんなものと若くもあり当然と思っていましたが、歳をとるにつれて疑問に感じ始めました。その過剰な時間外労働を労働基準監督署に申し立てれば法律違反になります。最近こそ労働基準に敏感になってきた世の中ですが、医療は治外法権なのでしょうか?そこで文句を言っても同じ医師の先輩である院長を困らせるだけで、それ以上に目の前の苦しんでいる患者さんが困るだけでしょう。その事実がわかっているからこそ黙って奮闘しているわけです。それでは民間企業のように値上げをすればといっても国が予算を握っていますし、毎年医師になる人数も決まっています。そして最後は貧乏くじのように残ったものが疲弊するのです。だからこそその大問題を解決するために今いろいろと模索されていますが、一度便利になった世の中は後戻りができません。先日埼玉の大学病院の救急医師が開業して365日夜間のみ診療所を開院したのをテレビで見て「かっこいいなあ」と思いましたが、「未熟な自分には到底できないなあ」とも思いました。

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国民と国家、個人と国家~憲法記念日に寄せて~

故ケネディ大統領の演説「国家が国民に何をしてくれるかを欲するのではなく、国民が国家に対して何ができるかを考えて実行することのほうが重要です」という名演説がありますが、個人的には非常に好きなフレーズです。とかく現在の世の中は自己責任が強く求められながらも、一方で他人に責任を押し付けることも多く、国が悪いとか行政が悪いといえば何でも通るかのような風潮があるような気がしてなりません。国家は国民を守らなければなりませんが、国民はあまりにも国に依存しすぎているのではないかと思います。では国家はどうかというとこれもしかり、理不尽なことが多々あります。この理不尽さも突き詰めていけば官僚や国会議員など個人の集まりが烏合の集団になり勝手な思惑で構成されています。彼らも個人からみれば国民のうちの1人で何の権力も持たないのですが、一旦国家という蓑を装着するといきなり権力者に変身して周囲を見渡すことができなくなります。皆が皆とは言いませんが、どうにかしてほしいものです。仮に変身するならば誰にでもわかる正義の見方に変身してほしいものです。

昨年、クリミア問題がありました。プーチン大統領がクリミア併合は国家が自国民を守るために欧米諸国との万一の戦争まで考えて核使用の可能性を検討したと言っています。もし隣人が殺されそうになったら米国と同様に銃をぶっ放してもロシアでは自己正当防衛が認められるのかもしれません。また国内の反体制派のリーダーが射殺されたときには大統領は犯人に法の裁きをかけるとは言っても死刑にするとは言いません。核の使用も法の裁きも国家元首という立場からすれば当然の主張でしょう。このように国家と言う蓑に覆われてしまうと戦争という殺人が正当化されてしまいます。一方で個人の立場の場合には大統領でも殺戮が容易に認められるとは到底思えません。国家という隠れ蓑は個人の価値観を覆い隠し常識とは完全に異なる考え方に向かってしまうようです。

このように相反する考え方は自分の中でも存在しています。仕事という社会的立場では社会や会社の立場での考えを優先させて言論の自由という個人の意見を押し殺すことが多いのですが、一旦家に帰宅して個人の帰った場合、ニュースなどでクリミア併合や国民と国家についての意見に関しては必ず右に傾く人もいれば左の人もいるわけです。これが個人でも国家のために尽くす場合と国家に対して要求する立場の違いになるのです。国家的主張が個人的主張より大きくなるのはどこの国でも仕方ないことで「我が国の国益を考えると・・」という常套文句がよく使用されますが、個人で考えれば「それはないでしょう」という非常識が国家間では常識になっていることに問題があります。この過激な主義主張がまかり通るからイスラム国が生まれて、最終的には大国間の第三次世界大戦勃発にもなりかねません。そんな世の中にしないようにするためには国民と国家または個人と国家の関係を戦後70年経過していますが、過去の大戦の失敗に立ち戻ってしっかり今一度考え直してみる必要があるのではないかと思っています。

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道徳の時間から道徳科へ
~ゆとり教育や英語教育の失敗もふまえて考える~

