壊れたバケツに水を注ぐ

ここに古びたバケツがあります。バケツは錆びて底に穴があいています。昔はなみなみといっぱいに水がそのバケツに入っていたのですが、時が経つにつれて底の穴から水が漏れて現在に至っては水が半分程度残っています。そこであなたはこのバケツに水を入れて更に貯めたいと思いますが、どのような手段をとりますか?一番はバケツを買い替える。二番はバケツの穴を塞ぐ。三番は漏れる以上に水道水を注入する。これを書いているうちに福島原発の冷水注入をイメージしてしまいましたが、今回は原発事故のことを書きたいのではありません。仕事でも商売でも学習においてもこのようなケースは多々あります。例えて言えば自分の脳みそに新しいものを吸収させるためにはある程度の脳のキャパは決まっているけれど、少しでも右肩上がりに向上させたい。いつまでも上がり続けることはなく、いつかはジェットコースターのように急降下することがあるかもしれないけれど、それでも今の自分を向上させたい。しかし歳をとるにつれて記憶が忘却の彼方にいってしまう。あたかも綻びた穴から水が漏れ出ていくように。しかしそれでも新しい知識をどんどん吸収していきたい。そのようなイメージのバケツを想定しています。

昔の自分なら即座に買い替えると答えていました。今の自分なら穴を塞ぎながら少しずつ水を注入していくと答えます。なぜか?若い頃は先のことは見えないけれども、何でもできるという自信と過信で突っ走れます。それがまた前進する原動力になっています。だから駄目なものは思い切って替えてやろうと思ってしまいがちです。しかし社会人になり一定の年数と経験を備えてくると、効率よくしかも経済的に対処するには、まず修繕して様子をみる。それでも水がたまらなければ水を注いでみる。それでも駄目なら交換も検討するといったところでしょうか。ここまでならよくある解答でしょう。しかし以前に福岡伸一先生の動的平衡を読んだ時から少し考え方が変わってきました。動的平衡については以前も話題に出ましたが、簡単に言えば食べたものが体の一部に置き換わり、同時に絶え間なく体の一部の古いものが体外に出ていく。そして全体としては一定の体を形成し続けているという内容です。その結論から考察してみると、バケツの穴を塞ぐけれども完全には塞がないで水道水をゆっくりと注ぐこということになります。そうすることによって限られたキャパを有効に使いながら不要なものは整理して捨てながら必要な新しい水を注いでいく。割合で言えば1:2で注水を排水よりも若干多めにして少しずつ水が貯まるようにする感じでしょうか。あたかもダムの放水のように見えるかもしれません。またその割合が2:4でもいけません。その割合の比は同じであってもその回転数を維持するためにより多くのエネルギーが必要になるからです。

人間は必ず老いてゆきます。また人生は上り下りの連続です。ときにレールからはみ出すこともあるでしょう。しかしアルツハイマーになるかもしれないスカスカの脳をいたわりながらも水を注ぎ続けていかなければなりません。

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記憶と理解

最近、記憶しようとしても記憶できないことが多くなりました。認知症患者さんが朝ごはんを食べたのに食べてないと言い張るほどの記憶低下ではありませんが、頭の中で物のイメージができるのに名前が出てこない、典型例では人の顔は思い浮かぶのに名前が出てこないあのパターンです。電話番号を言われてとっさに記憶しようとして周囲にメモ紙がないので何回も復唱しても覚えきれない自分の限界を知り始めたため、こじつけで数字言葉を作ったりします。鎌倉いい国(1192)という昔の年代暗記法ってやつです。また簡単な暗算ならいいのですが、買い物で千円単位の物を複数買って足し算をするまではどうにかなるのですが、それに1.08の掛け算をしようとするとついついケータイの電卓機能を使ってしまいますよね。昔なら目をつむって暗算でがんばったのですが。40歳過ぎる頃から皆さんも多かれ少なかれ同じような経験があることと思います。昔、小学校でしていた「前へ倣え」方式で小学低学年が直立して背筋を伸ばして国語の音読をするような姿勢で文字を読もうとしないと今では文字が文字化けするようになりました。所謂、老眼です。

さてそこで私がこの歳で大学受験をするなら若者と同じように必死で暗記モノは記憶していくしかありません。夜寝る前に単語を覚えて夜間睡眠学習をして朝もう一度再確認をしてみる。そしてかの有名なエビングハウスの忘却曲線を利用して記憶したいことは習った当日に復習して翌日と1か月後に合計3回繰り返せばほぼ忘れずに記憶が定着するというやつです。これは受験対策のバイブルですが、我々中年にも十分に効果があります。自分が実際にしていますのでもし興味があれば詳しくはネットで調べてみてください。しかし昔はあれほど必死でいろいろな事象を覚えようとしたのに、現在はネットが発達してどこでもいつでも検索ができます。文学、哲学、数学、社会、政治、芸能などありとあらゆる情報が手に取るように即座に調べることができるようになって記憶する必要性が昔より少なくなってきたのも事実です。資格試験や受験ではこれから将来にわたっても暗記、記憶は重要な要素ですが、一般社会の我々にとっては過去に何かこれ見たことある、聞いたことあるという記憶さえあればネット検索機能で十分対応できてしまします。勿論、一度はしっかりと理解しなければ意味ないのですが、一度理解すれば忘却曲線の法則でそのまま彼方へと記憶はほぼ消えていきますが、ゼロにはなりません。「聞いたことはあるけど、たしかあそこら辺の本に書いてあったけなあ?」くらいでいいのです。あとは検索機能で頭の引き出しからその書いてある本棚を探して取り出して読み直せばいいし、もっと楽をしたければネット検索でその場はOKなわけです。しかしその機能をフルに発揮するには一度は完全に理解してなければダメなわけです。メディア機能の発達により我々は昔ほど記憶できなくなっても余りある機能が付加された現在ですが、それでも理解する重要性に変わりはないのです。ちょっとした頭の引き出しを作るために手帳にメモっておいたりすることは、記憶の重要な手助けとなる事実は未来になっても消えないはずです。

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今になって思う過去の自分の描いた将来

自分の将来なんてその時々の分岐路の決断によってその後の人生は大きく舵をきって変わっていきます。今から35年前の出来事。富田中学校を卒業して徳山高等学校に入学。「なぜそうしたの?」と聞かれても未だに明確な答えはありません。「皆が高校に行くから」とか「高校に行くのは当然だから」というのが15歳の人間のせいぜいの解答ではないでしょうか。しかし現在の自分に同じ質問をされても似たり寄ったりの答えしか返せません。

それでは大学に行くときには明確な目標や夢があったのでしょうか?少なくとも自分の周囲には多くの大学受験生の友人がいました。中には東大に行って映画監督になりたくて松竹に入り今では北野たけしオフィスで映画評論家をして夢をかなえた友人もいますが、ほとんどは数学が得意だから理系に行って今の偏差値からこのあたりの理系大学学部に行く程度ではなかったかと思います。しかし私のように医学部など特殊な学部の場合その学部学科を卒業しなければ絶対に法律上なれないわけです。つまり人生がたかが18歳から20歳そこそこで決定しまうわけです。一部例外で社会人になってから自分の夢をみつけて医学部に入り直す人もいますが、それは例外的存在なわけです。当時は理系でもパソコンなどがこれからという時代でしたので工学部電子学科などに人気がありました。

その後時が経て30年。数年前に高校の同窓会がありましたが、皆普通のおじさんやおばさんになり自分の卒業学科を生かした人生を歩んでいる者よりも、その当時からすれば「えーっ!?」いう人生を歩んでいる者も少なくありません。自分はといえば一丁前に(これって寺内貫太郎一家の名ゼリフです)医者になりましたが、「世の中の病める患者さんを助けよう」などという高尚な理由など当時はなく、親が医者でその背中を眺めながら足元には1本のレールが長く30年先まで続いているように見えたのです。「このレールに乗っかればなんとなく自分の人生を全うできるような幻想が見えていたのでしょうか?」今でも当時の解答は明確ではありません。人生の航海(後悔)は疑問の数珠をつなぎあわせているわけです。皆さんも本当に自分の夢や仕事をみつけたら必死でやるでしょ?しかし見つけることができない場合も多いのではないかと若い世代を見ながら思います。それでも20歳そこそこで人生の岐路に立たされてしまうのです。現在の長女や長男を見ていてそれが痛いほど伝わってきます。でも親として何も手を差し伸べてやることはでません。ただただ見守ってうるさいなと思われながらも小言やアドバイスのエールを送るだけなのです。そして「自分の人生の航海の岐路の決断は正しかったか?」と聞かれたら、今唯一言えること、それは「真面目に人生に向かい合って生きていけば最後はなるようになるさ、それが自分にとって良くても悪くても」という教訓だけは確かな気がしてなりません。これを読まれている方で「そんなことねーよ」と思われる方もいるかもしれませんが、最後は自分の人生はあくまでも自己責任であって他人がどうのこうのと言うことはできません。このメッセージが遥か彼方の彼に届けばいいなあと思っている初秋の頃です。

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小学校運動会は13回目

小学5年になった息子の運動会です。お姉ちゃんの運動会から数えれば小学校の運動会はこれで13回目です。毎年大きく変わることはないので出る種目などは大体把握できるようになりました。今年の目玉は何と言っても組体操です。昨今、組体操の事故により是非が問われることが多くなりましたが今年も存続しています。この組体操に参加するようになると子供が最高学年に近づいて成長してきた証でもあるわけです。40年前に私も東小6年のときに組体操をしました。当時は1クラス40人前後の4組あって6年全員だけでおよそ160人はいましたので6年のみでの組体操でした。最初の導入部分は今も昔も変わりありません。2人が下の土台で上の生徒は前の下の生徒の肩を持ち後ろの土台の生徒は上の生徒の膝を持ち上げて飛行機の完成です。2人で上の生徒が下の生徒の膝の上にのる定番のかかしもありました。昔の練習中に三段の櫓がくずれて友達が肩から落ちましたが、大きな事故がなくて先生も生徒も皆ほっとしたのはつい昨日のことのようです。昨今は運動会の花形である組体操もこのようなリスク回避のために中止せざるを得なくなるのでしょう。また体育の授業の柔道で近年事故の後遺症で車イス生活になるケースも少数ながらあるようです。ですから組体操の時は学校の先生が全員総出で各々のピラミッドを作っている上方の子供たちを見守っています。この子供たちが数年前に入学した時なんて組体操なんてできっこありませんでした。それがだんだんたくましく成長していくのです。