2月に文科省から小中学校で平成30年度から道徳という人間の基本的な倫理観を学ぶ授業が正式に「道徳科」に格上げされました。以前に防衛庁から防衛省に格上げされたような感じです。かねてから安倍総理は「愛国心」の大切さを強調されていました。まず日本のことをしっかりと理解して自国を愛することはとても重要で大賛成です。また読み物中心の道徳から考え意見する道徳に変えていくことにも賛成です。他教科でも英語教育が文法や読解中心だったため結局は大人になっても英語がしゃべれない、聞けないという弊害がずっと指摘されてきました。そして最近になってやっとTOEFLだとかTOEICなどの重要性が叫ばれて小学校で英語教育が始まります。過去の教訓を生かして試行錯誤しながら前に進んでいくことは尊重しなければいけません。でもちょっと待って。英語教育の早期からの重要性はもっとものことで論を挟みませんが、日本語がまだあやふやで基礎がしっかりできてない子供に一律に英語教育を施してしまうと、それはまた10年後に失敗する可能性が大きいのでは?と思います。うちの長女の頃に文科省がゆとり教育などと馬鹿げたことを言いだして結局失敗したことはもう遥か彼方に忘れ去られているようです。我々の頃は英語の読解が中心で読み書きができれば聞くことやしゃべることができなくても問題はありませんでした。個人的には徹底的に英語の読み書きをさせてもらったおかげで今でも医学文献などを読むことは結構簡単にできます。現在はグローバルだから聞くことができてしゃべれなければいけないと皆が右向け右のように言います。本当にグローバルな職業の人には必要ですが、それ以外の大多数の日本人に必要なのかどうかは疑問です。もし海外に行きたければそこから始めても悪くないし、基礎部分としての聞くことや話すことを小学生から始めることはいいことです。しかしその前に日本語の語彙や言葉の使い方などを徹底的にやってから英語を始めた方がいいと我が子を見てつくづく思います。我が子が通った中高は「英語を勉強する」ではなく「英語で勉強する」がうたい文句ですが、その前に「日本語をしっかりと使えた後に」という文言を入れた方がいいと思います。

さて最初の本題の道徳教育ですが、イジメ問題も授業で取り上げるとしていてその点に関して全く異論はなくどんどんやってほしいです。ただ教える側の大人社会には「本当にイジメは大人社会では存在してないの?」という疑問がいつもつきまといます。社会にでたらイジメのような境遇を見かけることはどこの職場にもあるはずです。むしろない方が異常であるといっても過言ではありません。外交ではイジメではないけど仲間外れはよくあることで自己中の国や民族なんて当たり前です。そのような現実を鑑みながら小学校の考える道徳で「イジメは悪い」と教えることは三つ子の魂百まで忘れずと言われるようにとても大切なことです。しかし教える側は困難なことがたくさんでてくるでしょう。それでも考える道徳は大切なことで半歩前進です。あとは教える側の身勝手な大人たちが現実社会の階段を更に一段昇って成長できるかにかかっていると思います。

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ブログ200回記念;4コマ漫画の作者の気持ち

とうとうこのブログも週1回執筆して200回目到達です。以前から1000回目到達には何年かかるだろうと思っていました。ざっと計算すると1年が52週ですから1000÷52はおよそ19年になります。ということはあと15年ブログを書き続けなければなりません。200回でさえも最初から考えればかなりの実績です。作家でもない素人の私がホームページを作ってブログを掲載したらと言われて軽い気持ちで始めました。言われるがままに始めたのである意味では後先の事は全く考えていませんでした。朝日新聞では現在朝刊の4コマ漫画でいしいひさいち氏の「ののちゃん」が連載され6000回を超えています。たしか私が医師になって1年目の秋にサトウサンペイ氏の「フジ三太郎」8168回で終了しました。1965年から1991年まで続いたそうですからかれこれ26年になります。その後「おじゃまんが やまだ君」の主人公を題材にした「となりのやまだ君」で連載スタートして、その後に1997年から妹の「ののちゃん」に主人公が変わったと記憶しています。ですからかれこれ24年近く続いているわけです。本当にすごいことだと思います。最近同じように毎日新聞で東海林さだお氏の「アサッテくん」が終了しました。なんとそれは1974年から昨年の大晦日まで続き13749話の日本最長記録でもう絶句です。そして作者の連載終了にあたっての感想がまた印象に残っています。毎日が連載のプレッシャーに追われていて体をこわすのではないかと思っていたとのこと。私とは全く比較の対象にはなりえませんが、その気持ちだけは200週間かかさず原稿を書いてそれも締め切りに間に合わせるようにプレッシャーがかかるため必死で努力してきましたので爪の垢程度はその気持ちがわかります。

なんでもそうですが、初めの一歩を踏み出すにはとてつもなく勇気が必要です。するとしないではゴールから見ると0か100の天と地の違いほど異なります。そしてそのとてつもない遠い初めの一歩を踏み出すと結構そのまま試行錯誤しながらもうまく走り出すことって多いでしょ。そして振り返ってみるとその時はかなり遠くまで来ていてスタート地点が見えるか見えないかです。その頃になってどっちに曲がろうか?やっぱり引き返した方がいいのでは?と思い始めます。まだスタート地点が見えるから。しかしそれを振り切って沖に漕いで出ていって自分の住んでいた大陸が見えなくなったら「もう前に進むっきゃない」と腹をくくるでしょう。それからは自分のハートとの戦いが始まります。「継続は力なり」と呪文のように唱えながら前進あるのみです。そしてそのプレッシャーからの解放されるとき、それがその大海原の航海の終着港になるわけです。その終着港は1000週を目標にして頑張っていきたいと思っています。そのときはこれから15年後の夏でちなみに66歳になる予定です。元気に癌にもならずに生きていたらの話ですが、こればっかりは神様しか知りません。またその時は周りの家族の風景も相当変わっているはずです。まだまだそこまでにはいろいろな家族や周囲の方々の人生模様を見ていかなければならず、たくさんの一里塚を通過していかなければならないでしょう。

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