さて今年の組体操の始まりです。最初は逆立ち、勿論相手に足を持ってもらっての倒立です。今は何とかできますが、以前はそれすらもできませんでしたし、肩車も危なっかしくて見ていられませんでした。それから飛行機や5人扇など少しずつ難度が上がっていきます。最後に皆で一つになってアートとも呼ぶべきピラミッドです。それを見ると今年も無事に運動会が終わりに近づいていることを感じる瞬間です。そして締めくくりは紅白対抗代表リレーで最後に思いっきり風を切ってトラックを子供たちは駆け抜けていきます。うちの子供は足が速い方ではありませんのでリレーには出場しませんでしたが、徒競走もしかり、以前は「これって走ってるの?」という風な走り方しかできませんでしたが、高学年になってくると颯爽と風を切って走り抜けていきます。「やっと一人前になってきた」と感慨深げになってしまいます。

Blog2014.09.29-171

今年の運動会も無事終了しました。来年の最高学年の14回目の運動会を見るときには子供たちはまた一歩大人への階段を上っていきます。「まだまだ中学生じゃない」と人は言うかもしれません。でも思い出してみてください。じゃれついてきた小学生の頃が親にとって一番子供らしくてかわいかったことを。それが中学生になると少し横着になって反抗期も重なりまた違った意味で子供に接していくようになったでしょ?小学を卒業した上の2人を見るにつけてそれを感じます。最後の砦がまた一歩階段を上っていく姿を見ると本当にこの20年間は親にならせていただいたことを神様に感謝しなければいけません。

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ビール談義

どこの国でもビールは「とりあえず」という枕詞と共に愛飲されています。昔、中学生の頃に担任の先生が「ビールはあのホップの苦みがなんとも言えないほど美味しい」と力説していたことを昨日のように思い出します。当時はキリンビール一社ダントツの寡占状態でした。そして旧新南陽市にもキリンビールの瓶の製造工場があり同級生の親も工場に勤めていました。しかしもう10年以上になりますが、ビール工場が撤退して広大な土地だけが残り今ではショッピングモールに変わってしまいました。高校3年の体育祭の帰りに打ち上げで旧徳山市内の中華レストランに入って冷たい麦茶で乾杯しました。当時はウーロン茶もありませんでした。その時にたまたま高校の先生数名が入ってこられてあちらは勿論ビールで乾杯です。そのときの会話「あと数年で大人になったら必ずビールで乾杯になるけど、麦茶で乾杯なんて今だけで貴重だよね」は今でも忘れはしません。大学に入学して20歳を過ぎる頃になるとビールの味を覚えましたが、「なんでこの苦い飲み物が美味しいのだろう?」と素朴な疑問を持ち続けていましたし、バレーボールクラブのコンパではビール大瓶1本の一気飲みを上級生はしていました。当時の自分には到底できない芸当で現在そんなことをすると下手したらクラブのおとりつぶしになる時代です。ちょうど私が大学3年頃でしたが、アサヒスーパードライが一世を風靡して現在に至ります。しかしその時もあまり美味しいとは思いませんでした。

ビールが美味しいと思い始めたのははっきりと思いだしませんが、医者として働き始めて同僚と毎夜の遅くまで残業後の帰り際の晩飯がてらの「ちょっと一杯」の頃からでしょうか。その時も「お疲れ!カチン」というグラスの音に惹かれていたのかもしれません。その後もビールを飲み続けていますが、テレビで福山雅治が「うまいっ」というセリフを本当に地で感じ始めたのは開業してスポーツジムでおもいっきり汗を流した後に飲む350mLの缶ビールからだと確信しています。汗を流して喉がカラカラ状態であのビールの喉越しで初めて昔中学の先生が「苦みがうまいんだ」という表現がやっとわかりました。現在は世の中の価値観の多様化により発泡酒や第三のビールそして地ビールなど多く数えきれません。また最近は高級志向も重なって矢沢のえいちゃんがかっこよく口を逆台形のようにしてモルツの宣伝をしています。するとそれだけで今期のサントリービールの売り上げが跳ね上がってしまいます。以前一番搾りのガス付きサーバーをわざわざ買って飲んだこともある自分です。しかしいつの間にかガスもサーバーも姿を消してしまいましたが、今回は「シールを集めて送ればサーバー必ずもらえます」の宣伝文句に釣られました。盆までにモルツのシール集めてとうとう念願のサーバーが送られてきました。今回の写真はその送ってきたサーバーの最初の感激の1杯です。グラスは昨年四国に行った時のお手製の絵柄の砥部焼です。そしてビールが本当に美味しいと思う瞬間、それは楽しいことや充実感など精神的な満足感があってこそ「うまいっ!」と叫ぶことができるのだと思います。

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